オーロラが発生するしくみ

オーロラはどのように発生するのでしょうか?
北極や南極など、地球の極地でのみ見られる現象です。


大雑把にいうと、太陽フレア(爆発)によって放たれた太陽風に含まれる(電離してイオン化した)高エネルギーの粒子が「地球の磁気圏」に到達したあと、太陽と反対側(夜側)に吹き流された磁気圏の長い尾の部分(プラズマシート)に滞留し、その後、地球の磁力線に沿って降下し、地球の上層にある電離層(成層圏や中間圏のさらに上)にある酸素原子窒素原子と衝突して各原子が励起(高いエネルギーを持った不安定な状態となる)され、(それがまた、エネルギーの低い状態に戻るときに)光を放ち(放電)、地球の極地周辺でリング状に(とくに夜側で強く)発生する現象です。
(とはいえ、まだわかってないことも多いようです)

 

太陽風と地球の磁気圏

地球には「磁気圏」と呼ばれる厚い磁場の層があります。

地球は巨大な棒磁石のようなもので、北極側がS極、南極側がN極であるため、方位磁石を使うと、N極の針はS極のある北を常に指します。この磁石は南から北へ向かう磁力線があり、これにより作り出された磁場が、地球をドーナツのように取り囲み(ヴァン・アレン帯といいます)、宇宙から地球に降り注ぐ有害な放射能や紫外線を防いでいるのです。

 

 

プラズマシート(吹き流された磁気圏の尾)

プラズマシートという磁気圏の長い尾の部分に太陽風のエネルギー(プラズマ)が滞留します。その後、地球の磁力線に沿って高速で降下していきます。

 

 

さてその後、磁力線から侵入した太陽風のプラズマと地球の大気とが衝突するのですが、この時に熱圏という電離層にある酸素原子や窒素原子が励起という状態を起こして、光(電磁波)を放出しオーロラとなります。原子から光や電気、音が放たれるのです。それは原子の持つ、電気的なエネルギーの性質によるものです。

 

 

原子が持つ電気的な性質

原子は、原子核と電子からなり、原子核はプラスの電荷(電気)を帯び、電子はマイナスの電荷を持っており、普段はプラスとマイナスが安定した状態になっています。このバランスが失われ、プラスかマイナスのどちらかに偏ると電気的な状態(イオン)となります。このプラスイオン(電子を失ってプラスの電荷を帯びた状態の原子)と電子が分離し、混在した状態の気体がプラズマです。

 

 

太陽、オーロラ、雷、炎、蛍光灯などもプラズマ

銀河団、太陽、オーロラ、雷、炎、蛍光灯はプラズマです。

プラズマは、固体、液体、気体(物質の三態)のどの状態とも違う「第4の状態」ともいわれます。宇宙に存在する質量のうち、なんと99%以上がプラズマの状態にあるといわれます。固体、液体、気体は全質量のうち1%未満しかないのです。

 

 

地球の大気の上層部にある電離層(熱圏)では、宇宙からの紫外線やX線により、酸素原子や窒素原子が電離(イオン化)した状態となっており、全体としてプラズマとなっていて、電波を反射する性質を持っています。ここで有害な紫外線を弾いています。

オーロラは、この電離層で生じる現象です。

太陽風のプラズマと電離層の酸素原子、窒素原子が衝突して、励起し、光を放ちます。

上空100km~150km圏は大気の密度が高く、オーロラの光は緑色のカーテンとなり、さらにその上空150km~200km圏では大気の密度が薄く、赤色のカーテンとなる。それぞれの色は、原子から放たれる波長の違いによって異なる色となって現れます。

 

 

励起とは、原子が安定した状態からエネルギーを持った状態になること

励起とは、外部からのエネルギーや熱、粒子の衝突などによって、原子核を周回していた電子が軌道を変え、外側を周回するようになることで、高いエネルギーを持った不安定な状態(励起状態)となることを指します。これが元の軌道(基底状態)に戻る時に、発する光がオーロラです。

 

 

太陽からやって来たエネルギーと地球の大気が触れ合って、〝励まされて〟、元気になって光り輝く、といえばわかりやすいですね。

 

このような原理を解明したのはビルケランドというノルウェーの物理学者で、オーロラは、宇宙から強力な電流が流れ込んで生じることを実験によって証明したそうです。

このことから太陽風と地球磁場の交錯は、自然の大発電所とも考えられます。

オーロラの光を電力に換算すると、100万メガワット~100億キロワットにもなるそうで、日本とアメリカの電力量を補って余りあるほどの大電力だそうです。いつか、これをクリーンエネルギーとして活用する未来が到来するかもしれません。

 

 

このように大地から発生するオーロラもあるそうです。

 

 

法華経の題目は日輪と雷との如し

日輪とは太陽、太陽も雷もプラズマです。

つまり、一念のエネルギーが大宇宙に遍満していくといえます。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

「南無妙法蓮華経」は釈尊から授かりし一切衆生成仏の「法」

最近、ある哲学者の方の仏教本を読んでいたら、南無妙法蓮華経というのはおかしいと書いてあり愕然としましたので、一言、反論しておきたいと思います。故人の方なので本人には伝わらないでしょうが。

 

梅原猛氏という著名な方で、書かれた著書では仏教の授業をされているのですが、私はブックオフでたまたま見かけてパラパラとめくったら、法華経のことにも触れられていたのでとりあえず買ったわけです。それで法華経に関してどのような見識をお持ちだろうと家に帰って読んでみましたところ、「法華経の題目」について、この方は本当に仏教を知っている方かと疑わしくなるほどの、まるで仏教的知見のない素人が感想を述べただけのような書きぶりであったわけです。

 

それが些末な部分なら大して気にもしませんが、「法華経の題目」は信仰の根幹であり、日蓮大聖人の魂ともいうべきものです。しかも同氏は著名な人物であり「仏教の授業」と銘打ったタイトルの本でもあるため、到底看過することはできません。

 

日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」

 

大聖人門下として、また朝夕題目を唱える行者として、著名な人物ではありますが、以下、梅原氏の浅識を指摘いたします。同氏については、創価学会関連の著書でも何度となく言及され、よく知られた人物でありますが、以下に引用する点に限っては、きわめて表層的・素人的見識であり、日蓮大聖人のご真意や、法華経の虚空会の付属なども全くご存じないのであろうと思われました。

 

