ゴッホとゴーギャン(ポスト印象派)~我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

フィンセント・ファン・ゴッホ 1853年3月30日-1890年7月29日
オランダ、ポスト印象派後期印象派を代表する画家。
率直な感情表現、大胆な色使いが特徴。
のちにフォーヴィスムドイツ表現主義に大きな影響を与えました。

 
アンリ・マティスフォーヴィスム

 
ムンクの「叫び」(表現主義


ゴッホは、オランダ南部の牧師の家に生まれ、画商で働いていたが、『聖書』や中世最高の信心書といわれるトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読み耽る一方で、金儲け主義の職場に反感を募らせていき、挙句、解雇されます。そして職を転々としながらも、日々聖書を読み、カトリック教会やルター派教会にも通ったといいます。
やがて聖職者になるために、父を説得し、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるのですが、受験科目の多さについていけず途中で挫折し、父からの援助も打ち切られます。

彼は貧しい人々に教えを説く伝道師になろうと、ベルギーの炭鉱地帯で自ら坑夫として労働しながら伝道活動を始めるのですが、過酷な労働条件や賃金カットで死に絶える労働者を目の当たりにして、不正義に憤るのではなく、『キリストに倣いて』のごとく苦しみに耐える中に神の癒しを見出すキリストの精神は、必ずしも人々の理解を得られなかったといいます。その後、ベルギー郊外で父からの仕送りを頼りに、デッサンの模写や坑夫のスケッチをして生活するのですが、そのような態度を弟テオに批判されます。
以後、弟テオの援助を受けながらミレーの絵を手本に素描の勉強をしたり、デッサン教本から学んでいました。
 
オランダ(ブリュッセル時代は、手痛い失恋もしたようですが、貧しい農民の生活を描くなど暗い色調の絵が多いです。しかしこの時期、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家と交流を持つようになり、ゴッホ自身も本格的に画家を目指すのであれば、アカデミーに進むよう勧められています。

種をまく人(左がミレー、右がゴッホによる模写)

その後、実家のエッテンやハーグ、ニューネンなどオランダ各地を転々とし、アムステルダムでは国立美術館を訪れ、レンブラントなどオランダ黄金時代の絵を見直します。
またベルギーのアントウェルペンに移ってからは、ルーベンスやジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買って部屋に飾ったそうです。この時期も、弟テオからの資金援助に頼っていたのですが、資金のほとんどは画材とモデル代に費やし、食費を切り詰めて生活していたといいます。

1886年、再び弟テオを頼りパリに移ってからは、印象派の影響を受け、明るい色調の絵を描くようになります。この当時、パリでは、ルノワール、モネ、ピサロなど従来の印象派の画家とは異なり、点描を敷き詰めて描くスーラやシニャックといった新印象派が現れていました。そんな中、ゴッホアドルフ・モンティセリという画家に傾倒したといいます。モンティセリは、印象派に先立つロマン主義の画家でドラクロワを崇敬していました。


公園での散歩 (モンティセリ)


南フランスのアルルに移ってからは、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を生み出していきます。
 
夜のカフェテラス」は、アルルに来た友人ウジェーヌ・ボックにカフェに連れて行かれたのをきっかけにして描いたそうです。(カフェで一杯飲む金もないので仕方なく絵を描いたとも。)当時、画材代は高く、ゴッホは食費も切り詰めて生活しており、パンとコーヒーだけの日々もあったそうです。
 
ある解釈によるとこの絵は、中央の人物はイエスキリスト、12人の客は十二使徒になぞらえたもので、レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」がモチーフになっているとも。
ゴッホはかつて聖職者を目指していたこともあり、画家になってからも宗教的情熱を失わずにいたとも考えらえます。
この作品を描いた頃、弟テオに手紙に対して、
僕には宗教がとても必要だということを毎日感じている」と胸中を明かしています。
ただ、通常、印象派は神や宗教を題材とすることはないため、本当にそういう意図があったのかは不明です。

星月夜 1889


1890年7月、ゴッホはパリから30㎞離れたオーヴェルという村の麦畑付近で拳銃自殺を図ったとされていますが、現場を目撃した者はおらず、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もあり、真相は定かではありません。


ゴッホは、とても人気のある画家であり、「炎の人ゴッホなど映画もたくさんつくられています。こちらは2019年公開の最近の映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」


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パリでは全く評価されなかったゴッホは、「新しい光を見つけたい」と南フランスのアルルへ向かう。どこまでも続く大地、風になびく麦の穂や沈みゆく太陽を見つめるゴッホは、「永遠が見えるのは僕だけなのか」と自身に問いかける。そんな中、パリからやって来たゴーギャンに心酔するゴッホだったが、共同生活は長くは続かなかった。孤独を抱えて、ひたすら自らが見た世界をカンバスに写し取るゴッホは、やがて「未来の人々のために、神は私を画家にした」と思い至る。晴れ晴れと穏やかなその瞳が最期に映したものとは――。(C)Walk Home Productions LLC 2018

シュナーベル監督によると、本作品は史実どおりではなく独自の解釈を表したものらしいです。



さて、次はゴーギャンの紹介です。
ゴッホとは一時期、共同生活をしていた画家です。


ポール・ゴーギャン 1848年6月7日 - 1903年5月8日


生誕
1848年のフランス革命」(二月革命)の年に、パリに生まれます
父は共和主義者のジャーナリストだったが、この政変によって1830年以来の七月王政が打倒され、ナポレオン三世の大統領就任を受けて一家はペルーに逃れます。

