NHK「見えた 何が 永遠が 立花隆 最後の旅」(所感、信仰者の立場から)

「見えた 何が 永遠が ~立花隆 最後の旅」

2023年 NHK放送

 

1時間40分の番組を今回、初めて視聴しました。TV録画とエンコード日課となっている日々ですが、ここ数年来、録りためた未視聴番組がわりと膨大な量になっております。いざ番組を見だすと、示唆にとんだ言葉や問題意識が次々と語られるので、途中からメモを取りながらみていました。今回はそれらをざっくばらんに引用の上、個人的な所感を述べてみようと思います。あくまで信仰者としての立場から書いた感想ですのでご了承ください。

 

 

立花隆

東大フランス文学科卒業後、文芸春秋に入社するが、全く興味のないプロ野球の取材をさせられて退社し、東大で哲学科に入学し直す。

読書家でありジャーナリスト。徹底した取材と分析にもとづく「田中角栄研究」を著して、金脈政治を暴き、政権を退陣に追い込んだきっかけをつくった。

読書量もすごいが、数多くの専門家、科学者に会い取材を重ねた。ジャングルの奥地で行きインディオとも交流している。

 

また多くの著書を出版されており、私が読んだ記憶があるのは、

『思考の技術―エコロジー的発想のすすめ』『宇宙からの帰還』『「知」のソフトウェア』『青春漂流』『脳死』『臨死体験』など。比較的古い本ばかりで、後半生のものはほとんど読んでいません。『思考の技術』だったと思いますが、「記憶術の要諦は、瞬間想起にある」と書かれていたのを覚えています。

 

2021.4.30夜に入院先の病院で心臓の血管がふさがる急性冠症候群で亡くなりました。

※心臓へ血液を運んでいる冠動脈が狭くなったり、詰まることで引き起こされる病気。

長年、膀胱がんや糖尿病、高血圧や心臓病など多くの病気を抱え、入退院を繰り返していたようです。

 

もう少し長生きしていただきたかったですね。

以下、番組からの引用と所感です。

 

 

文芸春秋を辞めて東大哲学科に再入学

「当たり前のことではあるが、人間可能な限り、やりたいことをやるべきだと思う」

「僕が知りたいと思うただ一つの事。僕自身とはいったい何者であるのか。それを知るために僕は本を読み続け、生き続けてきた」

 

 

読書リスト

・10万冊の所蔵が「ネコハウス」にあったが、死後一冊残らず売り払った。

・1冊の本を書くのに100冊読む必要がある。

 ※I-O比(インプットとアウトプット)

 

1970年代の手帳に、呼んでいたと思われる膨大な量の本のリスト。そして勉強することのリスト。文学、哲学、社会学、数学、あらゆる分野の本がリストアップされている。

 

「知りたいことを教えてくれる学問はない。知識を得ようと努めながら無知があらわになっただけ」

「机上の学問より、実践の中により多くの真理がある」

「明らかに見、確信をもって生きるために真偽弁別力をつけたい」

 

 

人間はどこから来て、どこへ行くのか

「人間はどこから来て今どこにいてどこへ行こうとしているのか、そこのところをいろんな角度から光を当てて考えて続けてきた」

 

これは、あらゆる人々にとって普遍的なテーマでしょう。

ゴーギャンの絵のタイトルでも有名です。

 

 

「全てを進化の相の下に見よ」 

ティヤールド・シャルダン氏の言葉です。

誕生以来、進化を辿ってきた生命は、未来にはどのような姿になっているのでしょうね。

 

 

田中角栄研究

1974年11月、月刊文藝春秋に発表した「田中角栄研究~その金脈と人脈」は、当時の総理大臣・今太閤と呼ばれた、田中角栄内閣を退陣に追い込むきっかけを作った。

取材は、従来とは全く異なる「オープンソース・ジャーナリズム」という手法。公開された情報を駆使して真相に迫るというもの。具体的には、田中氏に関する土地や会社の登記簿のコピーを片っ端から集めさせ、それを起業や人ごとに詳細な時系列の表や図にまとめた。また、ある企業が別の起業に投資した時系列の推移を作成し、その投資の流れから実体のない企業をあぶりだし、田中氏の不透明な金の流れをつきとめた。