梅原猛の授業 仏教』P200、南無の意味と念仏の説明につづき、

「ところが、日蓮はそれに対して『南無妙法蓮華経』ととなえよという。妙法蓮華経というのは法華経の題目といいますか、法華経という書物の名前です。だから、おかしいんですね。普通だったら『心から○○さまに帰依します』という。ここに仏の名前がこなくちゃいけないのですが、日蓮は経典の名前をもってきた。書物の名前が仏さまになっちゃった。『心から法華経さまに帰依します』というわけです。・・・・・・私は哲学をやりましたが、ドイツの哲学者カントの『純粋理性批判』を読まないと哲学者じゃないと言われた。そうしたら『南無純粋理性批判』ということになります。この間まで、日本ではマルクスの『資本論』が聖典のように考えられたんですが、『南無資本論』という信仰が流行したといえます。それと同じで『南無妙法蓮華経』というのは大変おかしなものですが・・・」

 

梅原氏は、「妙法蓮華経というのは法華経の題目といいますか、法華経という書物の名前です。だから、おかしいんですね。普通だったら『心から○○さまに帰依します』という。ここに仏の名前がこなくちゃいけないのですが」といっているが、まず妙法蓮華経というのは経典ですが、同時に釈尊が説いた成仏のための「教え」であり、「法」であって、たんなる思想書のような本ではないのです。

例えば、方便品をざっと見るだけで以下のような文言がみられます。

 

第一の稀有なる難解の法

甚深微妙(みみょう)の法

甚深微妙にして解り難き法

不可思議の法

わが法は妙にして思い難し

かくの如き妙法

一乗の法

最妙第一の法

 

本来、仏法において帰依すべき対象は、「仏」ではなく「法」でなければならないのです。釈尊は涅槃経において「自灯明法灯明」(自らを拠り所(灯明)とし、法を拠り所(灯明)とせよ)といって、「法」に帰依すべきことを勧めています。また同経では「依法不依人」(法に依って、人に依らざれ)ともいっています。偉い「仏さま」に帰依するのではなく、自らの中にある「法」を拠り所とせよ、といっているのです。

 

仏とは自身とは異なる人格や存在をさすのではありません。たとえば、仏法に入信(入門)する際、「釈尊に帰依する」、「日蓮に帰依する」と表現されることがありますが、それは釈尊日蓮を師として弟子入りするという意味であって、信仰の対象ではないのです。仏とは生命であり、自身の奥底にある大我の生命です。求道心のある方は、ぜひ「十界論」や「九識論」を参照されてください。

 

「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(一生成仏抄)

 

妙法以前の大乗経典では、究極の覚りを「空」と考えたり、他力としての「仏」に帰依して浄土を願うわけですが、それは妙法からみれば、麤法であり仮の教えです。妙法では、「仏」とは一切衆生の心の中にある生命であり、それに気づかせ、仏知見を開き、仏の境涯に至らせようというのが仏の出生の目的なのです。これは法華経の方便品に書かれています。ですから上に挙げた御文のように、もし我々の心や生命以外に仏の存在を求めるならば、それは妙法ではなく方便権教という仮の教えであるので、一生成仏はできないと厳しくご指南されているのです。

 

ですから梅原氏が、帰依すべき対象は○○様という「仏」でなければならないと考え、さらにその仏を衆生の心の外に求めているとすれば、それは妙法以前の権教の見方となります。そしてその感覚のままに、法華経を「法」ではなくカントの哲学書を例に挙げて単なる「書物」ととらえ、書物に帰依する南無妙法蓮華経はおかしい、と短絡的に論じられているのです。

 

「なぜ釈尊を本尊(帰依の対象)にせず法華経の題目を本尊にするのか?」との問いに対し、日蓮大聖人は以下のように答えています。

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)

 

このように法華経には久遠実成の仏やそれ以外の諸仏が登場しますが、皆、妙法によって成仏したのであり、その成仏の「種」である妙法を「父母」にたとえています。「能生」とは根源の法という意味です。

 

「釈迦如来阿弥陀如来薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ、諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕わさずとおぼしめせ法華経一切経に勝れ候故は但此の事に侍り」
(唱法華題目抄)

 

またこのように、あらゆる仏菩薩は法華経という法によってのみ成仏したのであり、仏菩薩に帰依しても、それは仮の教えであり不完全なので、一切衆生を救うことはできないと仰せです。この「法」と「仏」の関係は、「法報応の三身」としても説明されます。

 

また法華経にも種々の法華経があり、法華経の中には過去に様々な仏が説いた各種の法華経があると書かれています。例えば、日月灯明仏、大通智勝仏、威音王仏、不軽菩薩などが説いた、それぞれ字数も、説かれた時間も異なる法華経があります。これは法華経が説かれたのは二千年前の釈尊の時代が初めてではなく、それ以前の遥か過去においても、多くの仏によって法華経が説かれてきたことを示しています。それは、それぞれ形態は違ってても、一切衆生を成仏させる法として一貫しているのです。また我々の知る時代においても、正法・像法・末法それぞれの法華経があり、正法時代の法華経は「二十八品の法華経」ですが、末法では「南無妙法蓮華経」が末法法華経となるのです。それはなぜそうなるのかというと、「二十八品の法華経」の中に各時代を結びつける由来が述べられているのです。

 

南無妙法蓮華経そのものが、末法法華経であり「法」なのです。ですから、梅原氏のいうように南無妙法蓮華経とは、”「二十八品の法華経」に帰命する”という単純な意味ではないのです。「二十八品の法華経」はあくまで正法時代の法華経です。末法においては効能書き(説明書)の意義はありますが、丸薬ではないのです。南無妙法蓮華経こそが丸薬なのです。正法、像法と時代が進むにつれて二十八品の法華経は、経典の効力を失っていき、しかもそのあとの時代、つまり末法は濁世と呼ばれる娑婆世界があり、人々の信仰心は薄れ、疑い深く、弘教が困難であるが、一体誰が弘教するのかということが法華経の中で問題となります。しかし釈尊を囲んで説法を聞く菩薩たちは当初、「娑婆世界では弘教したくない」と難色を示します。素直な人々が住むという他土で仏道修行がしたいというわけです。しかし、やがて娑婆世界で法を弘めたいと決意する菩薩があらわれますが、釈尊はそれをやめよと制止して、大地から地涌の菩薩を呼び出し、彼らに未来の弘法のために一切の法を託すのです。この地涌の菩薩というのは、釈尊が久遠の過去から調熟してきた真の弟子たちです。彼らは金色に輝いているのですが、その地涌の菩薩の代表である四菩薩、その上首である上行菩薩に一切の法を託す儀式が行われます。これを「結要付属」および「総付属」といい、託された法を「四句の要法」といいます。では、この上行菩薩とは誰なのか。それがまさしく日蓮大聖人なのであり、それ以外には誰もいないのです。法華経は、インドから中国に伝わり天台大師やその弟子たちが研究を深め、日本に伝わってからは聖徳太子が講釈し、日本天台宗の開祖である最澄法華経こそが最高の経典であると考えていました。また鎌倉時代には、その比叡山のもとで多くの僧が学び、各宗派を立ちあげていったのですが、法華経一切法を授かった上行菩薩であると自ら自覚し、民衆の中で逞しく弘教した人物は、法華経流伝の二千年以上の歴史の中で日蓮大聖人をおいて他にいません。また日蓮大聖人が顕した曼荼羅御本尊は、法華経の虚空会の儀式で釈尊から授かった一切法(四句要法)を大聖人ご自身の内証の覚りとしてあらわしたものなのです。ですから、このような深い意義のある御本尊・南無妙法蓮華経に対して、書物に南無をつけるのはおかしいというのは、全く的外れで浅はかな見識なのです。

