「ルネサンスとは何であったのか」塩野七生 新潮社より

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ルネサンスとは、一体全体何だったのですか」

「はじめから、本質的な質問をしてきましたね。ならばこちらも、歴史的・宗教的・政治的・経済的な要因の説明は後回しにして、本質的な回答で応ずることにしましょう。見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした」

「でも、見たい知りたいわかりたいという欲望は爆発しただけではなく、造形美術を中心にした各分野における作品(オペラ)に結晶しています」

「創造するという行為が、理解の「本道(ストラーダ・マエストラ)」であるからですよ。ダンテも言っています。考えてるだけでは不充分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめて「シェンツァ」になる、と。イタリア語のシェンツァは英語に直すとサイエンスですが、この場合は科学とか学問よりも、これらの言語の語源であるラテン語のシエンティアが意味した、知識」ないし「理解」と考えるほうが適切でしょう。このダンテの言が正しいことは、あなたが今考えていることを、誰か他者に話すか、それとも文章に書いてみたらわかります。頭の中で考えていたことが、表現という経路を経ることによってより明快になるという事実が。話すとか書くことが他者への伝達の手段であるとするのは正しいが、それとても手段の一つにすぎません。自分自身の考えを明快にするにも、実に有効な手段でもあるのですよ」

中略)

ルネサンス時代とは、要するに、見たい知りたいわかりた、と望んだ人間が、それ以前の時代に比べれば爆発的としてもよいくらいに輩出した時代なのですよ。見たい知りたいわかりたいと思って勉強したり制作したりしているうちに、ごく自然な成り行きで数多の傑作が誕生した、と言ってもよいくらいです」

「ではなぜ、見たい知りたいわかりたいという欲望が、あの時代になって爆発したのですか」

「それまでの一千年間、抑えに抑えられていたからでしょう」

「誰が抑えていたのですか」

キリスト教会が。イエス・キリストの教えのうちの最重要事は、信ずるものは幸いなれ、です。つまり天国は、信ずる者にのみ開かれているというわけで。この反対は、疑うということです。あなたのように”なぜ”を連発する態度からして、あなたにはすでに”ルネサンス精神”があるということになる」

「となれば、天国行きは絶望的ということですね」

ルネサンス以前の中世に生きたキリスト教徒であれば、望み薄ですね」

ルネサンスとは何であったのか」塩野七生 新潮社 より)

 

ルネサンスという絢爛たる文化が花開いたのは、千年に及ぶローマカトリック教会による民衆の支配と抑圧が背景にあったといいます。イタリアはルネサンスの中心地としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしました。1440年頃には、ドイツでグーテンベルク活版印刷を発明し、それまでラテン語のみであった聖書がドイツ語に訳されて大量に印刷され、一般民衆も聖職者を介することなくキリスト教の教えを、聖書を通じて直接知ることができるようになり、ルターの宗教改革を後押ししました。しかし1600年には、宇宙の無限姓や地動説を唱えたブルーノが異端者として火刑となるなど、自由な科学研究は教会権力によって打ち砕かれ、古い因習からの反動で始まったルネサンスの時代は終演を迎えました。その後、文化の中心地はイタリアからフランスへと移っていきます。

私がブログを書いているのも、見たい知りたいわかりたい、そしてそれを自分なりに解釈して、自身の言葉で表現したいと思うからです。しかしなかなか時間が取れないのが現実です。
フランシス・ベーコンが「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする」といっていますが、誰かに伝えることで知識や経験が血肉化していきます。
たぶん自分が理解したいことはまだ全然理解できてないし、表現もできてないだろうな、と思いつつも、たとえ小さな断片でも形にするしかない、というような感じです。いつも頭の中ではさくっと終わらせるつもりが、いざ調べたり書き始めるとなると意外と時間がかかったりする、そんな試行錯誤の連続です。