夕張炭労事件


北炭夕張炭鉱

こんにちは。
今回は夕張炭労事件について、「池田大作の軌跡Ⅰ(潮出版社)」や聖教新聞の記事等を参照しながら、まとめてみました。

夕張炭労事件とは、創価学会を支持母体とする公明党やその前身である公明政治連盟が結成される以前に、創価学会の会員が初めて国政選挙へ出馬した際に、夕張炭鉱内で働く学会員が組合や坑内で働く他の労働者から受けた不当な扱いや仕打ちを指します。
創価学会が宗教団体として初めて国政進出を行った際に起きた迫害です。
現代においてなお、宗教団体の政治参加は必ずしも理解されているとはいえない面があります。まして当時はなおさらで、この夕張炭労事件の直後には大阪事件が起き、当時創価学会の最高責任者であった池田大作参謀室長が、選挙活動をする学会員に違法な指示をしたという疑惑が持たれ、不当逮捕されるなど、戦後初めて本格的な国家権力からの弾圧が容赦なく加えられていきます。この夕張炭労事件に続く大阪事件も無罪判決が出るまで5年もの裁判を要したのでした。


■政界進出および結党の流れ
1954年、第2代会長・戸田城聖先生が前年の参院選で選挙投票依頼を受けたことを機に「文化部」を設置。
1955年、文化部から全国初の創価学会員の地方議員が当選
1956年7月8日の第4回参議院選挙で創価学会は独自候補を立て、支援を呼びかける戦いを展開。3名の参議院議員の当選を果たす
    (この時起きたのが)夕張炭労事件 です。
1961年、公明政治連盟結成
1964年、公明党結党


■第4回参議院選挙 1956年(昭和31年)
創価学会から初の参議院議員選挙の出馬ということで、夕張の学会員は下駄の底がすり減るほど選挙活動に歩いたのですが、炭労が推薦する社会党候補と対立したことから弾圧が加えられました。
この頃、炭労といえば「泣く子も黙る」と言われるほど畏れられている存在でした。
国の政治と経済の両方ににらみを利かし、世はまさに「炭労の天下」でした。
炭労が絶大な影響力を持っていた理由は、石炭は産業革命以後「黒いダイヤ」と呼ばれ、当時最大のエネルギー源が石炭だったからです。
ですので石炭産業の現場を支える炭労がひとたびストを打てば、国の基幹産業はたちまち立ち行かなくなってしまいます。
このような石炭を必要とする時代にあって、北海道・夕張は九州三井三池炭鉱と並ぶ
日本有数の石炭産業の町であったのです。(メロンの産地としても有名です)

そんな選挙戦のさなか、炭労の幹部らしい4,5人の人物が「折伏経典」を手にして、
学会員にこういいました。
「学会を辞めなかったら、お宅の旦那はクビだ」
これに対し、学会婦人たちは「選挙は自由!」と連呼し応戦したそうです。
会社内で上司が棄教を迫るというのは、現在では考えられないことですが、「折伏経典」を手に、とあることから同書に書かれた諸宗の檀徒が本を読んで激高したものと思われます。失職すれば、家族ともども路頭に迷うことになります。それでも投票の自由、選挙活動の自由を掲げ、学会婦人たちは組合権力と対峙したのでした。
このブログでは詳しい経緯は省きますが、創価学会の組織では、立正安国の戦いにあっては三障四魔が生じることを予見し、御書の精神を胸に選挙活動をしていたようです。

結果は、全国区に立候補した学会推薦の辻武寿は23位で当選。
炭労推薦の社会党候補、阿部竹松は29位でした。
なんと炭労が推す候補者の得票数を大きく引き離しての勝利となりました。
この時、炭労の幹部が悔しがって放った言葉は、
「くそっ、法華のやつらめ!」だったといいます。
法華経は一切衆生を救済すると高らかに宣言し、「諸経の王」を自負する唯一の経典であることから、それを快く思わない諸宗の人々がたくさんいるのです。

さてこの選挙戦において学会側の意外な善戦に対し、面目丸つぶれの夕炭労は露骨な嫌がらせをしてきました。
(以下、ルポライター竹中労氏談)

