以下の経緯は『高僧伝』(6世紀の南北朝時代に著された名僧たちの伝記、列伝)に詳しい。
(鳩摩羅什の主な経歴)
※五明とは、文典・訓詁の学、工芸・技術・歴数、医学・薬石、論理学、四ヴェーダ・韻律学に相当する。
これらの知識が後の仏典漢訳に生かされてくる。とくに仏教のエンサイクロペディアといわれる『大智度論』は、
これら万般にわたる学問の蓄積がなければ理解できるものではなく、まして翻訳などできない。
また羅什は、沙弥(しゃみ、見習い僧)にして高座にのり、各国語に通じた才能と外典の諸学を駆使した
学識深い説法は、人々を驚嘆させ、国王、重臣も臨席したと考えられる。
羅什に高座を勧めたある沙門は「此の沙弥は軽んずべからず。・・・
・・・亀茲国とカシュガル(沙勒国)の架け橋となるだろう(要約)」といい、両国の修好となった。
一人の沙門の説法が二つのオアシス国家を結び、その高名は漢土まで知れ渡り、やがて係争の的となる。
須利耶蘇摩は羅什の幅広い学識に感心していたが、根本となっている小乗的な展開には物足りなさを
感じていたであろうし、羅什もまた小乗に限界を感じ、須利耶蘇摩の門下に指摘されたかもしれない。
羅什から須利耶蘇摩を訪ね、大乗の教えを請いに行ったのであろうか。
『高僧伝』によると、蘇摩が羅什に「阿耨達経」を説いた時、「一切法これ空にして無相なり」との大乗教義を
羅什は直ちに理解できなかったが、問答の中で大乗の深義に開眼してからは、大乗と小乗の違いを研究する
のに時を忘れるほどであったという。
こうして羅什は大乗の要義を求め、『中論』『百論』『十二門論』の講義も受けて、全て暗誦してしまった。
苻堅(ふけん)は仏教の教えに強い関心を持っており、羅什を生け捕りにする以前は釈道安を得るために
十万の大軍を派遣し、道安と親交のあった文筆家などとともに長安に迎えている。
この道安門下の中から、後に羅什の訳場に列なる俊英が数多く輩出された。
このような意味で、道安は羅什の名訳を生む下地を作った人物ともいえる。
苻堅が羅什を捕らえるべく呂光を派遣したのも、道安から羅什の名声を聞いたからであった。
・羅什は亀茲国を攻略した呂光の捕虜となるが、軍師として度々呂光を助ける。
呂光の参謀として牛や悪馬も乗りこなし、おそらく人生で最もつらい時期を過ごしたと考えられる。
呂光は仏教理解も乏しく粗野であったらしく、羅什に亀茲王女を強要し、女犯の戒を破らせたり、
戦でも羅什の策を用いた時は勝利するが、用いることも少なく部下からの反乱も度々であったという。
この最も困難な時期に羅什は、いつも東方の空を仰ぎいつか長安の都へ入り、深遠な大乗の教えを
必ずや後世に伝えようと念願していたに違いない。そのために来る日も来る日も粒々辛苦して修行に励み、
漢語も覚え、流麗な漢詩も創れるまでになっていた。
実際、羅什が長安入りするまでの中国仏教界では、小乗と大乗の違いも明確に区別されていなかった。
『高僧伝』によると、母ジーヴァは、羅什が二十歳の時に、大乗の教えを中国に伝える使命を持つことに
大きな期待を寄せる一方、羅什もまた民衆を利する大乗菩薩の道を中国に伝え、衆生を教化して
蒙昧をひらき、小乗の俗理を洗悟しゆく決意を述べている。
以上、鳩摩羅什の前半生です。
続きは追って掲載します。