オバマ元大統領のプラハ演説、2009年

2009年4月5日 フラチャニ広場で

ありがとう。温かい歓迎をありがとう。プラハの諸君、ありがとう。そしてチェコ共和国の諸君、ありがとう。本日私は、欧州の中央に位置するこの素晴らしい都市の中心地に諸君と共に立つことを誇りに思う。同時に、我が前任者の1人の表現を借りれば、ミシェル・オバマプラハに連れてきた男であることを誇りに思う。

大統領[1]、首相[2]、御臨席を賜った政府要人諸君。格別の歓待に感謝する。そしてチェコ共和国の国民諸君よ。諸君の合衆国に対する友情に感謝する。

私は故郷シカゴで長年暮らすうちに、チェコの人々は陽気な良き仲間であるということがよく判った。私の背後には、チェコ国民の英雄であるトマーシュ・マサリクの像が立っている。1918年、米国がチェコの独立支持を誓約した後、マサリクは10万人を超えるとされるシカゴの大衆に語り掛けた。彼の記録に勝てるとは思わないが[3]、シカゴからプラハへと彼の足跡を辿ることを光栄に思う。

1000年以上に亙り、プラハは如何なる地の如何なる都市とも異なる、独自の道を歩んできた。諸君は、戦争も平和も経験してきた。数々の帝国の興隆と衰退を目の当たりにしてきた。芸術や科学、政治や文学において、革命を主導してきた。そうした中で、プラハの人民は、一貫して己の道を追求し、己の運命を定めるよう要求してきた。そして、古くて新しいこの黄金の都は、諸君の不屈の精神を示す、生ける記念碑として存在している。

私が生まれた頃、世界は分裂しており、我々の国は今とはまるで異なる状況に直面していた。私のような者がいつの日か合衆国の大統領になるであろうなどと予見する者は、ほとんどいなかった。米国の大統領がいつの日かこうしてプラハの聴衆に語り掛けることを許されるであろうなどと予見する者は、ほとんどいなかった。そして、チェコ共和国が自由国家となり、NATOの一員となり、統一された欧州の主導者となるであろうなどと想像する者は、ほとんどいなかった。そのような考えは、夢物話として片付けられたことであろう。

我々が今日ここにいるのは、世界は変わり得ないという声を気にしなかった多くの人々のお陰である。

我々が今日ここにいるのは、壁のどちら側に住んでいようとも、また如何なる外見であろうとも、自由はあらゆる人民の権利であると言わんがため、立ち上がって危険を冒した人々の勇気のお陰である。

我々が今日ここにいるのは、プラハの春のお陰である。素朴で信念に基づいた自由や機会の追求が、戦車や兵器の力で人民の意思を弾圧しようとする人々を恥じ入らせてくれたお陰である。

我々が今日ここにいるのは、20年前に、約束された新しい日の到来と、あまりに長い間与えられないままだった基本的人権を求めて、街頭デモを行ったプラハの市民のお陰である。「Sametová revoluce」、即ち「ビロード革命」は、我々に多くのことを教えてくれた。平和的な抗議が帝国の基礎を揺るがし、イデオロギーの空しさを露呈させ得るということを示した。小国が世界の出来事に極めて重要な役割を果たし得ること、若者が旧来の対立の克服を主導できること、そして精神的指導力は如何なる兵器よりも強力であるということを示した。

だからこそ私は今、平和な、結束した、自由な欧州の中心で、諸君に語り掛けることができるのである。分裂克服の可能性を指導者らが信じなかった時ですら、一般大衆が信じたからである。壁は壊せる、平和は勝つと信じたからである。

我々が今日ここにいるのは、米国民とチェコ国民が万難を乗り越え、今日という日が必ず来ると信じたお陰である。

さて、我々はこうした歴史を共有している。だが今や、この世代――我々の世代――は、座視を続けるわけにはゆかない。我々も選択を迫られている。世界が統合に向かうにつれ、相互の関係は緊密化している。そして、世界的経済危機、気候変動、旧来の対立という根強い脅威、新たな脅威、大量破壊兵器の拡散といった問題が急速に進展しており、制御不能に陥っている。

いずれの問題も、直ちに、あるいは容易には解決できない。だがこれらは全て、我々が互いの言い分を聞いて協力すること、時折生ずる不一致ではなく共通の利害に焦点を当てること、そして我々を引き裂きかねない如何なる力よりも強力な、共通の価値観を再確認することを要するものである。これこそ、我々が続けねばならない取り組みである。その取り組みを始めるために、私は欧州へ来たのである。

もう1度繁栄するには、国境を越えた協力が必要である。協力とは即ち、新たな雇用を創出するための投資であり、成長を阻む保護主義という壁に抵抗することである。金融システムを改革し、濫用や将来の危機を防止するための新たな規則を定めることである。