・学会員への労働金庫の貸出拒否
・炭住長屋の補修サボタージュ
・組合を除名するぞと、ユニオンショップ性の労働協約を盾にとっての恫喝(事実上の失職を意味する)
・「炭婦協」主催の指人形劇の会で学会員の子だけ菓子を配らない
などの村八分ともいえる子供までも巻き込んだ差別が行われたそうです。

また、

・学会員炭鉱夫のかばんに「仏罰当たれ」との落書き
・石炭を運ぶ炭車にも学会の悪口が書かれていた
・採炭場で休憩時間に学会炭労者が弁当箱を開けようとすると、石炭のかけらを投げつけられて弁当箱の蓋が飛び、炭塵で白米が真っ黒になったこともあったそうです。
この時、「くっくっく…」と小馬鹿にした含み笑いが聞こえたそうです。
通常はお弁当を食べる際、空気中に炭塵が漂っているのでそれらが降りかからないように、蓋を少しずつ空けながら気を付けて食べるのだそうですが、嫌がらせの投石によって白米が炭だらけになってしまうと、その時点でもう食べることはできなくなります。
地下深く潜って、長時間行う重労働の坑内で一食抜くことは死活問題です。
以上のことは学会員の証言に基づくもののようですが、思想信条が違うというだけで、なぜそこまで人を憎むことができるのか、悪質な嫌がらせができるのか、私には信じられません。


(以下、「池田大作の軌跡Ⅰ」p135より)
地の底700メートル。坑道を支える鉄の支柱がアメのように曲がるほど圧力がかかっている。腹に響く山鳴りも聞こえる。いつ落盤やガス漏れがあるかわからない。大自然の前で、ちっぽけな人間は、守り合うしかない。そこでのけ者にされた学会員の心中は想像を絶する

また、炭鉱長屋の井戸端会議では「あれが神札を焼く大悪党だよ」とささやかれる。
・家で題目をあげると壁を蹴っ飛ばされた。
・隣人がマサカリで壁を壊す事件があった。
・「ここは創価学会の家」「暴力宗教は撲滅!」と壁やガラス窓にデマビラを何度も貼られた。
・有線ラジオをつけると「神棚を焼く宗教が布教している。気を付けてください!」

なんとラジオでも学会批判が。


夕張炭労事件を取材したルポライター竹中労は、
「夕張における『炭労』vs創価学会の対決は”信仰の自由”をめぐる争いであったことは言わずもがな、同時に戦後階級闘争の矛盾を露呈したエポック・メイキングだった。」と述べています。

■神棚を焼く行為について

以上みてきたように、夕張炭労事件の根底には政治と宗教の問題が横たわっています。
例えば、創価学会に入信する人が謗法払いとして神札や神棚を破棄することはたしかに行われているのですが、これは教義上の問題であり、本人の同意を得てされるものですので、闇雲にしているわけではありません。あくまで帰依すべき御本尊は南無妙法蓮華経であり、妙法を行ずる人を守護する諸天善神の名はすでに曼荼羅本尊に刻銘されているのです。日本の宗教史では本地垂迹と呼ばれますが、戦前はこれが逆転する現象が起きてしまったのです。そしてそれは極めて悲劇的な結果を生じさせてしまいました。(このことについては、またの機会に)

対して、戦前の国家神道は神札を受け取らないという理由で初代会長牧口常三郎先生と
第二代会長戸田城聖先生を投獄し、その結果、牧口先生は獄死させられました。
創価学会では、この時の無念、戸田先生の嘆きを繰り返し繰り返し学びます。

戦前のこのような国家神道による宗教弾圧は、信教の自由に反するばかりでなく、人命軽視の所業であり、このようなことは信仰の自由を巡る問題や宗教の正邪、本質を権力者や大衆が必ずしも理解してないことに根源的な問題があります。
戦争中の一億層玉砕や臣民思想教育も、哲学なき浅はかな宗教観に淵源があります。
ここに正しい哲学、理念を持った宗教が政治権力と関わるべき重大な問題があります。「宗教は政治に関わるな」などと幼稚なことをいってる時代ではないのです。そもそも日本は憲法天皇制を採用している国なのですから。

