京都の街を潤す琵琶湖疏水
パナマ運河が構想から実現まで400年かかったように、琵琶湖の水を京都へ引く計画も、平清盛や豊臣秀吉の時代からの念願だったのですが、それが実現するまでには数百年もの歳月がかかりました。
琵琶湖疎水 第1トンネル東口
京都は周囲が山々に囲まれた盆地で、夏になると川の水も干上がってしまい慢性的な水不足となります。東には巨大な水源の琵琶湖があるものの、その間には比叡山、大文字山、長等山といった連山に阻まれており、それらを開墾し水路を築くには、西洋における科学革命や産業革命を経て、近代土木技術が発達するまで全く不可能だったのです。
河田小龍(図)『琵琶湖疎水線路全景』
幕末から明治にかけての京都は、戦乱による町の焼失や首都機能の移転(東京遷都)によって産業や人口が激減し、活気を失っていました。その再興のために考えられたのが琵琶湖疏水計画です。しかし当時は反対の声も少なくなかったようで、滋賀からは「我が県には何のメリットもない」といわれ、大阪からは「川の水位が上がるからやめろ」といわれ、京都の人さえも「京都が水浸しになる」といわれるなど、必ずしも地域住民の理解を得られたわけではありませんでした。しかし現在となっては、京都の水道水の97%は、「近畿の水瓶」ともいわれる琵琶湖の水を供給源としており、その他灌漑や発電にも利用されており、人々の暮らしに不可欠なものとなっています。
禁門の変(幕末の京都)
東京遷都
琵琶湖疎水計画という大事業を担ったのは大学で近代工学を学んだ青年でした。
田辺朔郎 琵琶湖疎水の総責任者
工部大学(現在の東京大学工学部)で土木工学を学ぶ
北垣国道京都府知事から任命された
当時、若干21歳
琵琶湖疎水、全体像
第1疏水
滋賀県大津市観音寺から京都府京都市伏見区堀詰町までの全長約20km
第2疏水
第1疏水の北側を全線トンネルで並行する全長約7.4km
疏水分線
京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3km
断面図
トンネルは山の両端からだけでなく、山頂から竪穴を掘り進めて工期を大幅に短縮した
水路は船で物資を運搬する運河の役割も担ったが、蹴上船溜ー南禅寺船溜の間は高低差が36Mもあり、船を載せて電力で稼働する傾斜鉄道が設置された。画像はその跡。現在は廃止され、遺構が残されて桜並木となっている。
南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水路橋(左)
田辺朔郎が古代ローマの水道橋に倣って設計・デザイン
(日本遺産)
南フランス・ガール県の「ポン・デュ・ガール」は紀元1世紀頃建造の水道橋(右)
(ユネスコ世界遺産)
古代ローマ帝国の支配下で、ユゼスの泉からニームに全長52kmの水路が敷かれた。
古くから栄えたニームは、円形闘技場や博物館など古代建造物がいくつも残されているが、とくに織物の名産地として知られ、ジーンズ生地のデニムは、この街の名に由来しています。
※フランス語で「serge de Nîmes セルジュ・ドゥ・ニーム(ニーム産の綾織生地)」
ガール県の水路図(左)
ポン・デュ・ガール ―フランス南部に2,000年前の姿をとどめるローマ時代の水道橋― | 古代ローマライブラリー
デニムが生まれたのはいつ?どこで?デニムの歴史を辿ってみた! | 株式会社アミナコレクション
当初は発電のために、南禅寺の北にある鹿ケ谷に水車を並べる計画だったが、田辺朔郎はアメリカへ渡って当時最先端だった水力発電所を視察し、日本への導入を決める。
1891年開設。その力強い動力源をもとに、蹴上インクラインや1895年(明治28年)に開通した京都電気鉄道(後の京都市電)の運用が可能となった。
京都市電
自動車の普及で現在は廃止されている
蹴上船溜からは、疏水は2つに分かれて疏水分線となります。
一方は西の南禅寺船溜~夷川船溜を通って鴨川へ注ぎ、もう一つは、南禅寺水路閣から北へ向かい、白川疎水~哲学の道から高野川~賀茂川へと流れます。
哲学者・西田幾多郎が学生たちと散策した
京都の街を潤している琵琶湖疎水は、日本遺産、土木遺産となっています。
蹴上、南禅寺周辺は桜の名所としても有名で、田辺朔郎の銅像があります。
2017年に大津からの観光船が67年ぶりに復活しています。