 

日蓮はこのようにいってます。

「仏法は時により機によりて弘まる事なれば云うにかひなき日蓮が時にこそあたりて候らめ。所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く「蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候」(曾谷入道殿御返事(如是我聞事))

 

経典には、「文・義・意」があり、経文上の文字は教えや道理を含み、またその文底には仏の真意、心があるのです。つまり、「妙法蓮華経」をただの経典の題名と思っている人がいるがそうではなく「体」であり「心」であると。

 

「御義口伝に云く此の妙法蓮華経釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華経上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(御義口伝)

 

「此の妙法蓮華経釈尊の妙法には非ざるなり」とは、南無妙法蓮華経とは、末法において功力を失った「二十八品の法華経」ではないと。日蓮大聖人が釈尊法華経を通じて得た覚りであり、末法において、一切衆生を救う力を持った末法法華経であることを示しています。法華経不軽菩薩品には、「正法・像法の滅尽の後、この国土において、復(また)仏出てたもうこと有りたり」と、正法、像法を過ぎた後の(末法の)時代に新たな仏が出現する原理が示唆されています。例えば、現代と二千年前を比べても、それぞれの時代に生きる人々の価値観や言葉遣いは大きく異なっています。仏法は対機説法であり、時代時代の価値観や衆生の理解力に応じて説かれるものなのです。ですから、このように各時代ごとに仏が現れて、その時代に生きる人々にもっともふさわしい形での教えが説かれる必要があるのです。

 

また、つづいて梅原氏の同書P202では、

日蓮のお題目は法然の念仏からヒントを得たのに違いないんですが・・・」

と、日蓮大聖人が法然の念仏をみて思い付きで南無妙法蓮華経をつくったかのようにいってますが、まず南無妙法蓮華経という言葉自体が、法然上人よりずっと以前から存在していたのであり、日蓮大聖人も御書で言及されてます。


「題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、正法には天親菩薩・竜樹菩薩・題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(三大秘法禀承事)

また南岳大師の他に、天台大師、伝教大師最澄)、菅原道真源信藤原道長が願文などにおいて「南無妙法蓮華経」と書き著している記録があります。いずれも法然上人が出生される以前のことです。このように歴史的に法華経を信奉した人々によって「南無妙法蓮華経」という言葉が受容されていたのです。ただこれを御本尊として顕したのは日蓮のみであり、それには特別な意味があります。

もちろん唱題行として確立する上で、また御本尊を顕すうえで、称名念仏密教曼荼羅から、インスピレーションを全く受けなかったわけではないでしょうが、法華経曼陀羅は、法華経の虚空会の儀式をあらわし、釈尊からの付属に由来する必然性があるのであり、単に念仏からヒントを得て思い付きで取って付けたというものではないのです。

 

さらに、

「そしてお題目をとなえるには、うちわ太鼓というのを、ドンドンドンとたたく。」
p201

これも後の時代にできた風習にすぎず、日蓮大聖人は太鼓を叩いてお題目を唱えるべきなどといっていません。宮沢賢治が花巻の町で太鼓を叩きながら題目をあげていたそうです。彼は、10代の頃に法華経を読んで深く感銘したようです。

 

さらに、

石原莞爾という右翼の軍人ですが、彼は日蓮思想でもって日本を強い国家にしようとした」(P204)

とありますが、石原莞爾の思想は八紘一宇であり、神武天皇を中心とした思想であって、日蓮大聖人の思想ではありません。「日蓮主義」などと呼んでおりますが、日蓮大聖人の思想や精神性とは全くかけ離れた異質なものであることを指摘しておきます。

 


日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」の意義について、観心本尊抄

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」

と述べられ、南無妙法蓮華経こそが一代聖教の肝要であり、一切法が具足されていると述べられています。御本尊は功徳聚ともいわれますが、会い難い経でもあるのです。
心ある人々は、ともに題目を声にし、また心にも唱えてまいりましょう。

 

それでは、最後までお読みくださりありがとうございました。

ゴッホとゴーギャン(ポスト印象派)~我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

フィンセント・ファン・ゴッホ 1853年3月30日-1890年7月29日
オランダ、ポスト印象派後期印象派を代表する画家。
率直な感情表現、大胆な色使いが特徴。
のちにフォーヴィスムドイツ表現主義に大きな影響を与えました。

 
アンリ・マティスフォーヴィスム

 
ムンクの「叫び」(表現主義


ゴッホは、オランダ南部の牧師の家に生まれ、画商で働いていたが、『聖書』や中世最高の信心書といわれるトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読み耽る一方で、金儲け主義の職場に反感を募らせていき、挙句、解雇されます。そして職を転々としながらも、日々聖書を読み、カトリック教会やルター派教会にも通ったといいます。
やがて聖職者になるために、父を説得し、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるのですが、受験科目の多さについていけず途中で挫折し、父からの援助も打ち切られます。

彼は貧しい人々に教えを説く伝道師になろうと、ベルギーの炭鉱地帯で自ら坑夫として労働しながら伝道活動を始めるのですが、過酷な労働条件や賃金カットで死に絶える労働者を目の当たりにして、不正義に憤るのではなく、『キリストに倣いて』のごとく苦しみに耐える中に神の癒しを見出すキリストの精神は、必ずしも人々の理解を得られなかったといいます。その後、ベルギー郊外で父からの仕送りを頼りに、デッサンの模写や坑夫のスケッチをして生活するのですが、そのような態度を弟テオに批判されます。
以後、弟テオの援助を受けながらミレーの絵を手本に素描の勉強をしたり、デッサン教本から学んでいました。
 
オランダ(ブリュッセル時代は、手痛い失恋もしたようですが、貧しい農民の生活を描くなど暗い色調の絵が多いです。しかしこの時期、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家と交流を持つようになり、ゴッホ自身も本格的に画家を目指すのであれば、アカデミーに進むよう勧められています。

種をまく人(左がミレー、右がゴッホによる模写)

その後、実家のエッテンやハーグ、ニューネンなどオランダ各地を転々とし、アムステルダムでは国立美術館を訪れ、レンブラントなどオランダ黄金時代の絵を見直します。
またベルギーのアントウェルペンに移ってからは、ルーベンスやジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買って部屋に飾ったそうです。この時期も、弟テオからの資金援助に頼っていたのですが、資金のほとんどは画材とモデル代に費やし、食費を切り詰めて生活していたといいます。

