四条金吾

 
【仏教ものがたり】信心をつらぬいた四条金吾 | 創価学会公式

 

四条金吾日蓮大聖人が最も信頼を寄せていた弟子の一人で、同氏宛てに20通以上のお手紙が残されています。

本名は四条頼基(よりもと、四条中務三郎左衛門尉頼基)。

武士。官位が左衛門尉で、左衛門尉の唐名が金吾と称されたので四条金吾という。

大聖人が立宗宣言した建長5年(1253年)頃に門下となる。

池上宗仲・富木常忍等と並んで信心強盛。

五大部の『開目抄』は佐渡島から鎌倉の頼基の許へ宛てられたもの。

承久3年(1221年)の承久の乱後、父・四条頼員の代から北条氏一族の名越朝時[なごえともとき]・光時(江間光時)父子に執事として仕え、名越氏が信濃国伊賀良荘の地頭となると代官として赴任。

 

主君・江間氏

北条氏の有力な一族。第2代執権の北条義時の子・名越朝時の長男が江間光時[えまみつとき]。この光時の一族をいう。四条金吾は、金吾の父と2代にわたって、この江間氏に仕えていた。朝時が鎌倉・名越に住んでいたことから、この一門は名越氏と呼ばれていた。また、北条時頼が執権に就任して間もなくして、光時は謀反疑惑をかけられ伊豆国の江間に流され幽閉されたことから、江間氏と呼ばれる。

 

此経難持御書四条金吾殿御返事)文永12年(1275年)3月

日蓮大聖人が佐渡から帰り身延入りした文永11年(1974年)9月、金吾は主君・江間氏を折伏します。しかし、主君は極楽寺良観を信奉しており金吾を遠ざけます。そして、それにつけ込んだ同僚たちが金吾を迫害するようになります。金吾は「法華経を持つ者は『現世安穏・後生善処』――現世は安穏であり、後生は善き処に生まれる――と聞き、言われた通り信心に励んできたが、大難が雨の降るように次々と起こっています」という戸惑いを、大聖人の弟子に語ったようです。弟子からその報告を聞き、心配された大聖人が金吾に認められたのがこのお手紙です。本抄の冒頭に「此経難持の事」とあります。此経難持とは、「此の経は持ち難し」と読み、法華経見宝塔品第11に説かれる一節です。仏の滅後悪世に、法華経受持することがいかに困難であるかを示しています。

 

大聖人は法華経の「難信難解」の文を引き、「大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持(たも)つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、『則為疾得・無上仏道』は疑なし」と、法華経を受けることはやさしいが、持ち続けることは難しい。成仏は持(たも)つことにあり。大難が起こることを知りなさい。そして見宝塔品第11より「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」とご指導されます。

 

これは観心本尊抄で「受持即観心」、すなわち「末法の凡夫が成仏するための観心の修行は、南無妙法蓮華経の御本尊を受持すること」と示されているところでもあり、受持し「持(たも)つ」とは、日々の精進、継続的な努力があってはじめて維持できるという意味です。「進まざるは退転」との有名な文がありますが、退転さえしなければ持っていることになる、のではないのです。行学の習慣を持ち続けるのは簡単なことではありませんが、向上の中に楽しさを見出していくことが大事かなと思います。

 

文永8年(1271年)の龍ノ口法難では同行して嘆くが反対に激励されてしまいます。

有名なシーンです。

 

晩年には、信心を貫いた甲斐あって主君の信頼を得て、甲斐国内船(現在の山梨県南巨摩郡南部町)の地を与えられ、同地に内船寺を、身延山内に端場坊(はばのぼう)を建立しました。屋敷跡は収玄寺となっています。

 

福士川渓谷(南巨摩郡南部町)にある七ツ釜五段の滝

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七ツ釜五段の滝(福士川渓谷)

 

なんと小説とコミックもあります。ぜひ手に入れて読んでみたいです。

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