池田・トインビー対談で池田先生は、このような神道における「哲学性の欠如」を批判しています。哲学や信念が体系化されていないというのは、言い換えれば、政治権力者に容易に利用されてしまうということです。これは神札を安易に受け取った日蓮正宗にも該当します。創価学会日蓮正宗は同じ日蓮仏法を信仰しているのですが、日蓮大聖人の精神に適った行動がとれるかどうかは、いざという大事な場面で現れるのです。

現在のような日本人の宗教観はいかにしてつくられてきたのか。江戸時代という長い封建時代のなかで宗教は政治権力の支配下におかれ、しばしば特定の信仰が弾圧の対象となったり、信教の自由な変更や議論は抑制され、西洋社会と比べても宗教的議論、哲学的考察が深められなかったこととも関連すると考えます。

また鎌倉時代には、日蓮が正邪を巡り法論を挑みながら、諸宗の僧は一顧だにせず
無視しただけでなく、卑劣にも迫害し命まで奪おうとした仏教宗派の浅はかさとも深いつながりがあります。


人間の存在とはいかなるものか、人はいかなる目的で存在するのか?
国や社会の安寧、繁栄はいかにして得られるか?
このような国家論や政治権力との関わりは、本来日本の仏教史にあって深い関連があるにも関わらず、法華経以外の権教では、それらの国家観、人間観が忌避される傾向があります。仏教は長い歴史のなかで鎮護国家としての役割を担ってきたのであり、それらの正邪優劣を巡ってみるべき議論も交わされてきたのです。しかしいつの間にか、仏の真意はいかなるものか、正しい仏法とは何かという高邁な論争は忘れられ、退けられてしまい、日蓮の時代には法論では太刀打ちできないから暴力や迫害で片を付けるという事態が起きるほど、仏教精神は地に堕ちてしまっていたといえます。

以上述べてきたような、いじめ、迫害、命を奪うという行為は仮に宗教観の相違が根底にあるとしても、その暴力自体は信仰に基づいた行為とはいえません。いかなる経典にもそのようなことは書かれていないし、推奨されてもいません。仏教を知らない人間が、勝手に解釈して、思い込みを激しくして暴力を振りかざしているにすぎないのです。これは仏教に限らず、また宗教という枠を超えて、イデオロギーナショナリズムについても同じことが言えます。ネットにおける嫌がらせ、悪口、中傷の類いはすべからく、人間観および哲学性の欠如に由来するものであり、思想信条なき教育の欠陥によるものにほかなりません。妙法という優れた法があるにもかかわらず、浅はかに相対化され、無視されているがゆえに世の中が難を逃れることができず、混乱し続けているのです。「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る」 (立正安国論


さて長々と述べましたが、最後に夕張炭労事件に戻りますと
1957年の池田室長を中心に行われた札幌大会と夕張大会を機に事態が大きく転換されていきます。

夕張大会を炭労の幹部らが傍聴し、
池田会長はこの時、
「最後まで学会の主張をはっきりと聞いていっていただきたい。終わってから懇談しましょう。」と述べ、
炭労幹部は、
「学会の主張はよくわかりました。私どもとしては決して浅はかな行動はとりませんから安心してください。」といったのだそうです。
そして炭労は学会を排除する方針を次第に改めていったといいます。


夕張大会

しかしながら冒頭にも述べたように、1962年に大阪事件が起こり国家権力からの弾圧はいや増して強くなっていきます。
日蓮大聖人が立正安国論鎌倉幕府に上奏した後、立て続けに草庵焼き討ち、流罪等に遭ったのと同様、妙法を行ずることで三障四魔が競い起こるという法華経の経文がそのまま現実のものとなっていきます。

立正安国論と文永の役(1274年)


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上の動画は最近の説らしいですが、わかりやすく大変熱かったです。
本ブログでは、日蓮大聖人が予言した他国侵逼難と元寇との関連について、独自の視点で見ていきたいと思います。

1260年(文応元年)7月16日、日蓮大聖人は立正安国論鎌倉幕府に提出し、大集経と薬師経の三災七難※の経文を挙げて、他国侵逼難と自界叛逆難を予言。
(同年、クビライ・カーンが第5代モンゴル帝国皇帝に就任)