1886年、再び弟テオを頼りパリに移ってからは、印象派の影響を受け、明るい色調の絵を描くようになります。この当時、パリでは、ルノワール、モネ、ピサロなど従来の印象派の画家とは異なり、点描を敷き詰めて描くスーラやシニャックといった新印象派が現れていました。そんな中、ゴッホアドルフ・モンティセリという画家に傾倒したといいます。モンティセリは、印象派に先立つロマン主義の画家でドラクロワを崇敬していました。


公園での散歩 (モンティセリ)


南フランスのアルルに移ってからは、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を生み出していきます。
 
夜のカフェテラス」は、アルルに来た友人ウジェーヌ・ボックにカフェに連れて行かれたのをきっかけにして描いたそうです。(カフェで一杯飲む金もないので仕方なく絵を描いたとも。)当時、画材代は高く、ゴッホは食費も切り詰めて生活しており、パンとコーヒーだけの日々もあったそうです。
 
ある解釈によるとこの絵は、中央の人物はイエスキリスト、12人の客は十二使徒になぞらえたもので、レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」がモチーフになっているとも。
ゴッホはかつて聖職者を目指していたこともあり、画家になってからも宗教的情熱を失わずにいたとも考えらえます。
この作品を描いた頃、弟テオに手紙に対して、
僕には宗教がとても必要だということを毎日感じている」と胸中を明かしています。
ただ、通常、印象派は神や宗教を題材とすることはないため、本当にそういう意図があったのかは不明です。

星月夜 1889


1890年7月、ゴッホはパリから30㎞離れたオーヴェルという村の麦畑付近で拳銃自殺を図ったとされていますが、現場を目撃した者はおらず、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もあり、真相は定かではありません。


ゴッホは、とても人気のある画家であり、「炎の人ゴッホなど映画もたくさんつくられています。こちらは2019年公開の最近の映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」


www.youtube.com

パリでは全く評価されなかったゴッホは、「新しい光を見つけたい」と南フランスのアルルへ向かう。どこまでも続く大地、風になびく麦の穂や沈みゆく太陽を見つめるゴッホは、「永遠が見えるのは僕だけなのか」と自身に問いかける。そんな中、パリからやって来たゴーギャンに心酔するゴッホだったが、共同生活は長くは続かなかった。孤独を抱えて、ひたすら自らが見た世界をカンバスに写し取るゴッホは、やがて「未来の人々のために、神は私を画家にした」と思い至る。晴れ晴れと穏やかなその瞳が最期に映したものとは――。(C)Walk Home Productions LLC 2018

シュナーベル監督によると、本作品は史実どおりではなく独自の解釈を表したものらしいです。



さて、次はゴーギャンの紹介です。
ゴッホとは一時期、共同生活をしていた画家です。


ポール・ゴーギャン 1848年6月7日 - 1903年5月8日


生誕
1848年のフランス革命」(二月革命)の年に、パリに生まれます
父は共和主義者のジャーナリストだったが、この政変によって1830年以来の七月王政が打倒され、ナポレオン三世の大統領就任を受けて一家はペルーに逃れます。

1848年のフランス革命
この革命はそれまでのフランス革命七月革命とは異なり、以前のブルジョワジー中産階級)主体の市民革命から、プロレタリアート(労働者階級)主体の革命へと転化した。この革命には、当初から社会主義者が参加しており、フランス三色旗に混じって赤旗も振られた。


7歳の頃に、再びフランスに戻りオルレアンで生活します。
ペルーではスペイン語を使っていたため、ようやくフランス語を学びます。
やがて証券マンとして働くようになり、余暇に絵画を描くようになります。
パリ9区には、カミーユピサロ、ポールセザンヌ印象派の新興画家たちがいて、彼らと交流しながら絵を描いていました。
アトリエを持ち、印象派展にも出展しますが、この頃はまだ不評だったそうです。

1882年にはパリで株式大暴落が起き、株式仲介人としての収入が激減したため、画家を本業にするものの、景気は悪く、絵は売れず、生活は困窮していました。しかし、その後も画家コミュニティで絵を描く暮らしを続け、ドガジャポニズムからの影響を受けながら、強烈かつ大胆な輪郭線と平坦な色面のクロワゾニスムを確立していきます。

ある時、ゴッホゴーギャンの絵を見て感銘します。
それはゴーギャンマルティニーク島で描いた絵でした。
(そしてゴッホは金がないので)弟テオがゴーギャンの作品を購入し、二人の交流は始まります。

1888年に二人は、南フランスのアルルにある黄色い家で、9週間の共同生活をしました。この間、互いのことを描いた作品として「ひまわりを描くファン・ゴッホ」や
ゴーギャンの肘掛け椅子」があり、互いに尊敬しあっていたことがわかります。

ゴッホゴーギャンが共同生活した「黄色い家

ゴーギャンの肘掛け椅子ゴッホ作)

ひまわりを描くファン・ゴッホゴーギャン作)

しかしやがて芸術観の違いや激しい口論の末、ゴッホの「耳切り事件」が起き、二人は別れます。ゴッホはその後も、神経症の発作に苦しみながらアルルの病院で入退院を繰り返したそうです。

1891年に、ゴーギャン仏領ポリネシアタヒチに滞在するようになり、現地を題材にした数々の傑作を生みだします。


タヒチの女(浜辺にて) 1891年



イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する) 1891年


そして50歳となる1898年には、有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を完成させます。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 1898年

絵のサイズは、139.1 cm × 374.6 cmで横幅が約3.7メートルあります。
絵の右側にいる子供と3人の人物は、人生の始まりを表わし
中央の人物は青年期で、青い像は、超越者(The Beyond)。
左側の人々は「死を迎えるにあたり人生を諦めた老女」だそうです。
足元の白い鳥は、「言葉の無力さ」を物語っているらしいです。

何といってもこの絵が人々を惹きつけてやまないのは、第一に、深遠で哲学的な主題のせいでしょう。われわれ人間や生命にとって、宿命的かつ根源的なテーマを問いかけたテーマだからです。これはゴーギャンが10代の頃に神学の授業で聞いた、キリスト教教理問答の「人間はどこから来たのか、どこへ行こうとするのか、どのように進歩していくのか」との問いがずっと心に残っていたことが影響しているらしいです。

ところがこのような傑作を描き上げたにもかかわらず、この頃のゴーギャンは娘を亡くし、借金を抱え、家の立ち退きを余儀なくされるほど生活に困窮していました。また健康状態も良くなく、失意のどん底であったため、自殺未遂を図っています。
(画家は、有名になって絵が売れるようになるまでが大変ですね。)
 