1848年のフランス革命
この革命はそれまでのフランス革命七月革命とは異なり、以前のブルジョワジー中産階級)主体の市民革命から、プロレタリアート(労働者階級)主体の革命へと転化した。この革命には、当初から社会主義者が参加しており、フランス三色旗に混じって赤旗も振られた。


7歳の頃に、再びフランスに戻りオルレアンで生活します。
ペルーではスペイン語を使っていたため、ようやくフランス語を学びます。
やがて証券マンとして働くようになり、余暇に絵画を描くようになります。
パリ9区には、カミーユピサロ、ポールセザンヌ印象派の新興画家たちがいて、彼らと交流しながら絵を描いていました。
アトリエを持ち、印象派展にも出展しますが、この頃はまだ不評だったそうです。

1882年にはパリで株式大暴落が起き、株式仲介人としての収入が激減したため、画家を本業にするものの、景気は悪く、絵は売れず、生活は困窮していました。しかし、その後も画家コミュニティで絵を描く暮らしを続け、ドガジャポニズムからの影響を受けながら、強烈かつ大胆な輪郭線と平坦な色面のクロワゾニスムを確立していきます。

ある時、ゴッホゴーギャンの絵を見て感銘します。
それはゴーギャンマルティニーク島で描いた絵でした。
(そしてゴッホは金がないので)弟テオがゴーギャンの作品を購入し、二人の交流は始まります。

1888年に二人は、南フランスのアルルにある黄色い家で、9週間の共同生活をしました。この間、互いのことを描いた作品として「ひまわりを描くファン・ゴッホ」や
ゴーギャンの肘掛け椅子」があり、互いに尊敬しあっていたことがわかります。

ゴッホゴーギャンが共同生活した「黄色い家

ゴーギャンの肘掛け椅子ゴッホ作)

ひまわりを描くファン・ゴッホゴーギャン作)

しかしやがて芸術観の違いや激しい口論の末、ゴッホの「耳切り事件」が起き、二人は別れます。ゴッホはその後も、神経症の発作に苦しみながらアルルの病院で入退院を繰り返したそうです。

1891年に、ゴーギャン仏領ポリネシアタヒチに滞在するようになり、現地を題材にした数々の傑作を生みだします。


タヒチの女(浜辺にて) 1891年



イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する) 1891年


そして50歳となる1898年には、有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を完成させます。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 1898年

絵のサイズは、139.1 cm × 374.6 cmで横幅が約3.7メートルあります。
絵の右側にいる子供と3人の人物は、人生の始まりを表わし
中央の人物は青年期で、青い像は、超越者(The Beyond)。
左側の人々は「死を迎えるにあたり人生を諦めた老女」だそうです。
足元の白い鳥は、「言葉の無力さ」を物語っているらしいです。

何といってもこの絵が人々を惹きつけてやまないのは、第一に、深遠で哲学的な主題のせいでしょう。われわれ人間や生命にとって、宿命的かつ根源的なテーマを問いかけたテーマだからです。これはゴーギャンが10代の頃に神学の授業で聞いた、キリスト教教理問答の「人間はどこから来たのか、どこへ行こうとするのか、どのように進歩していくのか」との問いがずっと心に残っていたことが影響しているらしいです。

ところがこのような傑作を描き上げたにもかかわらず、この頃のゴーギャンは娘を亡くし、借金を抱え、家の立ち退きを余儀なくされるほど生活に困窮していました。また健康状態も良くなく、失意のどん底であったため、自殺未遂を図っています。
(画家は、有名になって絵が売れるようになるまでが大変ですね。)
 
ゴッホも弟テオに対し、手紙で次のように述懐しています。
私にはいつも、自分が、どこかのある目的地に向かって歩いていく旅人のように思われる。どこかのというのは、実は決まった目的地がないからだ。そのことだけは明白で真実のように思える。だから、生涯の最後になって、きっと自分は誤っていたということになるだろう。その時には、美術ばかりか、そのほかのすべてのことも単に夢にすぎないし、自分自身は結局何ものでもなかったということがわかるだろう・・・・・・
 
私の悩みはまさにこのことだ、自分は一体何の役に立つことができるのだろうか、何ものかのために、有用な、意味のある役割を果たすことはできないだろうかという疑問だ・・・・・・

このように後世においては、その名を知らぬ人はないほど多大な影響を与えたゴッホも、存命中はこのような苦悩の胸中であったことを明かしています。上述の手紙からは、絵画に関する問題や経済的な貧しさより、人生の目的や自己の存在理由について、確固たる心の拠り所が得られないまま、彷徨っているようにも感じられます。ゴッホは最後、精神病を患い、拳銃自殺したそうですが、ゴーギャンの問いである「我々」の存在本質や人生の目的について、何らかの意味を見出すことができたのでしょうか。
 
ゴーギャンの問いは、我々人間にとって最も根源的な問題であるとともに、仏法が探究し続けてきた究極的なテーマですので、また次の機会にまとめてみたいと思います。
 
最後までお読みくださり、ありがとうございました。