その後、日蓮大聖人は念仏、真言等の信者らにより松葉ケ谷法難、伊豆流罪、小松原法難、龍ノ口法難に遭われ、極寒の佐渡流罪となります。
しかし佐渡においても大聖人は果敢に折伏、法論を進められ、大聖人に帰依する人々や門下からの篤い信頼を得て、「開目抄」や「観心本尊抄」などの重書を著わされます。
また始めて御本尊を顕されたのもこの流罪の地においてだったようです。(始顕本尊)

約2年半の後、赦免されて鎌倉へ帰還し、平左衛門尉と再び謁見した際に、法華経を受持するよう3度目の諌暁を行なうのですが用いられず、大聖人は1274年(文永11年)5月、(甲斐国山梨県)波木井郷の)身延山に入山されます。
文永の役(1回目の日本襲撃)はこの年の10月、元寇朝鮮半島から3〜4万人を乗せた大小900艘の船団が出発し、壱岐対馬を制圧したのち、博多に上陸しました。

■三災七難とは

大集経

①穀貴[こっき](飢饉などによる穀物の高騰)
②兵革[ひょうかく](戦乱)
③疫病[えきびょう](伝染病の流行)

薬師経

①人衆疾疫難[にんしゅしつえきなん](人々が疫病に襲われる)
②他国侵逼難[たこくしんぴつなん](他国から侵略される)
③自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん](国内で反乱が起こる)
④星宿変怪難[しょうしゅくへんげなん](星々の異変)
⑤日月薄蝕難[にちがつはくしょくなん](太陽や月が翳ったり蝕したりする)
⑥非時風雨難[ひじふううなん](季節外れの風雨)
⑦過時不雨難[かじふうなん](季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる

日蓮大聖人は、以上の種々の難のうち、疫病や飢饉などはすでに起こっていたが、他国からの侵略と内乱だけが生じていなかったため、正法である法華経を用いなければ、この二難が生じるだろうと予言されたのでした。


13世紀、モンゴル帝国ユーラシア大陸をほぼ制覇し、人類史上大英帝国に次ぐ二番目の規模の帝国を築いていました。国号を元と改め、日本では蒙古と呼ばれていました。
日蓮大聖人が立正安国論を提出した1260年に第5代皇帝として即位したクビライ・カーンは、日本列島のある東方地域と南宋の攻略を目論んでいました。

■蒙古国書
しかし、何の予告もなく突然日本攻略をしてきたわけではなく、来襲する6年も前に、事前に高麗の使節団を通じて日本に国書を届けています。(「蒙古国書」や「蒙古国牒状」と呼ばれます)
1268年の正月、使節団が九州の太宰府を訪れ、その後幕府および朝廷がこの国書を受け取ります。この国書の内容および解釈については、諸説あるようですが、必ずしも宣戦布告といったものではなく、日本と親交を結びたい、という旨が書かれてます。以下、文末の抜粋です。

「・・・ゆえに特使を遣わして国書を持参させ朕の志を布告させる。
 願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結びもって互いに親睦を深めたい
 聖人(皇帝)は四海(天下)をもって家となすものである。
 互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
 兵を用いることは誰が好もうか。
 王は、其の点を考慮されよ。不宣。
   至元三年八月 日 」
(蒙古国牒状、東大寺尊勝院文書)

※誼み(よしみ)
親しい関係・間柄・交わり・付き合い。何らかの縁・間柄から生じる情・好意・親しみ。 縁故。


以上の文面は、前例のないほど鄭重であると解される一方、「兵を用いることは誰が好もうか。」というのが、武力で脅しているという見解もあります。
ただ表向きはあくまで親交を持とうとするものであり、戦闘は望まないといい、日本の権力者を「王」と呼んで尊崇の念を表してもいます。

この頃、鎌倉幕府北条時宗が執権に就いてまもなく、幕府や朝廷はこの国書を受けて対応を巡り連日協議を重ねていました。御家人に用心して警戒にあたらせたり、南宋の僧からモンゴル帝国の暴虐ぶりについて情報を得ていたようです。
しかし使節団が国書を渡し7か月経っても日本側からの返事がなかったことで、使節団は帰ってしまい、クビライに失敗したと報告します。クビライはこの報告を受ける前の5月頃には、日本征伐の意思を表明し軍艦の製造にあたらせたといいます。

