長谷川等伯は現在の石川県、能登国七尾の出身。
武士の子として出生し、染物屋を営む長谷川宗清の養子として絵を学ぶ。
宗清は室町時代の水墨画の絵仏師(画僧)・雪舟の弟子であった。
また日蓮信徒でもあり、信春(等伯の幼名)もその影響を受け、
多くの法華経絵画を残す。
当時の七尾は支配者・畠山義総のもとに京都から公卿や歌人、連歌師、禅僧
などが下向し、等伯はそのような文化的環境で育った。
「日蓮聖人像」 1564年 本延寺蔵
26歳頃の作品だが完成度は高い。生家の菩提寺である本延寺に彩色寄進。
「釈迦・多宝如来像」 1564年
「鬼子母神・十羅刹女画像」 1564
富山・妙伝寺・日敬上人依頼。
十羅刹女は、法華経陀羅尼品第二十六に登場する10人の女性鬼神。
鬼子母とともに法華経を受持、読誦する者を守護すると仏・釈尊に誓う。
守護神または諸天善神という。
守護を願い、誓いを立て、願をかける頼りとなる存在ではある反面、
信仰者が誓いを破ったり、信仰者らしからぬ振舞いを行ったりしたときは、
悪人だけでなく、彼らにも罰を下す恐ろしい存在である。
「十二天図」1564年 正覚院
「善女龍王像」
法華経提婆達多品第十二の「竜女」の像。
ある日、等伯が画材を仕入れるために上洛した際に、
狩野永徳の描いた「二十四孝図屏風」を見て衝撃を受ける。
上洛し、本格的に絵を学ぼうと決意。
「二十四孝図屏風」(狩野永徳)
等伯が33歳の頃(1571年)に養父母が相次いで亡くなり、
それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛。
日蓮宗・本法寺を頼り、仏画制作に励む。
最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶがすぐに辞め、
京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。
狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、
牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。
それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していった。
「花鳥図屏風」 京都国立博物館
「花鳥図屏風」
右隻は現存しておらず左隻のみ(雪舟の構図の影響がみられる)
代表作「松林図屏風」1592年
等伯が晩年に描いた水墨画の傑作。
「楓図」 1593年(国宝 智積院所蔵)
依頼主は秀吉。前年に狩野永徳が逝去したため制作の任を受ける。
永徳の檜図の影響を受けながらも、模倣にとどまらず一枚一枚の葉が色彩豊かに描かれている。
「仏涅槃図」
息子・久蔵の逝去後七回忌の法要に制作。日通上人依頼。
仏の入滅を嘆き悲しむ人や動物たち。当時の人々の度肝を抜いた。
釈尊は、四方にそれぞれ2本ずつ若木(左)と枯れ木(右)に囲まれている。
※四枯四栄(しこしえい)