 

 

「あのために俺どれだけ人生損したと思う?本当に腹立つよね。めちゃくちゃ時間使わされたから、角栄にね。もう本当にやめにしてほしい。こっちはこっちでやりたいこと全然別の方向にたくさんあるわけですから」

 

腹を立ててるのに痛快さを感じられる。

本当はやりたいことが別に山ほどあるのに、放り出すことのできない痛切さが伝わってきます。

 

 

境界

文芸春秋 元社長 平尾隆弘

「『人間とは何か』を知るための手掛かりを探っていた。見当識とは、「自分が誰なのか、今どこにいるのか、今がいつなのか」を把握する能力を示す医学用語。全体を俯瞰し、自身の立ち位置を知る。この考え方が、様々な境界を知ることにつながっていった。生と死、地球と宇宙、人間とサル・・・など。立花さんにとって、知に限界はなかった。分からないことをはっきりさせたいという関心はすごく強かった」

 

立花さんの著作には、脳死』、『サル学の現在』など「境界」を意識したものが多いですが、私が最近よく考えるのは、「生命」が「無機物」から生み出された不思議さについてです。

生命とは、①膜がある ②代謝を行う ③自己複製する との3つの条件を備えるものですが、さらに先の「進化」という概念と合わせ、「生命」が無機物の塊でしかなかった「原始地球」から生み出されたもの、という驚くべき事実に思いを馳せます。かつて地球の歴史で、少なくとも一度は無機物から生命が誕生した瞬間があった。そしてそれ以後は起きないのです。生命は、基本的に生命からしか生じないからです。なのでたった一度でも無機物から有機物が生じ、生命へと進化していったというのは途方もなく奇跡的なことなのです。それは偶然なのか、必然なのか。偶然だとしたらあまりにも奇跡的すぎるし、必然だとしたら宇宙そのものに生命を生み出す働きが予め内在していると言わざるをえません。仏法の生命観からいえば、これは必然的なことと考えられます。現在の天文学においても、他の無数の天体の中には、我々以外にも生命の星があり、我々人間のような知的生命体も、実は広大な宇宙の中に少なからず存在していると考えられているようです。これはまたの機会に取り上げたいと思います。立花氏がいうように、世界の真実はまだまだ未知のものや謎がたくさんあって、「分からないから面白い」というのもありますが、できれば「分かりたい」「知りたい」とも思います。

 

 

人間の文化的営為とは何なのか?

「そもそも我々人間がやっている文化的営為、それは一体何なのかという問題があるわけです。それは人間の存在あるいは人間が作り出す文化を、どういう視点からとらえるかという問題なわけです。それは一体、誰がどうやって、誰がどうやったところは、どうやって判断するのかという、その哲学的な、根本的な分け目のところが、人類史の中で誰もちゃんと回答していない、回答できない。そういう部分があって、じつはそこが一番面白い部分があるわけです。だいたい哲学って、僕は実は哲学の卒業生でもあるんですが、哲学の最も面白いところはそこにあるわけです。学問の面白さの相当部分は、じつはその辺りにあるわけでして」

 

世界中の、宗教、思想、文化など各界を代表する人物に集まってもらって論じてもらいたいテーマですね。仏法者として一言でいうなら、「諸法実相」「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」であるし、「三世を遊楽する生命の旅」であると思います。

 

 

最後は『歴史』の本を書きたい

「初めは自分がどういう歴史の中にいるのか分からなくて、どんどんこの流れをさかのぼっていくと、人類のそもそもの流れを考えなければいけないということになってきて、結局宇宙の始め、ビッグバンまでいかないと、歴史というのは語れないというかね」

「だから僕はずっと昔、僕は最後には『歴史』という本を書きたいと、その『歴史』というぼくの本は、ビッグバンから始まる歴史を全部書きたいと。ビッグバンから始まってどうしてここまでこう来たのかという、要するに我々の現在、自分自身の現在、そして其の現在を踏まえての将来の展望。それが全部わからないんだと」