結果的に日本側は皇帝の親書を無視
することとなり、これがクビライを怒らせる要因となったようです。このような日本の拙劣な対応や優柔不断ぶりは見落としてはならない点といえるでしょう。幕府は諸宗の僧侶らに祈祷を命じたりしたのですが、大聖人に祈雨対決に敗れた諸宗にそのような力があるはずもありません。ちなみにこの国書が届いた年に大聖人は、諸宗に対し11通の書を送り、公開討論を迫っています。

さらに翌年(1269年)2月、クビライは使節団を派遣したのですが、対馬で行く手を阻まれ、その時に塔二郎と弥二郎という名の二人の日本人を召し捕らえて帰還します。しかし拷問をしたり人質に取ったわけではなく、むしろ宝物を下賜したり、クビライの宮殿を観覧させもてなしています。
この時、クビライは二人に対しこのように述べた。
「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と。

同年9月、2度目の国書が届きます。前回無視されたことから服属を要求する強めの論調となっていました。幕府は拒否する旨の草案を作成しますが、評定を重ねた末、「返事をしない」と決め、朝廷もこれに従ったようです。2度の国書に対し、またもや無視を決め込むという選択をしたのです。

このような経緯を考えると、クビライは当初は日本に対して友好的な態度で親交または朝貢を迫ったのであるが、無視されたことにより、武力侵攻する選択肢が生じたといえるでしょう。媚びへつらわずとも、何らかの友好的な対応をしていれば、また違う展開になっていたのかもしれません。

1271年(文永8年)9月、三別抄という高麗の反乱軍から援軍の要請を受ける。
その直後に、クビライからの5回目の使節団が国書と100人余りを引き連れて来日。
この時、使節は一定の軍勢を伴っていたらしいが、返書の代わりに日本からクビライのもとへ使者を遣わすことを決めます。
この文永8年、9月12日は日蓮大聖人が竜の口で法難に遭われた時でもあります。


1272年1月、12人の日本使(『元史』日本伝では26人)が高麗を経由し、元の首都・大都を訪問しますが、クビライへの謁見は警戒されてかないませんでした。そして4月に高麗を経由して帰国します。同年、6度目の使節団が日本へ来ますが、クビライは日本からの返事が得られず、側近は日本を攻めても益はないと説得しますが、ついに武力侵攻を決断します。また一方で、鎌倉幕府は東国の御家人たちに九州への赴任を命じ、モンゴル軍の来襲に備え警固の任にあたらせます。
同年、2月に北条家の内乱が起きます(二月騒動)。北条時宗に対し謀反を企てたとして、鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ征伐されます。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難が的中しました。

文永の役(第1回蒙古来襲)
1274年(文永11年)10月3日、蒙古および高麗軍ら3~4万兵を乗せた7~900隻ほどの船が朝鮮半島を出航し、対馬壱岐を襲撃。
対馬勢はおよそ80騎で応戦し、多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒するなど奮戦したが、多勢に無勢であり、焼き払われた。また壱岐でも同様に元軍に圧倒された。
日蓮大聖人もこの時の惨状について、「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕ちし者、幾千万と云ふ事なし」などと言及されています。

また現在の長崎、佐賀の西部にあたる、肥前沿岸の松浦郡および平戸島鷹島能古島を来襲。ここでも肥前御家人が応戦したが、対馬壱岐と同様、数百人が討たれ、捕虜となるなどの惨状に遭った。

壱岐対馬の戦況を聞き、九州一円から御家人が博多へと集結し、襲撃に備えます。

そして元軍の主力部隊である蒙古・漢軍が博多湾から上陸し、早良郡を襲撃。
赤坂、鳥飼潟、百道原・姪浜で激しい攻防が繰り広げられます、元軍は強く、また弓矢を雨のように降らし、日本軍は苦戦を強いられ九州北部の拠点を悉く突破されたようです。

『八幡愚童訓』によれば、「日本の武士は蒙古軍に対し手ひどく敗北し、内陸深くまで押し込められたものの、夜間に現れた神の軍勢が一夜にして蒙古の船団を追い払った」とあります。

しかし、この後元軍はなぜか一夜にして撤退したといいます。
元軍の撤退理由については、日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた。恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から不可思議な火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した、とされているようです。

嵐に遭ったというのは有名な話ですが、どの程度の規模であったのかは定かではありません。また日本列島は大陸から海で隔たれていることや、重装備の日本の屈強な武士を前にさしもの元軍も簡単には攻略できませんでした。

