キューバの歴史(コロンブスからキューバ危機まで)

「新・人間革命第7巻 文化の華の章」を参照しながらまとめてみました。


キューバの歴史
(スペインの植民地時代)
1492年 コロンブスキューバ上陸
   コロンブスはインドに到着したと思い、現地人をインディオと呼ぶ。

1511年 スペインに征服される 
 現地住民は、抵抗しては虐殺、虐待に遭い強制労働させられた。多くは疫病で絶滅。
 16世紀以降の大西洋間奴隷貿易で100万人以上の奴隷がスペイン人につれてこられ、
    サトウキビやコーヒーの農園で働かされ、家族は引き裂かれた。

1791年~ ハイチ革命・建国 
 同じカリブ海の東に位置しフランス植民地にあったハイチが独立革命を起こし成功。
 アフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命といわれる。

19世紀初頭 南米でシモン・ボリバルらによる独立革命
 南米各国で相次ぎ、キューバはスペインの最後の植民地となる。

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1868年 キューバで最初の独立戦争(日本では明治維新の年)
 抵抗運動とスペインによる過酷な弾圧が繰り返され、自由を求める民衆の抵抗は勢いを増す。

1895年 第二次キューバ独立戦争
    詩人であり、「独立の父」といわれるホセ・マルティが主導。
   16歳で独立運動に身を投じ、ニューヨークでキューバ革命党を設立。

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1898年、米西戦争
   スペインが敗戦し、キューバアメリカの軍政下に入る

1902年 キューバ独立(しかし1934年まで事実上アメリカの保護国に)
 その後も新米政権が続きアメリカの影響下にあった。

(以下、新・人間革命からの引用)
いわば、アメリカの絶大な干渉下での独立であり、独立後も、アメリカ資本による経済的支配は一段と進んでいった。キューバの国内産業は砂糖一品目に依存させられ、国民の大半はサトウキビ畑での重労働に従事するしかなかった。しかも、一方で日用品をはじめ、あらゆる製品はアメリカから買うように仕向けられていた。アメリカが、キューバ独立戦争に介入し、スペインと戦った時には、キューバに自由をもたらそうとの思いもあったであろう。しかし、その後のキューバは、事実上、不幸にしてアメリカの″半植民地″になってしまったといえる。そうなれば、貧困を強いられたキューバの民衆のアメリカへの感情は、当然、否定的なものとならざるを得ない。そうしたなかで、第二次世界大戦後の一九五二年、軍人出身の元大統領バティスタがクーデターで政権を奪取した。彼は、約七年にわたって私腹を肥やし、国民を圧迫。腐敗した独裁者として君臨したのである。

1959年 キューバ革命フィデル・カストロ
 カストロが手動したこの革命により、キューバソ連の影響下にある
社会主義国に転換。
 従来の政党は解散させられ、キューバ共産党による一党独裁体制が始まる。

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(以下、引用)
その悪名高き独裁を覆したのが、フィデル・カストロを指導者とした″キューバ革命″であった。一九五九年の元日、独裁者のバティスタは、国外へ逃亡し、民衆の歓呼に迎えられて、革命軍は首都ハバナに凱旋したのである。この時、カストロは満三十二歳。新生キューバの若き獅子であった。バティスタの革命運動に身を投じて、足掛け七年。武装蜂起、投獄、亡命、そして、山中でのゲリラ戦と、生死の境を超えて民衆の支持を勝ち取り、独裁者を追放した、筋金入りの革命家であった。キューバの革命政府は、当初、穏健派を主要閣僚に据えるなど、社会主義革命を前面に押し出していたわけではなかった。当時、アイゼンハワーが大統領の地位にあったアメリカも、ほどなく新政府を承認した。しかし、二月にカストロが首相になると、労働者や農民を主体とする″人民革命″の色彩を強めていく。国民の間に生じていた、極端な貧富の差を是正するには、そうせざるを得なかったのであろう。たとえば、五月には、農業改革法を定め、大土地の接収に踏み切っている。また、一九六〇年、キューバが輸入したソ連産の原油の精製を、アメリカ資本の石油会社(三社)が拒否したため、彼は石油の精製を国有化した。これらがキューバアメリカの関係を、決定的に悪化させたのである。アメリカは、対抗措置として、キューバの砂糖の輸入を大幅に削減。その後、アメリカ製品のほぼ全面的な禁輸を決めるなど、経済封鎖によるキューバの孤立化を推し進めた。キューバは、砂糖が輸出できなければ食べてはいけない。その時、手を差し伸べたのがソ連であった。当然、キューバソ連との関係を深めていった。


