夕張炭労事件


北炭夕張炭鉱

こんにちは。
今回は夕張炭労事件について、「池田大作の軌跡Ⅰ(潮出版社)」や聖教新聞の記事等を参照しながら、まとめてみました。

夕張炭労事件とは、創価学会を支持母体とする公明党やその前身である公明政治連盟が結成される以前に、創価学会の会員が初めて国政選挙へ出馬した際に、夕張炭鉱内で働く学会員が組合や坑内で働く他の労働者から受けた不当な扱いや仕打ちを指します。
創価学会が宗教団体として初めて国政進出を行った際に起きた迫害です。
現代においてなお、宗教団体の政治参加は必ずしも理解されているとはいえない面があります。まして当時はなおさらで、この夕張炭労事件の直後には大阪事件が起き、当時創価学会の最高責任者であった池田大作参謀室長が、選挙活動をする学会員に違法な指示をしたという疑惑が持たれ、不当逮捕されるなど、戦後初めて本格的な国家権力からの弾圧が容赦なく加えられていきます。この夕張炭労事件に続く大阪事件も無罪判決が出るまで5年もの裁判を要したのでした。


■政界進出および結党の流れ
1954年、第2代会長・戸田城聖先生が前年の参院選で選挙投票依頼を受けたことを機に「文化部」を設置。
1955年、文化部から全国初の創価学会員の地方議員が当選
1956年7月8日の第4回参議院選挙で創価学会は独自候補を立て、支援を呼びかける戦いを展開。3名の参議院議員の当選を果たす
    (この時起きたのが)夕張炭労事件 です。
1961年、公明政治連盟結成
1964年、公明党結党


■第4回参議院選挙 1956年(昭和31年)
創価学会から初の参議院議員選挙の出馬ということで、夕張の学会員は下駄の底がすり減るほど選挙活動に歩いたのですが、炭労が推薦する社会党候補と対立したことから弾圧が加えられました。
この頃、炭労といえば「泣く子も黙る」と言われるほど畏れられている存在でした。
国の政治と経済の両方ににらみを利かし、世はまさに「炭労の天下」でした。
炭労が絶大な影響力を持っていた理由は、石炭は産業革命以後「黒いダイヤ」と呼ばれ、当時最大のエネルギー源が石炭だったからです。
ですので石炭産業の現場を支える炭労がひとたびストを打てば、国の基幹産業はたちまち立ち行かなくなってしまいます。
このような石炭を必要とする時代にあって、北海道・夕張は九州三井三池炭鉱と並ぶ
日本有数の石炭産業の町であったのです。(メロンの産地としても有名です)

そんな選挙戦のさなか、炭労の幹部らしい4,5人の人物が「折伏経典」を手にして、
学会員にこういいました。
「学会を辞めなかったら、お宅の旦那はクビだ」
これに対し、学会婦人たちは「選挙は自由!」と連呼し応戦したそうです。
会社内で上司が棄教を迫るというのは、現在では考えられないことですが、「折伏経典」を手に、とあることから同書に書かれた諸宗の檀徒が本を読んで激高したものと思われます。失職すれば、家族ともども路頭に迷うことになります。それでも投票の自由、選挙活動の自由を掲げ、学会婦人たちは組合権力と対峙したのでした。
このブログでは詳しい経緯は省きますが、創価学会の組織では、立正安国の戦いにあっては三障四魔が生じることを予見し、御書の精神を胸に選挙活動をしていたようです。

結果は、全国区に立候補した学会推薦の辻武寿は23位で当選。
炭労推薦の社会党候補、阿部竹松は29位でした。
なんと炭労が推す候補者の得票数を大きく引き離しての勝利となりました。
この時、炭労の幹部が悔しがって放った言葉は、
「くそっ、法華のやつらめ!」だったといいます。
法華経は一切衆生を救済すると高らかに宣言し、「諸経の王」を自負する唯一の経典であることから、それを快く思わない諸宗の人々がたくさんいるのです。

