紀元前387年に哲学者プラトンは学園を開設。
紀元前387年に哲学者プラトンは学園を開設。
ロングは英国バースで育ち、スペイン、シリア、エジプトを遍歴した画家。
エジプトやアラブのオリエンタルな世界観を表わしました。
イオニア陶器の売り手
イオニアは、エーゲ海に面したアナトリア半島(現トルコ)南西部において古代に存在した地方
The Finding of Moses
『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人(ヘブライ人)の子に生まれた。
その頃、ヘブライ人の増加を懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令。
出生後しばらく隠し育てていたが、ついにパピルスのかごに乗せてナイル川へ流す。
それを、たまたま水浴びしていたファラオの王女が拾いモーセと名付け育てた。
やがてモーセは、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。
神々とその創造者、1878
神々とその創造者(拡大図)
エジプトでは猫が大切にされていました。神話では頭が猫の女神バステトが有名です。
神聖なパシュト
パシュトゥーン人は、アフガニスタンとパキスタンに居住するイラン系民族
こちらはペルシャ猫でしょうか。
エスター女王
旧約聖書にある歴史物語『エステル記』の主人公であるユダヤ人女性
ペルシャ王アハシュエロス(在位紀元前485年 - 紀元前465年)の妃
エジプトへの逃避
エジプトの饗宴
Egyptian Beauty
バビロンの奴隷市場
選択された5人
スパニッシュタウン
彼女の耳に音楽の使いがやってきた
一隻のボートでひしめき合うシリア難民
難民への水の供給を脅かす気候変動 - UNHCRの対策について -
https://www.japanforunhcr.org/news/2019/15827
公明党を表敬する安倍元総理 2016年6月1日
全く思いもしなかったような痛ましい事件が起きてしまいました。
歴史的にも一国の首相が凶弾に倒れた事例はありますが、
多くは政治的な目的が理由のテロリズムであるのが通例です。
しかし今回は個人的な怨恨が動機であり、そこにいかなる背景、宿縁があったのか。
自公で最長政権を築いた(第2次安倍内閣の連続在任日数は2822日)名宰相であり、
公明党と連立を共にする中で、多くの難局を乗り越えてもきました。
世界的にも影響力のある人物であったため、各国にも大きな衝撃を与えています。
安倍元総理(第90・96・97・98代)は、
父が安倍晋太郎氏(元秘書官、大臣を歴任)、
祖父が岸信介元総理大臣(第56-57代)、
大叔父(岸信介氏の実弟)に佐藤栄作元総理大臣(第61-63)
という華麗なる政治家の血筋。
岸信介氏と創価学会第二代会長・戸田城聖先生とは旧知の仲であり、
小説人間革命や随筆などに登場されます。
青年部が結集して待つ3・16登山においては、
総理側近のよからぬ耳打ちにより参加が見送られ、
戸田先生がそれを激怒されるエピソードがあります。
しかし桜満開であったという戸田先生のご葬儀には参列されたそうです。
第2次安倍内閣では、
アベノミクス(三本の矢、デフレ脱却)
積極外交(積極的平和主義、中国包囲外交)
右傾化政権、ヘイトスピーチ
辺野古基地移設問題
震災復興
エネルギー問題(原発輸出、再稼働)
コロナ感染対策
など、内外にわたる諸課題・政策に取り組んできました。
消費税では10%引き上げ時に、公明党の強い主張により軽減税率を導入。
および社会保障全世代型への転換が実現。
辞任後、ロシアのウクライナ侵攻を受けて核シェアリングの発言もありました。
祖父である岸信介氏以来の影響が大きいのでしょう。
公明党とは基本認識が違う中で、よく折り合いをつけてこれたなと思いますが、
互いに歩み寄り、融和を図る場面がいくつもあったのだろうと思います。
政治は外交や安全保障ばかりではないのです。
それは今後の政権でも続いていくものと思われますが、
とりわけ憲法問題は、特定の政治家や政党だけの思いで決めるのではなく、
「何を、どのように、何のために」変えるのかを明確にした上で、
広く国民的議論を尽くしていただきたいと思います。
私は現日本国憲法は、作成の経緯はさておき、
基本的に普遍的理念、内容を持つ憲法であると思いますし、
何があろうと核武装(非核三原則の放擲)は絶対に容認できない立場です。
このように各々の立場に価値観の対立があり、
野党やマスコミから激しい批判にさらされながら、
依然として安倍元総理が根強い人気を誇っていたのは、
誰とでも親しみやすい気さくな人柄や、
他者の考えを聞き入れ、
言葉や政策として人々の意見を取り入れてきた姿勢が
理由の一つだろうと思います。
批判に対しても威勢を張ったり、気取った風もなく、
常に率直であり、野党やマスコミの批判に対して、
毅然とした姿があったからだろうと思います。
またそれと同じくらい印象深く、感銘を受けたのは、
時折ニュースになって聞こえてくる昭恵夫人の寛容さです。
私が目にした記事をざっと書くと、
・九条は守ってもいい
・日韓は広い心を、隣国だから仲良く、関係改善を、日韓交流行事への参加
・保守的な日本社会に女性進出の期待を寄せる
など、夫・安倍氏とは必ずしも相いれない意見を
はばかりなく公言されていたことです。
私はその一々の意見にうなづき、共感することが多かったので、
記事に目を通すことが多かったです。
言うまでもなく、"ウルトラライトなネット民"からは散々ないわれようでしたが。
しかし安倍元総理は、そのような言動を公然と咎めるようなこともせず、
一人の意見として、あるいは愛する妻の意見として(?)