 

人類史を俯瞰するというと、ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」のような著作がありますが、立花氏も「サピエンスの未来」という本を書いておられます。こちらは、フランス人カトリック司祭で、古生物学者・地質学者テイヤール・ド・シャルダン(1881-1955)の進化論について解説したもの。レビューを見ていたら、どちらも読んでみたくなりました。

 

 

個性

「個性というのは捨てないで取ってあるもの、全てを含めてその人の個性なんです。だから片っ端から何でもいいから捨てちゃえ捨てちゃえというのは、自分の個性を切り落とすことなんです。人間の本能そのものが捨てられないようにできているからです。つまり人類史がなぜここまで進化したかと言えば、色んなものをとりあえず取っておいて、捨てないで後々の利用まで考えて、計画的にその後の生活をしたことによって、人類と他の動物が全部違ったんですね。だいたい捨てることに熱中するというのはマイナスの発想ですよね」

 

モノに関していうと、私もどちらかといえば捨てられないタイプ。でもどんどんモノが増えて困ります。要するに整理、分別がうまくできてないという問題でもあります。

 

 

人生は「のほほん」ではない

「あなたの職業は何ですかと聞かれたら、僕は勉強屋(と答える)」

「社会に出ても何となく大学時代ものほほんと過ごしてね、社会に出てものほほんとしたまま終わっちゃう人って結構多いでしょ。結構多いというかそれが大部分だから。でも僕は人生は「のほほん」ではないと思うんですよね。やっぱり人生において何らか意味あることを成し遂げる人というのは、その人の中に何かある種の情熱というものを持って生きていく人ですよね」

 

のほほんと生きていたいですが、情熱と行動がなければ「何者」にもなれませんね。

 

 

無知の知

「知の営みは、やればやるほど分からないことがさらに広がっていく。何を知らないか。何をどれほど知らないか、だんだん分かってきた。その知らなさの具合が分かってきた」

 

知の巨人といわれながら、ソクラテス無知の知を思わせる謙虚さ。絶えず「探究者」でありたいという、純粋な好奇心が伝わってきます。

 

 

死生観

「人間というのはそう簡単にがんから逃れられないと、生きることそれ自体ががんを育てている、そういうことが分かってくるわけですね。やっぱり人間は基本的に死すべき動物というか、だから死なないというのはあり得ないです。だからどこかで病気がその辺に差し迫ってきたとしても、どこかでその来るべき死を受け入れるスイッチを切り替える以外にない」

 

生老病死」は生命にそなわる「宿命」でありますね。若き釈尊は、この人間が避けることのできない「宿命」の解決のために求道の旅に出たのでした。私も死生観がガラリと変わる瞬間というのがありました。

 

 

自分探しの旅

「結局、僕はどんな人もその人の一生というのは、生れてから死ぬまで全部が自分探しの旅をしてるのだと思うんです」

 

「世界ではなく自分自身を征服せよ」とのデカルトの言葉を思い出します。「自分探し」というと色々な解釈ができそうですが、自分自身となるということは、世界を征服する以上に、困難かつ奥が深いことであるのでしょう。

 

 

人は死んだらどうなるのか?

1991年の番組、「立花隆リポート 臨死体験

「人間は死ぬときに何を体験するのか。死んだらどうなるのか。一切が消えて無になるのか、それとも何らかの死後の世界があるのか。これは死んで蘇った人がいない以上、永遠の謎です」

臨死体験者のリストを作り、一人一人の証言をまとめた。臨死体験者への取材、日本だけで300人以上にのぼった。しかし結論を出すことはできなかった。音声記録には、調べても調べても答えを得られない苦しさを訴えが残されていた。

