池田先生のブラジル初訪問は1960年10月19日。
日本の約23倍の国土に、当時は100世帯ほどの会員がいるのみ。
日系移民の彼らは、誰もが貧困や差別などで過酷な生活を強いられていた。
この訪伯前、先生はアメリカにいて北南米の3カ国9都市を24日間で回るという
過酷なスケジュールから体調を崩されていた。
同行者からは、ブラジル行きを止められたが、
先生は、同志が待っているからたとえ倒れてでも行くと答えたのでした。
先生の2度目の訪問は66年3月。
わずか5年半の間で、同国の会員は約8000世帯へと躍進。
ビザが発給されず
さらに3度目となるはずだった74年には、軍事政権下で学会に対する誤解から、
ビザが発給されず入国できなかった。
この時、先生はこれは必ず意味のあることだと仰ったそうです。
以来、同志は「ムイト・マイス・ダイモク(もっとたくさん題目を)!」
を合言葉に新たな挑戦を開始。良き市民を目指し社会貢献に励んできた。
翌75年、ブラジルSGIはブラジリア連邦区の要請を受け、ブラジル文化祭を開催。
その模様が新聞に大きく報じられ、徐々に社会の見方が変わっていく。
アタイデ総裁
84年2月、フィゲイレド大統領(当時)の招聘で18年ぶり3度目となる訪伯が実現。
4度目の93年2月には、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と会見。
先生はアジア人初となる同アカデミー「在外会員」に就任した。
ブラジル最高勲章など数々の称号
以来、ブラジルの友は師匠との忘れ得ぬ原点を胸に、全土に信頼と友情のネットワークを広げてきた。
その証しとして先生の地球規模の業績に対し、同国の最高勲章「南十字国家勲章コメンダドール章」やサンパウロ市など150以上の州・市から名誉州民・市民証等が贈られている。同国の学術機関からは、リオデジャネイロ連邦大学をはじめ29の知性の宝冠を戴いている。
ブラジル創価学園
ブラジル創価学園もあります。
アマゾン創価研究所
生物多様性の宝庫であり、地球上の多くの酸素を供給しているアマゾン熱帯雨林が破壊され危機に貧している。ブラジル、マナウスにあるアマゾン創価研究所では、アマゾン各地から原生種を集め約2万本の植樹に成功。原生動物も徐々に戻り始めたという。
しかしブラジル現地では今なお森林伐採は文明の発展のためだと考えられており、環境保護への意識は高いとはいえず、人間の手による自然破壊への懸念はたえない。
こうした中、アマゾン創価研究所では、現地の子供たちに対し環境教育に力を入れており、植樹活動をしたり、人と自然が共生する重要さを学んでいるという。