1961年 アメリカとの関係が途絶

キューバ社会主義は急速に進み、大企業と土地の国有化が推進された。一説では、一九六〇年の末までに、キューバでは、約十億ドルのアメリカ資本が国有化されたという。こうしてキューバアメリカの関係は、悪化の一途をたどり、翌六一年の一月三日には、アメリカはキューバとの国交を断絶したのである。1月20日に、ケネディが第三十五代の大統領に就任した時、既に両国の対立は、抜き差しならぬ状態になっていたといってよい。それは、早くも、その年の四月十七日に、″キューバ侵攻事件″として表面化することになる。これは亡命キューバ人の部隊が、キューバに上陸し、攻略しようとした事件であったが、その計画や実行には、アメリカのCIA(中央情報局)が深く関与していたのである。当時、アメリカの首脳にもたらされていた情報によれば、ひとたび、亡命キューバ人部隊が上陸すれば、国内にいる反カストロ勢力が立ち上がり、政府はあえなく転覆するだろうと伝えられていたという。ところが、事実は反対であった。亡命キューバ人の部隊は、キューバ民兵に、わずか三日間で撃退され、しかも、反カストロ勢力が蜂起するどころか、ますます、キューバ国民を団結させることになってしまったのである。この事件により、ケネディは、内外から激しい非難を浴びることになる。ケネディは、大統領選に出馬する直前、カストロのことを、南米解放の父シモン・ボリバルの「思想的後継者の一人」と位置づけていた。また、キューバをはじめラテン・アメリカ諸国が抱えている重荷や、革命にかける人びとの希望についても、努めて柔軟に理解しようとしていた。そのケネディが、前政権の″置き土産″とはいえ、キューバ侵攻の計画を認めてしまったのは、歴史の皮肉といえようか。一方、カストロは、このころ、「キューバ革命社会主義革命である」と宣言するに至った。キューバにとって、アメリカは強大な「北の巨人」であった。侵攻事件は、そのアメリカが、いつ攻めて来るかもしれないという、強い危機感を募らせた。それが、キューバソ連への接近に、一段と拍車をかけることにもなった。


1962年 キューバ危機
   ソ連の中距離ミサイルが持ち込まれ、アメリカが海上封鎖・武器を積んだソ連船を臨検。

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(以下、引用)

キューバに、ソ連の中距離ミサイルが設置され、使用可能になれば、首都ワシントンやニューヨークなど米本土の中心都市が攻撃の射程に入ることになる。米首脳の間では、大激論が交わされた。ケネディ大統領の発表を聞いたアメリカ国民の間には、核戦争前夜のような緊迫感が高まった。いや、アメリカのみならず、核戦争の脅威が世界を包んだのである。ところで、この事件の背景には、一つには、いうまでもなく、米ソ両大国の″冷戦″の問題があった。米ソ両国は、第二次世界大戦後、熾烈な核軍拡競争を繰り広げてきた。一九四五年にアメリカが最初に原爆をつくると、後を追うように、ソ連も四年後に原爆を保有し、アメリカが一九五二年に水爆実験に成功すれば、ソ連も翌年には水爆を完成させたところが、一九五七年になると、ソ連大陸間弾道ミサイルICBM)を開発し、更に、世界初の人工衛星スプートニク一号、二号の打ち上げに成功する。それは、ソ連が、核ミサイルを、直接、アメリカまで飛ばせる技術をもつに至ったことを意味していた。当初、アメリカが先行してきた核軍拡競争であったが、にわかに、ソ連が軍事的に優位にあることを示したのである。アメリカの衝撃は大きかった。また、危機感も生じた。ソ連の方も、ことあるごとに、核ミサイルの威力を宣伝し、誇示した。

