「春と修羅(序)」に思う


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春と修羅(序)

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが
それらは畢竟こころのひとつの風物です


宮沢賢治は友人である森佐一に宛てた私信でこれは
「詩ではなく心象スケッチ」だというのですが、
多くの人々を惹きつけてきた不思議な心象風景のであります。

賢治は岩手県花巻の出身で、メジャーリーグエンゼルス
大谷翔平選手やマリナーズ菊池雄星選手と同郷です。

実家は浄土真宗で母親は念仏を唱えてましたが、
19歳の頃に島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読み、
法華経の思想に触れ、”震えるような感動”を受けたといいます。
十代で法華経を読んで感動するというのが、
まず普通ではありえず、非凡さを物語っていますね。

この「春と修羅」は「注文の多い料理店」とともに存命中に、
自費出版された希少な作品ですが、当時は世間から全く評価されず、
ごく僅かしか売れなかったといいます。

賢治は友人に対し、作品を世に出した試みについて
次のような心境を綴っています。

「(春と修羅の序文について)
…これらはみんな到底詩ではありません。
私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、
或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、
境遇の許す限り、機会のある度毎に、
いろいろな条件の下で書き取って置く、
ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。
私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、
歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、
それを基骨としたさまざまの生活を発表して、
誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。」

このように出版したことを、自ら野心的であり無謀だというのですが、
その先駆的、独創的な世界観が認められたのは没後になってからです。
現在ではその名を知らない人はなく、教科書に載るほどですが、
歴史を超えた優れた作品というのは、人々から理解されるのに
時間がかかるものなのかもしれません。

また手紙の中で「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」
ともありますが、これはいかなる”変換”を意味しているのでしょうか。

ともあれ、当時はまだ未解明であった量子力学や物理学の知識、
仏教的世界観が感じられるこの冒頭の序文は、
多くの人々を惹きつけ語られてきたのですが、
以下、序を見て私なりに感じた解釈はこうです。

わたくしという現象(存在)は、
色、受、想、行、識(五蘊)からなる精神と物質が
仮の宿として和合した存在であり(仮和合)、
人間やあらゆる生命体が、
各々の生存をかけてせめぎ合いながら連関し(縁起)、
我々の生存を成り立たしめる環境世界と相互依存しながら(身土、依正不二)、
生死を繰り返している存在なのである(輪廻、明滅)
実に因果応報の道理を踏まえながら、
命の灯火が確かにあり続けるのである(因果の理法)
(たとえ肉体は滅びても命の灯は消えず(蝋燭の比喩、ミリンダ王の問い))


初期仏教では肉体の不浄が強調されます。
五蘊が煩悩に満ちた有漏であること)
五蘊を自己をみなしてはならないことから「無我説」があらわれますが、
ともするとこれでは「わたくしという現象」は無くなってしまいます。

そもそも釈尊はいつか死を迎える肉体を指して「非我」と呼んだのであり、
それがいつの間にか、「無我」であるから輪廻の当体も存在しない、
などと誤解されるようになったのです。
無我説はこのように矛盾した問題を抱えているのですが、
法華経においてはそれらが明確に転換されます。(常楽我浄となります)

すなわち法華経方便品等において、
現象論(梵文)あるいは当体論(鳩摩羅什)としての十如是、
そして十界の生命が示され(修羅は下から4番目、春は天あるいは仏)
それが因果俱時、十界互具の一念三千として展開し、
末法に到って、日蓮法華経を通じて己心の悟りであるところの
御本尊を御図顕され、南無妙法蓮華経と唱えることで
一切衆生が凡夫の身のまま成仏する道が示されたのです。

賢治もこの妙法を胸に抱き、数多くの作品を著わしました。

最後に、日蓮の有名な一節です。
「所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず
九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、
然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず
嬰児の水火を怖れざるが如し、
外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆
己心の法を片端片端説きて候なり、
然りといへども法華経の如く説かず」
蒙古使御書