ゴッホも弟テオに対し、手紙で次のように述懐しています。
私にはいつも、自分が、どこかのある目的地に向かって歩いていく旅人のように思われる。どこかのというのは、実は決まった目的地がないからだ。そのことだけは明白で真実のように思える。だから、生涯の最後になって、きっと自分は誤っていたということになるだろう。その時には、美術ばかりか、そのほかのすべてのことも単に夢にすぎないし、自分自身は結局何ものでもなかったということがわかるだろう・・・・・・
 
私の悩みはまさにこのことだ、自分は一体何の役に立つことができるのだろうか、何ものかのために、有用な、意味のある役割を果たすことはできないだろうかという疑問だ・・・・・・

このように後世においては、その名を知らぬ人はないほど多大な影響を与えたゴッホも、存命中はこのような苦悩の胸中であったことを明かしています。上述の手紙からは、絵画に関する問題や経済的な貧しさより、人生の目的や自己の存在理由について、確固たる心の拠り所が得られないまま、彷徨っているようにも感じられます。ゴッホは最後、精神病を患い、拳銃自殺したそうですが、ゴーギャンの問いである「我々」の存在本質や人生の目的について、何らかの意味を見出すことができたのでしょうか。
 
ゴーギャンの問いは、我々人間にとって最も根源的な問題であるとともに、仏法が探究し続けてきた究極的なテーマですので、また次の機会にまとめてみたいと思います。
 
最後までお読みくださり、ありがとうございました。

15世紀 大航海時代(エンリケ王子)

15世紀以降、ポルトガルのインド航路発見(東回り)およびスペインの新大陸到達(西回り)に続き、オランダ、イギリス、フランスが世界の海を越えて行きます。大航海時代の幕開けです。
各国が競って香辛料を求め、利益拡大を図っていくのですが、
同時代に起きていた現象に、
ルネサンスによる新たな知識・技術の獲得
宗教改革によって窮地に立たされたカトリック教会の布教願望
がありました。
その後、ヨーロッパ勢力によるアフリカ、アジア、南米地域への支配と植民地領有が始まり、中世から近代にかけて世界が大きく変動していきます。
 
 
ポルトガル王・ジョアン1世の子として、ポルトガルの第二の都市ポルトに生誕。
大航海時代の先駆的指導者。生涯において探検事業家であり、パトロンとして航海者たちを並ならぬ情熱で援助・指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させました。



セウタ攻略

アフリカ西岸踏破の端緒となったのは、アフリカ北部の、イスラム勢力が支配する都市セウタの奪還でした。

レコンキスタ
711年キリスト教勢力としてイベリア半島を統一していた西ゴート王国ウマイヤ朝イスラム遠征軍に滅ぼされて以来、イベリア半島およびアフリカ北部一帯はイスラム支配下にありました。
その後718年から1492年の「グラナダ陥落」まで、約800年間、複数のキリスト教国家によるイベリア半島再征服運動(レコンキスタが始まります。
イスラム勢力の支配下にあって、大部分のポルトガル人はイスラム教に改宗し、ラテン語の他にアラビア語もさかんに使われるようになります。また造船技術羅針盤イスラムの建築様式など、ポルトガルの科学と文化の発展には、イスラム世界から伝わった技術や文化が大きく寄与しています。

グラナダ陥落 1492年(レコンキスタの終焉)
 
イベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝の時代の建築。
宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていた。

 

エンリケ王子、アフリカ西岸航路開拓への情熱をともす
エンリケ王子は、イスラムの地・セウタでプレスタージョンの伝説を聞き、それまでのようにサハラ砂漠を越えてイスラム商人のキャラバンを通じて行われる貿易を通じてではなく、独自に金と香辛料を求める海路として、アフリカ西岸航路の開拓ひいてはインド航路開拓しようという野望を抱くようになります。

プレスタージョン伝説とは

アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教王国。
イスラム教徒に勝利を収めたと伝えられていた。
12世紀頃にプレスタージョンの書簡の写しがヨーロッパ中に噂となって広がり、イスラム教徒との戦争が膠着する中、プレスタージョンに対する期待は、ヨーロッパ諸国や十字軍の間に広がっていました。


恐怖のボジャドール岬
エンリケが派遣した海洋探検隊はアフリカ西岸にある諸島を次々発見していきます。
など。
しかし、当時知られていたアフリカ沿岸の最南端の地は、カナリア諸島から南に200キロにあるボジャドール岬であり、その先は世界の果てであり、海は沸騰しており、生きて帰ることのできない前人未到の地として航海士たちに恐れられていました。当時はまだ地球が丸いことさえ知られておらず、1522年にマゼランが世界航行を果たすまで地球は平面であると多くの人々に信じられていたのです。


しかもまだ誰も通ったことのない航路であり、逆風を南進する船の構造や航海技術、潮の流れを読み切れず、踏破するのに何年も費やし、北アフリカ海岸やスペイン南部のグラナダ王国で海賊行為に走るありさまでした。
ようやくボジャドール岬に到達したのは1434年で、セウタ攻略から19年後のことです。


この頃には、航海経験も増え、船体や海図の改良が重ねられていきました。やがてキャラベル船という快速船が造られるようになり、ブランコ岬、ヴェルデ岬など新天地を相次いで踏破していきました。



キャラベル船
3本のマストを持つ小型の帆船で、速力と」機動性にすぐれ、逆風でも航行できる。


エンリケ王子が没した時には、シエラレオネまで到達していました。
その後もポルトガル船は、アフリカ西岸を南進し続け、1487年にリズボアを出航したバルトメロウ・ディアスの船は翌年ついに、アフリカの最南端「喜望峰に到達します。これがジョアン1世に報告され、インド洋への航路が開かれてアジアへの進出が始まります。



発見のモニュメントポルトガルリスボン
大航海時代の航海士たちを模った記念碑
キャラベル船の船首の曲線に似せてある


先頭に立つのがエンリケ王子




恐怖の岬を越えよ」との池田SGI会長の有名なご指導があります。
(第二十回本部幹部会 1989年8月)

生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんば、かなうべからず
(椎地四郎殿御書)
 
畏れ無きこと師子王の如くなるべし
(経王殿御返事)
 
ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず
四条金吾殿御返事)

ありがとうございました。

SGI(創価学会インターナショナル)核廃絶運動の歴史

1957年9月 
創価学会第二代会長戸田城聖先生原水爆禁止宣言」を発表



1975年 
青年による核廃絶を求める1000万人署名国連本部に提出



1982年 
第2回国連軍縮特別総会に際し、創価学会第三代会長池田大作先生が提言を寄せ、
国連本部で核兵器-現代世界の脅威展」を開催。
1988年まで核保有国(米国、ソ連、中国)を含む世界24カ国39都市で開催。