キューバへのミサイルの配備に、アメリカとしていかに対処すべきか――それには、決して、模範解答があるわけではなかった。暗闇のなかでの、手探りに等しい協議であった。ある者は、直ちにキューバを空襲し、ミサイル基地が使用可能になる前に、徹底的に破壊すべきだと主張した。すると、別の首脳は、それは際限のない報復合戦となり、結局、全面核戦争という最悪の事態になってしまうと反論した。政治的な交渉であたるべきだとする者や、当面は、静観すべきだという少数意見もあった。相手のあることであり、容易に結論の出る問題ではなかった。対応策は、固まりかけては、また、再検討された。

奇襲攻撃を仕掛けるべきだという、こうした軍人たちの声高の主張を聞いて、大統領の弟で、司法長官の任にあったロバート・ケネディは、アメリカは日本の真珠湾攻撃のようなことをすべきではない、と語ったともいわれている。

緊迫した状況のなかでのアメリカ首脳の協議は、激しく意見が対立し、紛糾していた。怒りが爆発し、感情的なぶつかり合いも起こった。恐怖と緊張が極限に達した時、しばしば人間は、自制力を失い、安易な道を選択したり、戦争という誘惑に負けてしまうものだ。それは″恐怖の均衡″が戦争を抑止するという、いわゆる核抑止論が、いかに根拠薄弱なものかを示して余りある。大統領の弟のロバート・ケネディは、この時の模様を、こう回想している。「われわれ一人一人が、全人類の将来に影響する勧告を作成するよう要求されていたのである。その勧告は、もし間違っていて、もし受諾されたら、人類の破滅を意味するほどのものであった全面核戦争エスカレートしかねない危機下で、その最終的な決断は、たった一人の人間――ケネディの胸一つにかかっていた。会議が五日目に入った十月二十日の午後、ケネディ大統領は、遂に、最終的な対応を決断した。それは海上封鎖」案であった。ケネディは、この決断を下すまでの間、スタッフにあらゆる可能性を忌憚なく協議させたが、全面核戦争に発展する危険性の高い、即時の軍事侵攻には、一貫して与しなかったといわれている。彼は、この危機的状況においても、自らの内面を見事に統治する″管理能力″をもっていたといえよう。第二次大戦中、ケネディは、日本軍の攻撃で、乗っていた魚雷艇を大破されるが、自身も体を痛めながら、部下を助けて危機を脱出している。こうした彼の冷静さは、この「人類の危機」においても発揮されたのであるいかに文明が進歩しようとも、いかに時代が変わろうとも、最後に、問われるのは「人間」自身である人間の決断が、自らの運命を、そして、世界の運命を決定づけていくキューバ危機″は、改めて、この当たり前のことを実感させたといえまいか。アメリカの科学者ライナス・ポーリングは、ケネディに対して、政府の決定を撤回するよう求める電報を打った。「海上封鎖」も、その後の経緯のいかんでは、全面核戦争にエスカレートする危険性をはらんでいるからである。それは「世界には軍事力や核爆弾という悪の力よりも更に偉大な力がある。善の力、道徳や、ヒューマニズムの力である」との、彼の信念から発した行動といえた。また、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルも、米ソ首脳に打電し、海上での接触を避け、自重するように求めたのである。演説の翌二十三日の午前、ケネディは、キューバの隔離、すなわち「海上封鎖」の宣言に署名した。この日、ケネディは側近にこう語った。なによりも大きな危険は誤算――判断を誤ることだ」と。