各国が競って香辛料を求め、利益拡大を図っていくのですが、
同時代に起きていた現象に、
ルネサンスによる新たな知識・技術の獲得
がありました。
その後、ヨーロッパ勢力によるアフリカ、アジア、南米地域への支配と植民地領有が始まり、中世から近代にかけて世界が大きく変動していきます。
エンリケ王子
711年にキリスト教勢力としてイベリア半島を統一していた西ゴート王国がウマイヤ朝のイスラム遠征軍に滅ぼされて以来、イベリア半島およびアフリカ北部一帯はイスラムの支配下にありました。
その後718年から1492年の「グラナダ陥落」まで、約800年間、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服運動(レコンキスタ)が始まります。
その後718年から1492年の「グラナダ陥落」まで、約800年間、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服運動(レコンキスタ)が始まります。
イスラム勢力の支配下にあって、大部分のポルトガル人はイスラム教に改宗し、ラテン語の他にアラビア語もさかんに使われるようになります。また造船技術や羅針盤、イスラムの建築様式など、ポルトガルの科学と文化の発展には、イスラム世界から伝わった技術や文化が大きく寄与しています。
宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていた。
エンリケ王子、アフリカ西岸航路開拓への情熱をともす
エンリケ王子は、イスラムの地・セウタでプレスタージョンの伝説を聞き、それまでのようにサハラ砂漠を越えてイスラム商人のキャラバンを通じて行われる貿易を通じてではなく、独自に金と香辛料を求める海路として、アフリカ西岸航路の開拓ひいてはインド航路開拓しようという野望を抱くようになります。
プレスタージョン伝説とは
イスラム教徒に勝利を収めたと伝えられていた。
恐怖のボジャドール岬
エンリケが派遣した海洋探検隊はアフリカ西岸にある諸島を次々発見していきます。
1427年にアゾレス諸島
など。
しかし、当時知られていたアフリカ沿岸の最南端の地は、カナリア諸島から南に200キロにあるボジャドール岬であり、その先は世界の果てであり、海は沸騰しており、生きて帰ることのできない前人未到の地として航海士たちに恐れられていました。当時はまだ地球が丸いことさえ知られておらず、1522年にマゼランが世界航行を果たすまで地球は平面であると多くの人々に信じられていたのです。
しかもまだ誰も通ったことのない航路であり、逆風を南進する船の構造や航海技術、潮の流れを読み切れず、踏破するのに何年も費やし、北アフリカ海岸やスペイン南部のグラナダ王国で海賊行為に走るありさまでした。
しかもまだ誰も通ったことのない航路であり、逆風を南進する船の構造や航海技術、潮の流れを読み切れず、踏破するのに何年も費やし、北アフリカ海岸やスペイン南部のグラナダ王国で海賊行為に走るありさまでした。
ようやくボジャドール岬に到達したのは1434年で、セウタ攻略から19年後のことです。
この頃には、航海経験も増え、船体や海図の改良が重ねられていきました。やがてキャラベル船という快速船が造られるようになり、ブランコ岬、ヴェルデ岬など新天地を相次いで踏破していきました。
キャラベル船
3本のマストを持つ小型の帆船で、速力と」機動性にすぐれ、逆風でも航行できる。
エンリケ王子が没した時には、シエラレオネまで到達していました。
その後もポルトガル船は、アフリカ西岸を南進し続け、1487年にリズボアを出航したバルトメロウ・ディアスの船は翌年ついに、アフリカの最南端「喜望峰」に到達します。これがジョアン1世に報告され、インド洋への航路が開かれてアジアへの進出が始まります。
その後もポルトガル船は、アフリカ西岸を南進し続け、1487年にリズボアを出航したバルトメロウ・ディアスの船は翌年ついに、アフリカの最南端「喜望峰」に到達します。これがジョアン1世に報告され、インド洋への航路が開かれてアジアへの進出が始まります。