そして我々には、共通の繁栄と共通の慈悲に対する義務があり、新興市場に対し、そして、恐らく金融危機とはほぼ無縁であったにも拘らず最も苦しんでいる貧しい人々に対し、手を差し伸べねばならない。故に我々は今週初め、誰もが――そう、誰もが――幾許かの援助を受けられるよう、1兆ドル以上を国際通貨基金に醵出することを決定した。

今こそ、地球を守るためにエネルギー消費のあり方を変えるべき時である。我々は世界的な化石燃料依存の停止や、風力や太陽光といった新たなエネルギー源の活用によって、気候変動に共同で対処し、さらには全ての国に対して己の役割を果たすよう求めねばならない。誓って言おう。こうした世界的取り組みを主導する用意が米国にはあると。

我々は、共通の安全保障を提供するために、同盟を強化せねばならない。NATOが設立されたのは60年前、共産主義チェコスロヴァキアを支配した後のことであった。この時、自由主義世界は遅蒔きながらも、分裂などしている場合ではないと知ったのである。故に我々は団結して、世界史上最強の同盟を構築した。そして何年にも、何十年にも亙る協力の果てに、鉄のカーテンは開かれ、自由は流水の如く拡がったのである。

今年は、チェコ共和国NATO加盟10周年の節目である。20世紀には、幾多の決断がチェコ共和国の参加なしで下されてきた。大国が諸君の期待を裏切り、あるいは諸君の声を聞かずに諸君の運命を決することもあった。この場で断言しよう。米国は決してチェコ国民に背を向けたりしないと。我々は、共通の価値観、共通の歴史……[4]。我々は、共通の価値観、共通の歴史、そして恒久的な同盟の約束によって結び付いている。北大西洋条約第5条には、如何なる締約国に対する武力攻撃も全締約国に対する攻撃と見做すと明記されている。これは今の時代にも、如何なる時代にも通用する約束である。

米国が攻撃を受けた際[5]、チェコ共和国の国民はこの約束を守った。幾千もの人々が米国の地で殺害されたとき、NATOは対応した。アフガニスタンにおけるNATOの任務は、大西洋両岸の人々の安全にとって不可欠である。我々は、ニュー・ヨークからロンドンに至る各地を攻撃してきた、あのアル=カーイダのテロリストを標的とし、アフガニスタン国民が己の将来に責任を持てるよう支援している。我々は、自由主義諸国が共通の安全保障のために連携できることを実証しているところである。そして諸君には知ってほしい。米国民は、この努力におけるチェコ国民の犠牲に敬意を表し、失われた命を悼んでいるということを。

だが、如何なる同盟も座視している場合ではない。我々はNATO加盟国として協力し、何処から新たな脅威が来ても対処できるよう、非常事態計画を整備せねばならない。国境の内外に関係なく生ずる危険に向き合えるよう、相互の、また世界中の諸国や諸機関との協力を強化せねばならない。そしてロシアとは、共通の懸案に関する建設的関係を模索せねばならない。

さて、本日私が焦点を当てる課題の1つは、我々両国の安全保障にとって、また世界の平和にとっての必須課題――即ち21世紀における核兵器の将来について――である。

何千発もの核兵器の存在は、冷戦が残した最も危険な遺産である。合衆国とソ連との間に核戦争が起きることはなかったが、人民は幾世代にも亙って、世界が一閃のうちに消え去るやも知れぬことを認識しつつ暮らしていた。幾世紀にも亙って存在し、多くの人類の美と才を体現してきた、プラハのような都市の数々が消滅する惧れがあったのである。

今日、冷戦はなくなったものの、何千発もの核兵器がなくなった訳ではない。奇妙な歴史展開によって、世界規模の核戦争の脅威が減ぜられたが、核攻撃の危険性は増している。より多くの国家が核兵器保有している。核実験は続けられている。闇市場では、核の機密や核物質が大量に取引されている。核爆弾の製造技術は拡散している。テロリストは、それを購入し、製造し、あるいは盗もうと決意している。こうした危険を封じ込めるための我々の取り組みは世界規模の不拡散体制を軸としているが、規則を破る人々や国家が増加するにつれて、この軸が持ち堪えられなくなる時が来るやも知れぬ。

今やこれは、世界中の人々にとって問題となっている。1つの都市で1発の核兵器が爆発すれば――それがニュー・ヨークやモスクワであろうと、イスラマバードやムンバイであろうと、東京やテル・アビブであろうと、パリやプラハであろうと――、何十万もの人々が殺害される惧れがある。そして、それが何処で起こったとしても、その影響は――世界の安全、我々の安全保障、我々の社会、我々の経済、そして我々の究極的な生存に至るまで――、留まるところを知らないであろう。