さてこの選挙戦において学会側の意外な善戦に対し、面目丸つぶれの夕炭労は露骨な嫌がらせをしてきました。
(以下、ルポライター竹中労氏談)

・学会員への労働金庫の貸出拒否
・炭住長屋の補修サボタージュ
・組合を除名するぞと、ユニオンショップ性の労働協約を盾にとっての恫喝(事実上の失職を意味する)
・「炭婦協」主催の指人形劇の会で学会員の子だけ菓子を配らない
などの村八分ともいえる子供までも巻き込んだ差別が行われたそうです。

また、

・学会員炭鉱夫のかばんに「仏罰当たれ」との落書き
・石炭を運ぶ炭車にも学会の悪口が書かれていた
・採炭場で休憩時間に学会炭労者が弁当箱を開けようとすると、石炭のかけらを投げつけられて弁当箱の蓋が飛び、炭塵で白米が真っ黒になったこともあったそうです。
この時、「くっくっく…」と小馬鹿にした含み笑いが聞こえたそうです。
通常はお弁当を食べる際、空気中に炭塵が漂っているのでそれらが降りかからないように、蓋を少しずつ空けながら気を付けて食べるのだそうですが、嫌がらせの投石によって白米が炭だらけになってしまうと、その時点でもう食べることはできなくなります。
地下深く潜って、長時間行う重労働の坑内で一食抜くことは死活問題です。
以上のことは学会員の証言に基づくもののようですが、思想信条が違うというだけで、なぜそこまで人を憎むことができるのか、悪質な嫌がらせができるのか、私には信じられません。


(以下、「池田大作の軌跡Ⅰ」p135より)
地の底700メートル。坑道を支える鉄の支柱がアメのように曲がるほど圧力がかかっている。腹に響く山鳴りも聞こえる。いつ落盤やガス漏れがあるかわからない。大自然の前で、ちっぽけな人間は、守り合うしかない。そこでのけ者にされた学会員の心中は想像を絶する

また、炭鉱長屋の井戸端会議では「あれが神札を焼く大悪党だよ」とささやかれる。
・家で題目をあげると壁を蹴っ飛ばされた。
・隣人がマサカリで壁を壊す事件があった。
・「ここは創価学会の家」「暴力宗教は撲滅!」と壁やガラス窓にデマビラを何度も貼られた。
・有線ラジオをつけると「神棚を焼く宗教が布教している。気を付けてください!」

なんとラジオでも学会批判が。


夕張炭労事件を取材したルポライター竹中労は、
「夕張における『炭労』vs創価学会の対決は”信仰の自由”をめぐる争いであったことは言わずもがな、同時に戦後階級闘争の矛盾を露呈したエポック・メイキングだった。」と述べています。

■神棚を焼く行為について

以上みてきたように、夕張炭労事件の根底には政治と宗教の問題が横たわっています。
例えば、創価学会に入信する人が謗法払いとして神札や神棚を破棄することはたしかに行われているのですが、これは教義上の問題であり、本人の同意を得てされるものですので、闇雲にしているわけではありません。あくまで帰依すべき御本尊は南無妙法蓮華経であり、妙法を行ずる人を守護する諸天善神の名はすでに曼荼羅本尊に刻銘されているのです。日本の宗教史では本地垂迹と呼ばれますが、戦前はこれが逆転する現象が起きてしまったのです。そしてそれは極めて悲劇的な結果を生じさせてしまいました。(このことについては、またの機会に)

対して、戦前の国家神道は神札を受け取らないという理由で初代会長牧口常三郎先生と
第二代会長戸田城聖先生を投獄し、その結果、牧口先生は獄死させられました。
創価学会では、この時の無念、戸田先生の嘆きを繰り返し繰り返し学びます。