「いずれにしても人間というのは必ずいつか死ななければならないわけです。ところがでは一体、人間が死ぬというのはどういうことなのか。死んだらある意味でどうなるのか。そういうことについて人間というのは誰一人確実な知識を持っていないわけです。自分の死あるいは人の死というものを考える手がかりは何かというと実はない。何もないわけですね。いつかは人間死ななきゃならないんだけれども、死んだ後どうなるかという確実な情報は誰もくれないわけです。人間の人生というのは自分の死を死ぬ瞬間に、よい死を死ねるかどうかということがおそらく人生にとって一番大切なことではないかと思います。じゃあそういうことで今度自分の死というものを考え始めると大抵の人はものすごく心の中で苦しくなる、辛くなる。自分の死というものは、なんとしても自分自身で考えたくない。そういう対象のわけですね」

 

死について考えることは重要な意味を持ちます。

池田SGI会長は、ハーバード大学での講演で、現代は「死を忘れた文明」であり、人々は「死」を忌まわしきもの、直視したくないものとして遠ざけていると。

しかし日蓮大聖人はこのように言います。

 

「されば先(まず)臨終の事を習うて後(のち)に他事を習うべし」

 

まず「臨終」のことを習った上で、死生観に立った生き方をすべきであるとし、寿量品の久遠の釈尊の生命観に基づき、「一生成仏」の生き方を勧めます。仏法では「生は死の準備」であり、日々目ざめと睡眠を繰り返しているように、生死もまた繰り返されます。多くの人は将来に不安を感じ、勉強したり、貯蓄をしたりするわけですが、それと同じように「心の財(たから)」、つまり功徳・善根を積み、豊かな生命を磨いていくことが、いわば死への備えとなります。生死を繰り返す生命には因果、業がそなわり、前世の業が今世に。また、過去世から今世に至るまでに蓄積された業が、来世に引き継がれる、と考えられるからです。ですので、妙法の三世の生命観に立ち、今世のうちに宿命転換を果たし、一生成仏していくことが妙法の仏道修行となります。

 

 

がん

世界中を飛び回りがんの正体そのものに迫ることにこだわった。パリの研究者を取材し、がんが進行するメカニズムを尋ねる。がんは免疫細胞を作ることで進行するらしい。がん細胞は生命発生の仕組み、新陳代謝の仕組み、傷を治す仕組みを利用して身体を蝕んでいる。がんは生命の仕組みと分かちがたく結びついているという。

 

「ありとあらゆる手段を自ら作り出して困難を突破していくがんの能力というのが、ありとあらゆる困難な状況の中で生命というものが生き抜いてきて、今日の生命全盛時代みたいな、そういう時代を生き抜いた生命の歴史そのものが、がんの強さに反映している」

 

「がんは半分自分で、半分エイリアン。がんをやっつけようと思っても、エイリアンの部分だけをやっつけられればいいんだけれど、半分は自分なんですよね。がんは考えていくほど『人間とは何か』、『生命とは何か』と考えさせられますよね」

 

「がん患者はがんに必ず敗北する。闘病という意味では敗北するが、闘病イコール人生ではないですから、(がんに敗けても)人生で勝つことがあるといえる」

 

 

臨死体験

臨死体験研究の世界的権威 レイモンド・ムーディー博士

「そもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちが死ぬとき何があるのか、私たちの論理や思考が不十分なため、なかなかわからないのだと思う。そして死ぬときは臨死体験という冒険が待っている。私もあなたも好奇心を抱きながら人生を全うしていくのでしょう」

立花「あなたがどこか落ち着ける永遠の場所を見つけられることを祈っています」

 

臨死体験者の証言は、体験者の証言でしかない。それが客観的にどうのこうのはいうに足りないエビデンス。いかに体験者が、これが自分として生のリアルそのものだったと主張しても、それを彼以外の誰かにエビデンス付きで認めさせるというのは難しいですよね。基本的に臨死体験というのはそういう性格を帯びている。その人にとってはすごいリアルで、本当に起きたこととしか思えない。でも他の人にそれを伝達できるかと言えばできないでしょう」

 

立花さんが最後に出した結論は、死後の世界の存在を証明する科学的証拠はなく、死んだら物質的には無に還るというものでした。

 

「死の向こうに死者の世界とか霊界といったものはない。死んだら全くのごみみたいなものとなる。意識なんてものも全く残らない。これが一つの唯物論的な、即物的な考えで、これは微妙なところです。こういう考えに賛成する人もいるだろうし、そうでない人もいると思います」