核兵器の拡散は止められない――我々は、より多くの国家や人々が究極の破壊手段を手にする世界で生きる運命にあるのだと主張する者もいる。このような運命論は、実に危険な敵である。何故なら、核兵器の拡散が不可避であると考えることは、考えようによっては、核兵器の使用が不可避であると認めることになるからである。

20世紀に自由を求めて共に戦ったように、21世紀には、恐怖のない生活を世界中の人々が送る権利を求めて、我々は共に戦わねばならない。そして核保有国として――核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として――、合衆国には行動する道義的責任がある。我々は単独ではこの取り組みを成し遂げられないが、それを主導し、開始することはできる。

故に私は本日、信念を持って表明する。米国は、核兵器のない世界の平和と安全を追求するのだと。私は、甘い考えを持ってはいない。この目標は、直ちに達成される訳ではない――恐らく、私の生きている間は無理であろう。この目標を達成するには、根気と忍耐が必要である。だが我々は今、世界は変わり得ないという声を気にしてはならない。「我々はできる (Yes, we can)」と主張せねばならないのである。

では、取るべき道について説明しよう。第1に、合衆国は核兵器のない世界に向けた具体的措置を取る。我が国は冷戦思考と決別すべく、国家安全保障戦略における核兵器の役割を減じ、他国にもそうするよう促す。誤解しないでもらいたい。合衆国は、これらの兵器が存在する限り、如何なる敵をも抑止し、同盟諸国――チェコ共和国を含む――の防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を保持し続ける。だが我が国は、保有数削減の取り組みを始める所存である。

弾頭と備蓄を削減するために、我が国は本年、新たな戦略兵器削減条約の交渉をロシアと行う。メドヴェージェフ大統領と私は、この作業をロンドンで開始した。今年中に、法的拘束力があり、かつ充分に大胆な、新合意を締結したい。これは、更なる削減に向けた段階をなすものであり、あらゆる核兵器保有国をこの取り組みに取り込むことを模索する。

全世界的な核実験禁止を実現すべく、我が政権は、合衆国の包括的核実験禁止条約批准を直ちに強く推進する。50年以上議論してきたが、今こそ核実験を禁止する時である。

そして、核爆弾に不可欠な物質の流通を遮断するために、合衆国は、国家による核兵器製造への使用を目的とする核分裂性物質の生産を検証可能な形で禁止する、新たな条約の締結を模索する。核兵器の拡散を本気で阻止したいのならば、核兵器の製造に使用される兵器級物質の生産を停止すべきである。これはその第1歩なのである。

第2に、我々は共に、協力の基盤たる核拡散防止条約を強化する。

その基本内容は妥当なものである。即ち同条約は、核兵器保有する国は軍縮へと向かい、核兵器保有しない国は今後も核兵器を入手せず、全ての国は原子力エネルギーを平和利用できる、と規定している。同条約を強化するには、いくつかの原則を受け入れねばならない。国際的な査察を強化するための資源と権限の増強が必要である。規則違反が発覚した国や、理由もなく条約を脱退しようと図る国に対しては、実質的かつ即時の報復措置が必要である。

同時に我々は、国際燃料バンクなどのような、民間の原子力利用での協力に関する新たな枠組みを構築し、もって各国が、拡散の危険を増すことなく原子力を平和利用できるようにすべきである。これは、核兵器を放棄する全ての国、殊に平和的計画に着手しつつある開発途上国の権利たらねばならない。規則を遵守する国々の権利の否定によって成り立つ手法では、成功することはあるまい。気候変動と戦い、あらゆる人民にとっての平和の機会を進展させる。我々は、そうしたことのために原子力エネルギーを活用せねばならない。

だが我々は、幻想を抱きながら進んでいる訳ではない。規則を破る国もあろう。だからこそ、規則を破った国を罰する体制が必要なのである。

我々はまさに今朝、この脅威に対処するための新たな、より厳しい手段が必要であることを改めて思い知った。北朝鮮が再び規則を破り、長距離ミサイルにも転用可能なロケットの発射実験を実施したのである。かかる挑発行為は、行動――本日午後の国安全保障理事会での行動のみならず、こうした兵器の拡散を阻止するとの決意に基づく行動――の必要性を如実に示した。

規則には拘束力が必要である。違反は罰せられねばならない。言葉は意味を持たねばならない。世界は共に、核兵器の拡散を阻止せねばならない。今こそ、強力な国際的対応を取るべき時である。脅威や違法な兵器が安全保障と尊敬への道へと繋がることなど決してないということを、北朝鮮は知るべきである。あらゆる国家が協力して、より強力かつ世界規模の体制を築かねばならない。だからこそ、我々は共に北朝鮮に対し、方針を転換するよう圧力をかけねばならないのである。