核兵器-現代世界の脅威展」 ニューヨーク国連本部で 1982年
UN Secretary-General Perez de Cuellar at the SGI-sponsored exhibition,
“Nuclear Arms: Threat to our World”at the United Nations Headquarters, New York, 1982

 

1983年 
池田先生が最初のSGIの日」記念提言を発表
SGIが国連経済社会理事会との協議資格を取得し国連NGO(非政府組織)として活動をスタート


SGIピースサイト(国連NGOとして国連の取り組みを支援する活動を紹介)

https://sgi-peace.org/



1985年 
青年による戦争体験の聞き取りをまとめた『戦争を知らない世代へ全80巻の出版完結
CiNii 図書 - 戦争を知らない世代へ



1991年 
女性たちで戦争体験をまとめた『平和への願いをこめて全20巻の出版完結




1998年 
国際キャンペーン「アボリション2000」運動に協力し、
1300万人の署名を国連に提出



2006年 
池田先生が国連への提言で、
核兵器廃絶へ向けての世界の民衆の行動の10年を提唱



2007年 
SGI核兵器廃絶への民衆行動の10年」キャンペーンを開始
核兵器廃絶への挑戦」展を開幕


核兵器廃絶への挑戦展


核兵器廃絶国際キャンペーンICAN)発足
ICAN核廃絶を目指すNGO団体。スイスのジュネーブを中心に核兵器の非人道性を訴える諸国政府と連携し、世界中で核廃絶キャンペーンを展開。SGIとも密接に連携している。核兵器禁止条約が成立した2017年に、ノーベル平和賞を受賞した。


2009年 
戦争証言「平和への願いをこめて——広島・長崎 女性たちの被爆証言
5言語版DVD完成
池田先生が核兵器廃絶へ 民衆の大連帯を」と題する提言を発表




2010年 
核兵器禁止条約」の制定を求める227万人の署名をNPT(核不拡散条約)再検討会議と国連に提出
全国の青年部が核兵器禁止条約の制定を求める署名運動を展開。227万6167名分の署名が集まりました。同署名については、2010年5月11日、アメリSGIニューヨーク文化会館にて開催された平和フォーラムの席上、当時開催中の核不拡散条約再検討会議のカバクテュラン議長の代理として出席したレスリー・ガタン同会議議長顧問、およびセルジオ・ドゥアルテ国連軍縮担当上級代表に提出されました。
ガタン議長顧問は、カバクテュラン議長の「SGI平和運動は極めて重要な役割を果たしており、青年部の活躍に敬意を表したい」とのメッセージを代読。またドゥアルテ上級代表からは「青年部の署名運動に強く感銘を受けた。核兵器のない世界のために行動してきたSGI会長を賞賛したい」とのコメントが寄せられました。
また同年8月には、広島での一連の被爆者行事にバン国連事務総長が寄せたメッセージの中で、「200万名の若者が、核兵器禁止条約を求めるSGIの嘆願書に署名したのです。私は、この大いなる目的の追求に携わったすべての方々に対して、その労作業を称賛致します。」と述べました。
なお核兵器禁止条約については、同再検討会議の最終文書においてその重要性が言及されました。国際的な会議の最終文書で言及されるのは初の出来事で、学会青年部をはじめ各地の市民社会の声が影響を及ぼす結果となりました。

この結果、
2017年
7月7日に核兵器禁止条約が採択
2021年1月22日に核兵器禁止条約が発効しました。


核兵器禁止条約の制定を求める227万人署名(2010年)


NPT(核不拡散条約)再検討会議と国連に提出



2012年 
ICANと共同制作した核兵器なき世界への連帯」展を開幕
ジュネーブの国連欧州本部をはじめ、
広島、長崎、沖縄など世界21カ国90都市以上で開催(2021年10月現在)

核兵器なき世界への連帯ー勇気と希望の選択」2013年広島展


2014年 
国際キャンペーン「Nuclear Zero」運動に協力し
500万人を超える署名マーシャル諸島共和国外相に提出



2015年
 
23カ国の青年の代表が集い
核兵器廃絶のための世界青年サミット」を広島で開催


核兵器廃絶のための世界青年サミット」2015年 広島で



2016年 
ジュネ―ブの国連欧州本部で開催された「核軍縮に関する国連公開作業部会」に参加。第2会期で、作業文書「人間の安全保障と核兵器」(A/AC.286/NGO/17)を提出




2017年
・3月 
国連本部で開催された核兵器禁止条約交渉会議」(第1会期)で作業文書(A/CONF.229/2017/NGO/WP.8)を提出
※第2会期(6月−7月)でも作業文書(A/CONF.229/2017/NGO/WP.25)を提出

・7月7日 
核兵器禁止条約が採択

核兵器を憂慮する信仰者のコミュニティーSGIと共同声明


ICANがノーベル平和賞を受賞
式典には被爆者代表と国際パートナーのSGI代表ノーベル賞委員会から招かれた。



2018年1月 
池田先生が「SGIの日」記念提言の中で
核兵器廃絶への民衆行動の10年」第2期の開始を表明



2019年11月
核兵器無き世界への連帯―勇気と希望の選択」展
SGIICANの共同制作 これまで世界21か国90都市以上を巡回


核兵器無き世界への連帯―勇気と希望の選択」展 福岡市アクロス福岡


2020年12月 
核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」を支援(2021年1月国連提出)

2016年3月、「ヒロシマナガサキのヒバクシャが訴える核兵器廃絶国際署名」が開始されました。
この署名は、平均年齢80歳を超える被爆者の訴えを受けたもの。核兵器を禁止し、その廃絶を求める国内外の幅広い個人・団体が参加しました。

2016年7月、署名推進のための連絡会が設置され、創価学会平和委員会も参加。以来、積極的な協力を続け、これまで青年部や女性平和委員会等が推進した署名は、全国で40万2301筆にのぼりました。
(オンライン署名数と広島県推進連絡会・長崎原爆被災者協議会への寄託分21万6328筆は除く)
これらの署名は2021年1月に国連に提出されました。

 

2021年
・1月22日 核兵器禁止条約が発効
創価学会原田会長が談話を発表
SGIが参加する核兵器を憂慮する信仰者のコミュニティーが共同声明を発表


核兵器禁止条約発効を祝う広島市民「戦争被爆国日本も批准を!」と訴え


「最終的には、核兵器禁止条約を批准できる環境を整えていくことが、我が国のあるべき方向性だ」
公明の山口那津男代表は22日、党の会合でこう訴えた。



2022年
・3ー4月

核兵器なき世界への連帯――勇気と希望の選択」展
スペインの首都マドリードラ・サール大学マドリード校で開催
SGIICAN核兵器廃絶国際キャンペーン)が共同制作

ICANSGIによる「核兵器なき世界への連帯――勇気と希望の選択」展 スペインで

同校の「宗教と現代世界研究所」が主催したSDGsシンポジウムの関連行事として、
これまで21カ国90都市以上で行われてきた同展は、核兵器の問題点を、
安全保障のみならず、人権、環境、経済、ジェンダーなどの観点から指摘。
その廃絶に向けた連帯を訴えている。
スペイン創価学会と同校はこれまでも、活発に交流を重ねてきた。
2010年5月には環境展「変革の種子――地球憲章と人間の可能性」が
キャンパスで開かれている。