この取材の後、立花さんは自分をごみとして捨て去ってほしいというようになった。

 

 

人は死ぬ時どうなるか(つづき)

死ぬ間際の臨死体験を科学的に説明できるか、世界中の科学者に執拗に話を聞いて回った。しかし死後の世界があるという科学的証明はなかなか得られなかった。

 

「人間は不死ではなく死すべき運命にある。しかし人は死すべき運命にあると自覚したとたん、その運命を乗り越えることができるのではないかとも思った。自分は弱い人間だけれど、周囲に支えられてこうして生きてくることができた。その周囲の人に対して最後に『ありがとう』の一言を言いたい。人間の命は単独であるわけではなく、いくつもの限りある命に支えられて時間を過ごしていく。周囲に支えられて存在するという意味において『いのち連環体』という大きな輪っかの一部でもあります。そしてそういう連環体が連なって大いなる『いのち連続体』をなしている、そういう風にみることができると思います」

 

「人間の命は単独であるわけではなく、いくつもの限りある命に支えられて」

というくだりは、縁起説そのものであるように思われます。

 

 

「どういう哲学をもってしても本当のところはよく分からない部分というのは、人間にとっては永遠に残る世界に、そういういような在り方で人間は生き続けてきたし、これからも生き続けるんじゃないか。生きるというのは面白い。分からないから面白い。人間という存在はもっと豊かで、そう簡単にこうだと言えないという、そこに面白さがあるという気がした」

 

結局、「知」という次元では「死」について何も知ることができないわけです。釈尊は成道後の最初の説法で「不死の門は開かれた」(中村元訳『仏典』1)といっています。法華経が説かれてのはもっと後ですが、寿量品に示された「三世」という生死を踏まえて、不死の扉となるのは、やはり「信じる心」であろうと思います。「信」も「知」も、互いに補完し合うものでありどちらも重要ですが、心の根本にはだれしも、何らかの「信」というものがあるものです。それは唯物論者だってそうです。では科学的根拠などない状態で何を信じるのか。それによって生き方や心の向かう方向は確実に変わるでしょう。妙法の信仰者においては、こうした信念にもとづいた実践や経験によって得られる充足感や確信こそが、何より大切であろうと思います。

 

法華経薬王品第二十三

「此の経は則ち為(こ)れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」

 

 

竹藪

「竹藪ってなんだか知ってますか。竹は全部地下茎でつながっているんです。そうすると、竹がある山はあれは一山全部一つの植物なんです。人間の知的な営みも実は地下でつながっているんです。みんなの頭の中にあることはどこかであなたがたの頭に何らかの形で取り込んだわけです。人間の知識の体系みたいなものも、そういう風につながっているんです」

 

ユング集合的無意識を思わせますね。仏法の「九識論」でも、それぞれの「個我」は、生命の深層の次元で「大我の生命」とつながっているとされます。唯識論では八識のみですが、仏性を知る天台教学の立場からは、九識が展開されます。

 

日女御前御返事

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり

 

集合的無意識

ユングが提唱した分析心理学における中心概念であり、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域である。普遍的無意識とも呼ぶ。個人的無意識の対語としてあり、ユングジークムント・フロイト精神分析学では説明の付かない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱した。 

集合的無意識 - Wikipedia

 

九識論

九識 の内容・解説 | 教学用語検索|創価学会公式サイト-SOKAnet

 

 

総合知

現代社会において最大の問題は、あらゆる知識がどんどん細分化し断片化し、ありとあらゆる専門家が実は断片のことしか知らない。専門家が総合的にものを知らない。それが現代における最も危機的な部分であるから、断片化した知を総合する方向にいかなければいけない。自分を教養人に育てられるかどうかは、自分自身の意思と能力と努力次第なんです」


専門化にしろ、多様性にしろ、人類全体がどのような価値観に基づき、いかなる方向へ進んでいくのか。荒々しい猛威や蛮行をどのように制御していくのか。

というのは、とても重要な難問です。

 

 