ともあれ日蓮大聖人の予言は的中し、日本史上数少ない他国からの大軍を率いての侵略に見舞われたのですが、御本仏・日蓮大聖人がおはします妙法の国、日本。諸天の加護は厳然であったといえるでしょう。

このようにして最初の日本襲撃は失敗に終わり、7年後の1271年に2回目の来襲(弘安の役)が起こります。では、そのことはまたの機会に…。

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■「北条時宗への御状
 謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺寿福寺極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
 夫れ此の国は神国なり神は非礼を稟けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり、然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、法華経に云く諸仏救世者・大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ずと、一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、仁王経に云く「一切の聖人去る時七難必ず起る」と、彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し・桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす、今日本国既に蒙古国に奪われんとす豈歎かざらんや豈驚かざらんや、日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、三世諸仏の事とは法華経なり、
 此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有つて御報に予かる可く候、所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。 
文永五年戊辰十月十一日 日 蓮 花押
 謹上 宿屋入道殿


(通解)
 謹んで申し上げる。そもそも去る正月十八日に、西戎大蒙古国から牒状が到来したという。これは、日蓮が先年、諸経の要文を集めて勘えた立正安国論の予言の通り少しも違わず符合したのである。日蓮は未来の出来事を知るゆえに聖人の一分に当たる。そこで重ねて、このことを諌言申し上げるのである。急いで建長寺寿福寺極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿等の御帰依を止めなさい。もし止めなければ、この上にまた四方の国々から攻めてくるであろう。速やかに蒙古国の人を調伏して、我が国の安泰を計るべきである。蒙古を調伏することは、日蓮でなければできないのである。主君を諌める忠臣がいれば、その国は正しく、親を諌める孝子がいれば、その家は真っすぐになる。国家が安泰であるかないかは政道が正しく行われるか否かにより、仏法の邪正は経文の明鏡によるのである。
 この国は神の国である。神は礼にそむくことをうけられない。天神七代、地神五代の神々、その外、諸天善神等は法華経守護の神々である。しかも法華経を食となし、正直をもって力とするのである。法華経神力品第二十一には「諸の仏、救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんがための故に、無量の神力を現じたもう」とある。法華経を捨てて顧みない国においては、諸天善神が怒りをなして守護されないのは当然である。
 仁王経には「一切の聖人が国を捨てて去る時、七難が必ず起こる」とある。呉王の夫差は伍子胥の諫めを捨てて我が身を亡ぼした。夏の桀王、殷の紂王は忠臣竜蓬や比干を殺して王位を失った。今、日本国はすでに蒙古国に奪われようとしている。どうして嘆かずにいられようか、どうして驚かずにいられようか。日蓮が申すことをお用いにならなければ、必ず後悔されるであろう。日蓮法華経の御使いである。
 法華経法師品第十に「この人は則ち如来の使いであり、如来の所遣として、如来の事を行ずる」とある。三世諸仏の事とは法華経である。
このことを他の方々(建長寺等十か所)へ申し送ってあるから、一所に集めて御評議のうえ、御返事にあずかりたい。所詮はこれまでの諸仏諸神への祈禱をなげうって、諸宗の僧たちと日蓮を御前に召し合わせて仏法の邪正を決していただきたい谷の深い所に松の良材があるのに、これを未だ知らないでいるのは良匠の誤りとなり、闇のために錦衣を見分けられないでいるのは愚人の失である。
 三国(インド・中国・日本)において、仏法の分別は(国主の)殿前で行われた。いわゆる阿闍世王は釈尊の正しさを知り、陳や隋の国主は天台大師の正しさを知り、桓武天皇伝教大師の正しさを知った。
 これは日蓮の身勝手の邪見ではない。ただひとえに大忠を懐くゆえであって、自身のために申すのではない。神のため、君のため、国のため、一切衆生のため申し上げるのである。恐恐謹言。

南十字の暗黒星雲(コールサック)~星が生まれる場所

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銀河鉄道の夜北十字から始まり、南十字で終わる物語。

現世と冥界を往来する旅であるとも。

二つの星雲は石炭袋と呼ばれ、真っ暗で何も見えない。

しかしそこは星々が生まれる場所なのだ。

 