・7月25日
池田SGI会長が緊急提案

核兵器の脅威が冷戦後で最も危険なレベル
NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議に寄せて
保有五か国は、「先制不使用」の誓約で明確な歯止めを

 

SGI会長は、8月に国連本部で開催されるNPT(核兵器不拡散条約)検討会議に向け緊急提言を発表核兵器が再び使用されかねないリスクが、冷戦後で最も危険なレベルにまで高まっていることを懸念。1月の5か国首脳による共同宣言に触れ、「核戦争に対する自制」を決して踏みにじらないことを全ての核保有国が改めて表明してはどうかと促した。

本年初頭 2022年1月3日に、保有5か国は、

核戦争の防止と軍拡競争回避に関する5核兵器国首脳の共同声明を発表。
核兵器国間の戦争回避及び戦略的リスク軽減を我々の最も重要な責務」とし、
核戦争に勝者はなく、決して戦ってはならない」ことを確認していた。


保有5か国による共同声明 国連本部で 2022年1月3日

 

池田SGI会長は、
NPT検討会議の文書に、以下の点(要約)を盛り込むことを提言。
・核保有5か国が1月の共同声明を今後も遵守すると誓約し、
 
直ちに核兵器のリスク低減措置を進めること

・「核兵器の先制不使用」の原則について、5か国が速やかに明確な誓約を行う
・共同声明にある核保有国が他のいかなる国も標的にしないことを確固たるものとするため、
 「
先制不使用の原則」を、全ての核保有国及び核依存国の安全保障政策として普遍化を目指す

また2020年6月に中国とインドが係争地域で武力衝突した際に、両国が以前から「核兵器の先制不使用」の方針を示していたことが安定要因として機能し、危機のエスカレートが未然に防がれたことに言及。

さらに、この方針が核保有国間で定着すれば、核兵器は「使用されることのない兵器」としての位置づけが強まり、核軍拡や、核の脅威による核拡散の抑制につながる、との研究を紹介。

また「核兵器の先制不使用」によって、核の脅威による世界の対立構造を取り除き、
軍拡競争にあてられた資金を人道目的、パンデミック、気候変動問題、様々な脅威にさらされている大勢の人々の生命と生活と尊厳を守る道が大きく開かれるに違いないと述べた。

提言全文
https://www.seikyoonline.com/article/1001915936DD45B5A79AA9BFC03E7485

新古典主義とロマン主義

1880年のサロンの一角』1880 エドワール・ジョゼフ・ダンタン

 

■19世紀前半の画壇
この時代の美術界を支配していたのは、美術アカデミーサロン(官展)です。
美術アカデミーは、1648年フランス国王ルイ14世により創設されて以来、絶対的な地位を占めていました。組織下にエコール・デ・ボザールという官立美術学校があり、美術教育の牙城となっています。
このアカデミーが主催する展覧会がサロンで、審査に通過した作品だけが展覧会で出展することができます。またサロンで最も栄誉ある「ローマ賞」を受賞した者は、ローマのフランス・アカデミーに国費で留学する権利を得ることができるのです。新古典主義派のダヴィッドアングルがこの賞を受賞しています。
当時は、現代のように古典や私的なグループ展を行う慣習がなく、画家となるにはエコール・デ・ボザールへ入学し、サロンで入賞することが唯一の登竜門だったのです。
しかしアカデミーの基準は、古代ギリシャ・ローマの古典的規範に基づいた作風の継承にありました。神話、聖書、古代史を描く歴史画こそが至高のものとされており、風景画、静物画などは低級なものとみなされ、絵画は庶民の日常生活からかけ離れた崇高な美を象徴していました。このように伝統的・保守的な審査制度は、革新的な芸術に対しては否定的であり、アカデミズムの改革派にとっては大きな障壁となっていました。


新古典主義は、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想とします。
新古典主義を代表的する画家ダヴィッド、アングルがいます。
二人ともローマ賞を獲得しており、ローマ、フィレンツェで学んだあとフランスへ帰国し、
画壇の頂点に立っています。
画風は、堅い歴史画のダヴィッドに対し、アングルは、優美で端正な曲線美であり、
絵肌はわずかな筆跡さえみせないといいます。
美しい裸婦像や肖像画を数多く描いており、アカデミズムにおいても、
かつての壮麗で物語的な歴史画からより市民になじみやすい主題へと移っています。


ジャック=ルイ・ダヴィッド


ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 ジャック=ルイ・ダヴィッド



ドミニク・アングル


『横たわるオダリスク』1814 ドミニク・アングル


■アカデミズムへの反動 ~ロマン主義
こうした美術界を背景に、古典的規範にとらわれず、自由で力強い表現をしたのがロマン主義です。
理性偏重、合理主義に対し感受性主観に重きをおいた一連の運動で、古典主義と対をなします
恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、
近代国民国家形成を促進しました。
その動きは文芸・美術・音楽・演劇などさまざまな芸術分野に及びました。
古典主義で軽視されていたエキゾチスム・オリエンタリズム神秘主義・夢などといった題材が好まれ、
それまで教条主義的に抑圧されてきた個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩・個人的愛情などを扱うようになったのです。
ロマン主義(ロマンティシズム)」という言葉は、ラテン語の口語である「ロマンス語」に由来するもので、
ラテン語には文語と口語があったのですが、両者は乖離し、文語の方は庶民からかけ離れ、
知識層のみが読める難解な言語となったのに対し、口語としてのラテン語であるロマンス語は、
庶民が日常的に使う言語であり、ロマン主義という語義はこのような世俗的な意味合いがあります。
ドラクロワが主題にしたのは、フランス革命ギリシャ独立戦争ですが、それらは単に古典主義的な
歴史画としてではなく、観る者の情感に訴えるようにえがいたのです。
またクールベも、庶民の日常生活や自然風景を描いた画家ですが、
「私は天使を描かない、天使は見たことがないから」などと言い放っています。
バルビゾン派もアカデミズムから離れ、フランスの牧歌的な自然風景を主題にしました。

ドラクロワは、アングルのような静穏で優美な画風ではなく、情熱的で激しい表現を求めました。

民衆を導く自由の女神 ドラクロワ

 