50年後の未来へ

「50年後というのを考えた時に、50年後の未来社会の萌芽はすでにこの世の中にあるんです。それは間違いなくあるわけです。しかしどれが本当の、つまり50年後の社会が来た時に、その時実現するそういうポテンシャリティを持ってる、それを最大に持ってるかは分からないわけです。分からないけれども、とにかくトライしないとどれが本当かは分からないわけです。だから常に分からない状態の中でトライにトライを続けるということが、我々人間が置かれた運命なわけです。

その時必要なものは夢見る力なんです。単に夢見る力だけじゃなくてその夢を見つつ、そうなってほしいとか、それを実現させたいとか、そう思うパッションが出てくると、その夢それ自体が自己実現能力を持ってくるわけです」

 

 

ずっと勉強している

文芸春秋元社長 平尾隆弘

「平尾君、元々俺は勉強が好きで勉強が仕事だって言ってきたけど、一番勉強してるのは今なんだよ」と。「どれくらい勉強してるのか、ずっと勉強してる」と言っていた。

 

立花さんは、誰かが辿り着いた知を集積するのではなく、人間一人一人が学び高めていくことに意味を見いだしていたのではないか。

 

 

「見えた、何が、永遠が」

40代の著作「エーゲ 永遠回帰の海」の一節。

8000kmのエーゲ海の旅の末にそう書かれた。

「かつてそう書いて詩人を廃業した詩人がいた。永遠を見る幻視者たりたいと思うが、それを本当に見るのはこわいような気もする」

 

紀元前の遺跡だけをひたすらめぐる旅。人間の営みとそれを超える何かを感じ取ろうとしていた。

 

 

 

全てを進化の相の下に見よ

20世紀を代表する進化生物学者 ティヤールド・シャルダン 新たな進化論

 

 bookclub.kodansha.co.jp

 

「全てを進化の相の下に見よ」それはあらゆる分野を学んだ立花さんが、万物の歴史は全て進化の歴史だと語る言葉から始まっていた。ビッグバンで始まった宇宙は、素粒子を生み、原子となり、物質へと進化しました。それは星を生み、生命を生んだ。その進化の果てに脳を発達させ生れた人類、その次の進化の舞台こそ知だという。人類の知は今後、相互に影響し合い、さらに複雑化。個々の人の意識が蜘蛛の巣のように絡み合う。それにより人類全体がより高次の意識を持ち次のステージに立つ」と立花さんは記していた。

 

 

人間が獲得した新たな遺伝

「動物の場合、世代を超えて伝承される情報は遺伝情報しかない。しかしヒトの場合ははるかに大量の情報が言語情報として世代を超えて伝えられていく。これは人間だけが獲得した新たな遺伝の形式だという。人間の持つあらゆる知識が総合されて、一つの一貫した体系として共有されるようになってきた。これらの動きの延長上に人類全体が一体となって志向するような日が来るだろう。超人類の誕生であり、超進化。ヒトという種のレベルを超えた進化が実現する」

 

情報や文化を遺伝と呼ぶのは以下の書でも知られます。

唯物論者として有名な方です。

利己的な遺伝子 40周年記念版 : リチャード・ドーキンス, 日髙敏隆, 岸 由二, 羽田節子, 垂水雄二: 本

 

 

 

結局、立花さんの死生観がどういうものなのかは、番組で明確には述べられなかったように思います。数多くの取材を重ねたが結局、客観的には何も分からないのだと。その上で、何らかの結論を立てていたのか。唯物論的な「無」と考えていたのか、何らかの「永遠」を感じていたのか・・・。

 

 

亡き王女のためのパヴァーヌ

番組で流れていたラヴェル作曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」。

哀しくも、美しい曲です。

ラヴェルは、「ボレロ」を作曲した音楽家でもあります。

指揮は小澤征爾さんです。この方も最近亡くなられたばかりです。

 

亡き王女のためのパヴァーヌラヴェル

指揮:小澤征爾 演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ

www.youtube.com

 

 

以上、番組の紹介と感想でした。

途中で長いなと思いつつも、ほぼ省略なしとしました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。