尊重されていたのではないかと思います。
そのため家庭内野党なんて言われてました。
夫人みずから安倍昭恵と名乗って”降臨”し、
安倍批判を繰り返すアンチへ反論の書き込みをして
長々と書いてしまいましたが、
安倍さんはアイスクリームが好きだったそうです。
私もアイスクリームが好きです。(共通点ですね)
引退したらラーメン屋か居酒屋をしたかったらしいですが、
一度は行ってみたかったですね。
一介の私にも気さくに対応してくれただろうか・・・
などと想像すると無念さがこみ上げてきます。
桜を鑑賞する安倍元総理と山口代表
重ねて、安倍元総理のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
長い間、お疲れさまでした。どうぞ安らかに。
南無妙法蓮華経
「我等(われら)が頭(こうべ)は妙なり喉(のど)は法なり
胸は蓮なり胎(はら)は華なり足は経なり
此の五尺の身 妙法蓮華経の五字なり」(御義口伝)
レオナルド・ダヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」と呼ばれる有名な絵に
「五尺の身 妙法蓮華経」を重ねてみました。
宇宙の森羅万象の全てが我が身に収まっている、というのが一念三千です。
妙とは不思議ということ。
なぜ宇宙や人間は存在しているのか?
なぜこれほどまでに秩序があり、精緻にできているのか?
考えたら不思議なことばかりです。
仏とは死んだ人のことではなく生命のことです。
宇宙は生命を生み出す母体のようなものといえます。
太陽や銀河、鉱物やガスにいたるまであらゆるものが生命の構成要素です。
生命といっても、有情の生命と非情の生命があるのです。
地球のような生命の星があり多種多様な生命が発現し、循環しています。
また仏法によれば、生命とは一度限りのものではありません。
現世のみならず、過去世、未来世の三世を遊楽しゆく姿が妙法の生命観です。
法華経に説かれるように、
諸仏(すなわち生命)の智慧は人智や思慮では及ばないほど深くて不思議なのです。
聖も俗も、悟りも無明も、わが一念の当体に同時におさまっている。
生命の真髄をこのように説くのは、数ある仏典の中でも法華経だけです。
「外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法を片端片端説いて候なり
しかりといえども、法華経のごとく説かず」(蒙古使御書)
ルネサンス以前の中世のキリスト教社会では、神が世界の中心であり、
人間は神の被造物にすぎないばかりか、罪深い存在であると考えられていました。
禁断の実を食べてしまったアダムとイブの犯した「原罪」が全人類に及んでおり、
人々は最後の審判を待って、神の赦しを得たものだけが救済されます。
このように神や教会を絶対視し、教条主義、没個性的な真理や概念が優先されていたため
中世はしばしば暗黒時代といわれます。
神と人間、聖職者(僧侶)と大衆、聖と俗の間に大きな断絶があったのです。
しかし14世紀になってイタリア・フィレンツェを中心に華やいだルネサンスが興ると、
古代ギリシャやローマの神々が再現されるようになります。
ギリシャの神々では兄弟喧嘩をしたり、恋をしたり、子供を産んだり、
怒りや悲しみをあらわにした物語が題材となっていきます。
それまで軽視されてきた人間性の豊かさが求められるようになり、たとえば宗教画であっても
神や天使が感情表現豊かに表現されるようになり、それまでタブーとされていた裸体も
積極的に生々しく描かれるようになっていきます。
それまでの神が支配する禁欲的な世界から解放され、ありのままの美が追求されるようになり、
人間が人間らしく生きる姿が描かれるようになっていきます。
この精神的、文化的な出来事がやがて近代社会の理念や原理に直結していくこととなります。
仏教でも初期の経典では、禁欲や戒律が重視されます。
笑ってはいけない、着飾ってはいけない、男女は近づいてはならないなど、
煩悩を消滅させることが解脱の道であると教えられていました。
この初期の教えを受け継いだ部派仏教ではとくに、
人間は釈尊のような仏になることはできないと考えられていました。
しかしこのような厳格な戒律主義、出家主義は高度に築かれた文明社会に生きる人々が
実践できるものではありません。
大乗仏教では煩悩に対する捉え方がより柔軟になり、寛容になっていきます。
大乗は仏説ではないと主張する人々もいますが、決してそうではありません。
法華経では「煩悩即菩提」といいます。
日本天台宗の開祖である最澄は、古い時代の煩瑣で禁欲的な戒律を瓦(かわら)にたとえ、
法華経の「受持」というただ一つの戒律を金剛(ダイヤモンド)にたとえています。
前者が人間を「他律」によって縛る道であるなら、後者は「自律」であり、
フィレンツェの支配主であったメディチ家の当主が依頼したといわれる作品。
愛の化身であるヴィーナスが海から全裸で現れ、貝殻に乗り海を渡っています。