■1824年のサロン


ルイ13世の誓い アングル


キオス島の虐殺 1824 ドラクロワ
1824年のサロンでは、アングルは「ルイ13世の誓い」を出品。一方、ドラクロワオスマン帝国支配下にあるギリシャで実際に起きた独立戦争の悲惨さを描いた生々しい作品を出展。従来の伝統的な画壇とは大きく異なるコンセプトに賛否両論が起こったといいます。かつてドラクロワの作品をサロンに推薦し、入選に導いたアントワーヌ=ジャン・グロでさえ、この作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」と酷評したそうです。

 


ヴィクトル・ユゴー
ユゴーロマン主義を代表するフランスの文豪であり、

ロマン主義とは)遅れてきたフランス革命であるといいます。
1789年のフランス革命が政治的な改革だったのに対し、ロマン主義はそれから三十年遅れて
芸術の分野で、フランス大革命と同じことを成し遂げようとした運動であると。
またフランス革命は、旧体制(アンシャンレジーム)からの改革だったのに対し、
芸術の分野では、古典主義からの脱却を意味するようです。
すなわち王権神授の下に階級社会が形成され、枠にはめ込む社会構造であったのに対し、
ロマン主義は、規範やヒエラルキーを気にせずに自由な創造活動を行うのであると。
 
さらにユゴーは、
美は一定の形式にあるのではなく「性格」の中にこそある
ともいいます。
古典主義では「醜悪」とされてきたものの中にも、「美」を見出せるのであると。

また詩人であり、美術批評家であるボードレールは、1845~46年のサロンで、新古典主義派から批判されるドラクロワを擁護的な立場をとり、自著ではロマン主義は感じ方の中にある」と述べています。


ボードレール

プライバシー権、基本的人権の尊重(憲法第13条)、幸福追求の権利

プライバシー権とは

伝統的な意味では、「一人で放っておいてもらう権利」right  to be let  alone、つまり、人がその私生活や私事をみだりに他人の目にさらされない権利をいう。たとえば、家庭の内情や個人の会話を公開されたり、私室をのぞきこまれたり、過去の経歴を小説などに利用されたりした場合に、この権利の侵害が問題となる。肖像権も、この権利の一つである。
プライバシーの権利は、とりわけ、マス・メディアによる暴露、公開から個人の平穏な私生活を守るために、19世紀末以来、アメリカで発達してきた考え方である。この権利が侵害されたとするには、単に、私的な生活領域への侵入によって精神的苦痛を受けたことを証明するだけで十分であり、金銭的損害を受ける必要はない。また、名誉毀損(きそん)の場合と異なって、個人の社会的評価や信用が低下させられることを必要としないし、表現されたことが真実であるという証明があっても責任を免れうるわけではない。個人の平穏な私生活を保護するプライバシーの権利と、国民の知る権利に奉仕する意義をもつ表現の自由との調整は困難な場合が多いが、双方の利益を慎重に比較衡量することによって決定される。マス・メディアの報道活動にみられるように、政治家や大事件の当事者、あるいは芸能人のような「公的存在」、つまり公衆の正当な関心の対象となる社会的地位にある存在にかかわる場合、あるいは公共の利害に関係する事柄であるときは、私事や私生活がある程度公表されても、プライバシー侵害にはならない。侵害に対する救済方法としては、損害賠償や謝罪広告があるほか、私事や私生活がいったん公開されたのちの事後的な救済ではプライバシーの十分な保護を図れないことも多いので、公表を事前に差し止める請求も可能であると考えられる。

 

 

『宴のあと』(三島由紀夫作)事件

日本では、三島由紀夫の小説『宴(うたげ)のあと』(1960)をめぐって、この小説のモデルとされた元外務大臣有田八郎が、プライバシーの侵害を理由に謝罪広告と損害賠償を請求した事件が有名である。この事件に関する東京地裁判決(1964年9月28日)は、近代法および日本国憲法の根本理念である個人の尊厳の思想を引きながら、人格権の一種として「私生活をみだりに公開されない権利」を認めた。
そこでは、この権利の侵害が成立するには、「(1)公開された内容が、(a)私生活上の事実またはそれらしく受け取られるおそれのある事柄であり、(b)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場にたった場合公開を欲しないであろうと認められる事柄であり、(c)一般の人々にいまだ知られていない事柄であること、(2)公開により当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたこと」が必要であるとされている。
 
この小説の例のように個人名をあらわしてなくとも、多くの人にある特定の人物を想起させるような仄めかし、悪質な言い換えは、最近では、性的暴行被害を受けた某フリージャーナリストを想定させるようなツイッターでの侮辱・中傷。また公明党の熱心な支持者である夜回り先生を多くの人が想起するであろう、参政党・参議院議員立候補者(当選)による選挙演説での根も葉もない名誉侵害・デマによる冒涜がありました。
プライバシー権表現の自由との兼ね合いで妥当であるかが問題となりますが、明らかに他人が知りえないプライバシーが不当に侵害され、それを元にした情報である場合、いかに表現の変更を加えようと、多くの人が想起するしないという以前に、そもそも違法行為性が含まれているものと考えます。またそれらの罪を黙認したり、容認することも与同罪となりえます。
 
日本国憲法第13条 基本的人権の尊重~幸福追求権~
十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
このプライバシーの権利は、日本国憲法第13条の「幸福追求権」の一環をなすものとして理解され、社会的に定着してきたが、1980年代には、とりわけ写真週刊誌によるプライバシーの侵害が深刻な問題となった。その頂点で起きたテレビの人気タレント、ビートたけし北野武)による写真週刊誌『FRIDAY(フライデー)』編集部乱入事件(1986)は、プライバシー侵害に人々の関心を向けさせ、「取材される側の権利」が主張されるきっかけとなった。
 

保護対策

コンピュータを用いた大量の情報処理技術が発達した今日の情報化社会においては、事務処理の効率化のために行政機関や民間企業が、個人の私生活に関するさまざまな記録を、コンピュータを利用したデータバンクに集積するようになってきている。こうした動向がプライバシーに与える危険性を個人の側から有効にチェックするために、自分に関する収録データについての閲覧請求権、訂正請求権、不服申立権や、特定データの収集や入力の制限、さらに収録データの流用禁止などを制度化することが必要となる。欧米諸国では1970年代に、こうした趣旨を盛り込んだプライバシー保護法が制定されたが、日本でも、自治体における個人情報保護条例の積み重ねを経て、88年(昭和63)に、「行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律」が制定された。その後も、社会の情報化の進展とともに、プライバシーをめぐる問題が増加してきた。とくに、個人情報のデータベース化やその漏洩(ろうえい)が問題になり、民間部門を含む包括的個人情報保護法の必要性が議論され始めた。1999年(平成11)には、「国民総背番号制」につながると批判された住民基本台帳法の改正、また、組織犯罪対策立法の一環として通信傍受法の制定が行われ、情報化による利便とプライバシー保護との調整が大きな問題となった。