睡蓮 クロード・モネ

印象派の祖クロード・モネは晩年、フランスの郊外に池のある庭園を造り睡蓮を描き続けました。その数は200点を超え、世界中の美術館に所蔵されています。

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マルモッタン美術館所蔵

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オランジュリー美術館所蔵

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東京富士美術館所蔵

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自画像
印象派とは、それまで西洋絵画で主流だった写実や細密描写の追求ではなく、見たままの印象を表した絵画です。正確な描写より作者がどう感じたか、対象の風景を見た瞬間に光や色の感じがどうであったかという感覚的なものが重視されます。印象派の最初の作品といわれる「印象・日の出」は、それを鑑賞した人物が「まるで印象を描いたようだ」と皮肉の論評をしたことから印象派と呼ばれるようになったそうです。当初は美術家たちからも全く評価されなかったのですが、その後後期印象派~抽象主義を生み出すことになり時代の主流となっていきます。リアルさの追求が客観であるとしたら、印象の表現は主観です。しかしどこまでもリアルな絵、まるで写真のようにそれと比較しても区別がつかないほど細密な絵もありますが、ではそれは写真と一体何が違うのでしょうか。一概に絵の価値を論じることは難しいですが、モネがそれまでの系譜を踏襲しなかったのは、対象の風景から感じとった主観的な感覚を汲み取ろうとしたのではないかと思われます。実際に目の前にある現実の風景とは異なる印象、イメージを実際とはあえて違った色や筆づかいで表そうとするところに芸術的な価値があるのだと感じます。いいかえると実際の対象とよく似ているではなく、私はこの絵が好きだと思わせる何かがあるのです。

 

 また仏典にも蓮華の花は、法を表す象徴的な存在として登場します。釈尊が住んでいた王舎城の近くにあった池にたくさんの蓮の花が生長していたことが古い仏典にあらわされています。この蓮は泥の中にあっても、美しく凛と咲くので「如蓮華在水」といわれます。

また鎌倉時代の僧侶である日蓮大聖人も、餅やくだものを供養された夫人に対し「蓮はきよきもの泥よりいでたり」(蓮は清い花ですが泥の中から咲くのです)といっています。このお手紙は、いただいた餅が”蒸し餅”だったのでそこから転じて「十字(むしもち)御書」と呼ばれています。

また別の夫人に対しては、「世の人々は桜の花こそめでたいと思うものだが、仏はあえて桜ではなく蓮の花を「法華経」という最高の法を表す象徴とした(趣意)」と語っています。「法華経」とは「妙法蓮華経」の略で、蓮華の花が経典の名に含まれており、それはなぜかといいますと花と実が同時にみのることから「因果俱時」をあらわしているからです。これはとても深い意味があるのですが、詳しくはまたの機会にしたいと思います。