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可視光で見たコールサック(石炭袋)

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赤外線で見たコールサック(NASAハッブル宇宙望遠鏡)

嵐の海の船(イヴァン・アイヴァゾフスキー)

以前にも紹介しました海洋画家アイヴァゾフスキーは、嵐の海を進む船を主題に数多くの作品を描いています。

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嵐の中の船 1858年

 

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1873年

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第九の波 1850年

 

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黒海の嵐

 

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北極海の嵐 1864年

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夜の嵐の海

 

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イヴァン・アイヴァゾフスキー(1817-1900)
ウクライナクリミア半島フェオドシヤ)生まれ、アルメニア人。帝政ロシアの画家。
貧しい家庭であったが、傑出した画才から援助を得てサンクトペテルブルク美術アカデミー
に進み、金メダルを得て卒業。風景画で稼いだ賞金でクリミアに行き、黒海沿岸の都市で
肖像画家として活動。ヨーロッパ各地を旅する。後に海洋画の評判からロシア海軍より
長年にわたり制作を依頼される。
その後、イスタンブールへ行きオスマン帝国の宮廷画家となった。
生涯にわたり6000点を超える多くの作品を残している。

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(神話、聖典における)生命の木

神話や宗教には、人間と(神など)超越した存在との関係をあらわしたり、
神聖な場所など、各々の信仰観における象徴となる種々の樹が登場します。

旧約聖書「創世記」

エデンの園の真ん中には二本の木があり、一つは知恵の樹、もう一つは生命の樹
この二つの木の実を両方食べてしまうと神と等しい存在になる(ユダヤ伝承)

知恵の樹
「善悪の知識の木」ともいいます。
旧約聖書「創世記」によれば、知恵の樹の実を食べると神と等しい「善悪の知識」を得られる
といわれ、
それを食べることは神ヤハウェから禁じられていたのだが、アダムとイブは
蛇に唆(そそのか)されて禁断の果実を食べてしまい、楽園を追放されます。

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「楽園のアダムとイブ」ヤン・ブリューゲルルーベンスによる共作

ヤン・ブリューゲルが得意とした動物を、ルーベンスが人物を描いたという
バロック時代を代表する二人の巨匠による共同作品です。
イブが智慧の樹から実をもぎ取り、アダムに手渡しています。

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「人間の堕落」グース作
こちらの絵はイブを唆した蛇が描かれています。
頭が人間で体が蛇になっているのが面白いです。
蛇はこのあと神の怒りに触れ、地を這うようになります。

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天使を引き連れて現れる神 アレクサンドル・カバネル
神の逆鱗に触れ、許しを請いますがついに楽園を追放されます。

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失楽園 マザッチオ
神に許されず、楽園を追放されたアダムとイブが嘆き悲しんでいます。
二人を追い払っているのは天使ミカエルです。


知恵の樹の実は、りんごの実であったなど諸説ありますが定かではありません。
「善悪の木の実」ともいわれ神と等しい知識を得るといわれますが、
実際、人間は神と等しいといえるほど賢くはないですね

しかし地球上のあらゆる生物の中で唯一、高度な知性を持った存在であるのも確かです。

映画「2001年宇宙の旅」では、群れを持つ猿たちが縄張り争いをしていますが、
謎の物体モノリスに触れた猿が知恵を得て、動物の骨を武器にするようになり、
他の群れを圧倒し、退けていきます。
そしてその骨を空へ放り投げた後、突然宇宙船のシーンへつながります。
この知恵を得た人間が進化して、巨大な文明を獲得するシーンも
知恵の樹の寓意をなぞらえているといえるかもしれません。
(ただしキリスト教の古典的な解釈において進化論は否定されます。)

ちなみにクリスマスツリーのもみの木も知恵の樹の象徴とされており、
この聖書の逸話に由来しているようです。


生命の樹
そして、もう一本の「生命の樹」の実を食べると「永遠の生命」が得られるそうです。

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生命の樹グスタフ・クリムト

アダムとイブが智慧の樹の実を食べてしまったので、神は二人が生命の樹の実まで
食べてしまい永遠の生命を得て、唯一神である自身の存在を脅かすことをおそれ、
二人を楽園から追放しました。この出来事を「失楽園」といいます。