戦前のこのような国家神道による宗教弾圧は、信教の自由に反するばかりでなく、人命軽視の所業であり、このようなことは信仰の自由を巡る問題や宗教の正邪、本質を権力者や大衆が必ずしも理解してないことに根源的な問題があります。
戦争中の一億層玉砕や臣民思想教育も、哲学なき浅はかな宗教観に淵源があります。
ここに正しい哲学、理念を持った宗教が政治権力と関わるべき重大な問題があります。「宗教は政治に関わるな」などと幼稚なことをいってる時代ではないのです。そもそも日本は憲法天皇制を採用している国なのですから。

池田・トインビー対談で池田先生は、このような神道における「哲学性の欠如」を批判しています。哲学や信念が体系化されていないというのは、言い換えれば、政治権力者に容易に利用されてしまうということです。これは神札を安易に受け取った日蓮正宗にも該当します。創価学会日蓮正宗は同じ日蓮仏法を信仰しているのですが、日蓮大聖人の精神に適った行動がとれるかどうかは、いざという大事な場面で現れるのです。

現在のような日本人の宗教観はいかにしてつくられてきたのか。江戸時代という長い封建時代のなかで宗教は政治権力の支配下におかれ、しばしば特定の信仰が弾圧の対象となったり、信教の自由な変更や議論は抑制され、西洋社会と比べても宗教的議論、哲学的考察が深められなかったこととも関連すると考えます。

また鎌倉時代には、日蓮が正邪を巡り法論を挑みながら、諸宗の僧は一顧だにせず
無視しただけでなく、卑劣にも迫害し命まで奪おうとした仏教宗派の浅はかさとも深いつながりがあります。


人間の存在とはいかなるものか、人はいかなる目的で存在するのか?
国や社会の安寧、繁栄はいかにして得られるか?
このような国家論や政治権力との関わりは、本来日本の仏教史にあって深い関連があるにも関わらず、法華経以外の権教では、それらの国家観、人間観が忌避される傾向があります。仏教は長い歴史のなかで鎮護国家としての役割を担ってきたのであり、それらの正邪優劣を巡ってみるべき議論も交わされてきたのです。しかしいつの間にか、仏の真意はいかなるものか、正しい仏法とは何かという高邁な論争は忘れられ、退けられてしまい、日蓮の時代には法論では太刀打ちできないから暴力や迫害で片を付けるという事態が起きるほど、仏教精神は地に堕ちてしまっていたといえます。

以上述べてきたような、いじめ、迫害、命を奪うという行為は仮に宗教観の相違が根底にあるとしても、その暴力自体は信仰に基づいた行為とはいえません。いかなる経典にもそのようなことは書かれていないし、推奨されてもいません。仏教を知らない人間が、勝手に解釈して、思い込みを激しくして暴力を振りかざしているにすぎないのです。これは仏教に限らず、また宗教という枠を超えて、イデオロギーナショナリズムについても同じことが言えます。ネットにおける嫌がらせ、悪口、中傷の類いはすべからく、人間観および哲学性の欠如に由来するものであり、思想信条なき教育の欠陥によるものにほかなりません。妙法という優れた法があるにもかかわらず、浅はかに相対化され、無視されているがゆえに世の中が難を逃れることができず、混乱し続けているのです。「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る」 (立正安国論


さて長々と述べましたが、最後に夕張炭労事件に戻りますと
1957年の池田室長を中心に行われた札幌大会と夕張大会を機に事態が大きく転換されていきます。

夕張大会を炭労の幹部らが傍聴し、
池田会長はこの時、
「最後まで学会の主張をはっきりと聞いていっていただきたい。終わってから懇談しましょう。」と述べ、
炭労幹部は、
「学会の主張はよくわかりました。私どもとしては決して浅はかな行動はとりませんから安心してください。」といったのだそうです。
そして炭労は学会を排除する方針を次第に改めていったといいます。


夕張大会

しかしながら冒頭にも述べたように、1962年に大阪事件が起こり国家権力からの弾圧はいや増して強くなっていきます。
日蓮大聖人が立正安国論鎌倉幕府に上奏した後、立て続けに草庵焼き討ち、流罪等に遭ったのと同様、妙法を行ずることで三障四魔が競い起こるという法華経の経文がそのまま現実のものとなっていきます。