17世紀にジョン・ミルトンがこの寓話をもとに執筆した「失楽園」が有名です。
ダンテの「神曲」に並び、キリスト教を代表する文学作品です。

 

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失楽園ジョン・ミルトン(版画:ジョン・マーティン)


知恵について
知識と知恵は意味が異なりますが、仏法においても智慧は重要な概念で
大乗仏教では般若という言葉が知恵をあらわすものとして知られています。
しかし法華経と爾前教とではその知恵の内容や現す方法は必ずしも同じではなく、
爾前教では、「無常・苦・無我・不浄」を観ずることがしばしば強調されるのに対し、
法華経では、「常・楽・我・浄」という志向性の転換がなされています。
これは永遠性の希求、人間は楽しむために存在していること、
世界は素晴らしいものであること、などといった人間観、世界観の転換があります。

また法華経における仏の智慧とは、方便品第二にあるように、難信難解であり、
人間の知恵の到底及ぶところではないとされます。
しかし、一旦はこのように遠く及ばないものであると示しながら、
この仏の智慧は、信によって代えることができると説かれるのです。
これを以信代慧といいます。
例えば、人が何らかの目標を立てそれを達成しようとする時、現実の状況を把握し、
将来の予測を立てようとするのですが、そこには必ず認識しきれない
不確定の要素が介在します。
人間の知恵や意思ではコントロールしがたい要素ともいえるでしょう。
これを祈りと信の力で、方向づけをしていくことが私は以信代慧ともいえると思います。
ただ信じているだけではもちろん何事も達成しません。
したがって可能な限りの知恵をひねり、努力するのですが、
これに信や祈りという要素が加わることで自ずと望んでいるような現象や結果が
あらわれてくる、といえるかもしれません。
チャンスはそれを準備している者にのみ訪れるともいいますね。
以上のことは、信力行力および仏力法力という言葉でもあらわせます。
妙法を信じ、それを行っていくことで、仏力法力という現象があらわれるとされます。
最終的に、思ってもみなかった境地、境涯に至れるということだろうと思います。

永遠の生命観
アダムとイブは生命の樹の実は食べなかったのですが、それを食べさえすれば
得られるというのは、それを獲得する可能性を示唆しているともとれます。
この生命論は仏法においてもよく論争となるテーマであり、仏典や宗派により
主張が異なっています。
釈尊は来世など説いてないという人もいますが、原始仏典であるダンマパダには
次のようにあります。

「悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む」
「善いことをなす者は、この世と来世で歓喜する」

これは現世のみならず、過去世や来世があることを示す文ととらえられます。
これを三世といいますが、上の文では同時に業や報いが示されてます。
この生命の「輪廻」と「業(カルマ)」の思想は、仏教のはるか以前の
古代インドからある思想で、バラモン教もこの考えに立っています。

そして永遠の生命観をより明確に示す経典が法華経です。

法華経において、仏とはこの世界に常住して人々に法を説きながら仏道へと導く存在であり、
その福徳により寿命を絶えず伸ばし続けてきたことが示されています。
これは法華経の真髄でもあり、従来示されてきた成仏観、生命観の転換ともなっています。
この仏の寿命が示された章は「如来の寿命を量る品」(法華経如来寿量品第十六)」です。
また「久遠」という時間の観念を超えた存在であることから、
この仏(如来)を久遠実成の仏ともいいます。
しかし、久遠の仏は荘厳な姿で法を説くのではなく、衆生と同じ凡夫の姿として現れ、
娑婆世界において人々に仏法を伝えようとする存在です。これを地涌の菩薩といいます。
久遠の仏(釈尊)は、法華経において十大弟子文殊弥勒にではなく、
この地涌の菩薩に未来の弘法を託すべく、一切の法を継承します。
これが法華経の虚空会の儀式における最も重要な場面であり、これが「結要付嘱」です。
法華経如来神力品第二十一)
しかし娑婆世界において、衆生の心は必ずしも素直に仏法を信じることができないため、
地涌の菩薩は弘教にあたって多くの苦難や試練を経ることになります。
しかしその試練を経て勝ち取られる宝こそが、かけがえのないものなのです。


■ゴータマ・ブッダ菩提樹

準備中...