イランは、未だ核兵器を製造していない。我が政権は、相互の利益と尊敬に基づき、イランとの関係を模索する。我々は対話を信ずる。だが、対話の中で明確な選択肢を提示する。我々は、イランが国際社会の中で政治的・経済的に正当な地位を占めるよう望む。我々は、厳しい査察の下でイランが原子力エネルギーを平和利用する権利を支持する。これこそ、イランが採り得る道である。あるいはイラン政府は、さらなる孤立や国際的な圧力、この地域における核軍拡競争の可能性を選ぶやも知れぬ。そうすれば、あらゆる国への危険が増すであろう。

断言しよう。イランの核開発や弾道ミサイル開発は、米国のみならず、イランの近隣諸国や米国の同盟国に対しても、まさに脅威となる。チェコ共和国ポーランドは勇敢にも、こうしたミサイルに対する防衛の当事国となることに合意した[6]。イランからの脅威が続く限り、割の良い、実績あるミサイル防衛システムを推進する[7]。イランの脅威がなくなれば、我々の安全保障の基盤は強化され、欧州にミサイル防衛システムを配備する動機もなくなるであろう。

最後に、我々は核兵器がテロリストの手に渡らぬようにせねばならない。これは、世界の安全保障に対する喫緊かつ最大の脅威である。1人のテロリストが1つの核兵器を手にすれば、途方もない破壊をもたらしかねない。アル=カーイダは、核爆弾が手に入れば躊躇うことなく使用すると表明している。しかも、安全管理がなされていない核物質が世界各地に存在する。国民を守るには、目的意識を持って遅滞なく行動せねばならない。

故に私は本日、世界中の不安定な核物質を4年以内に安全管理するための、新たな国際的取り組みを発表する。こうした過敏な物質を厳重管理すべく、我々は新たな基準を設定し、ロシアとの協力を拡大し、新たな協力体制を追求する。

また我々は、闇市場を解体し、核物質の輸送を発見・阻止し、金融的手段を駆使してこの危険な取引を断つための取り組みを推進せねばならない。この脅威は長引くであろうから、我々は「拡散に対する安全保障構想」や「対核テロリズム戦のための世界的構想」などの取り組みを、持続的な国際制度へと変えるために協力すべきである。差し当たり、米国主催の「核安全保障国際サミット」を今後1年以内に開催すべきである。

さて、斯様に広範な課題に我々が対処できるか否かを疑う者も中にはいよう。国家間には避け難い不一致があるため、真の国際協力が可能か否かを訝しがる者もいる。そして、核兵器なき世界の話を聞き、実現不可能に見える目標を設定することに価値があるのか否かを怪しむ者もいる。

だが、誤解しないでもらいたい。そうした疑念の末路は判っている。国家や国民が、不一致によって特徴付けられることを認めてしまえば、互いの隔たりは拡がってしまう。我々が平和を追求しなければ、平和を攫むことなど永久にできない。希望でなく恐怖を選んだときの道は判っている。協力を求める声を批判し、あるいは無視することは容易なことであるが、卑劣なことでもある。戦争というものは、そのようにして始まるのである。人類の進歩は、そこで終わってしまうのである。

世界は暴力や不正立ち向かわねばならない。その際我々は分裂するのではなく、自由な国家として、自由な国民として団結せねばならない。武器を捨てよと言うよりも、武器を取れと言う方が人々の魂を奮起させるものである。だからこそ、我々は共に、平和と進歩を求める声を上げねばならないのである。

それは、今もプラハの街に谺する声である。1968年の亡霊である。ビロード革命時の歓喜の声である。1度も発砲することなく、核武装せる帝国の打倒を支援したチェコ国民の声である。

人類の運命は、自ら切り開くものである。ここプラハで、より良き未来へと手を伸ばすことによって、我々の過去に敬意を払おうではないか。我々の分裂を克服し、希望を基にさらに前進し、世界をより繁栄した、平和なものとする責任を引き受けようではないか。協力すれば、実現できるのである。

ありがとう。ありがとう、プラハよ。 

 

 

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今日8月6日は広島の日です。


今年は広島サミットも開催され、核保有国を含む各国首脳が広島を訪問し、原爆資料館を視察しました。これはオバマ大統領の広島訪問以来の画期的なことであり、首脳らが芳名録に記したように、世界は核廃絶を強い意思を持ってめざすべきと思います。

 

被爆者の方も言っていましたが、日本は原爆を投下したアメリカを恨んではいません。私はアメリカという国柄、文化に何度となく敬服させられています。

 

しかしながら、アメリカではいまだ日本への原爆投下は必要だったと考える人が少なくないと聞きます。戦争を終わらせるために必要だったと。

 

しかし、まずそれは自国の勝利が前提でしょう。このような核使用肯定論は非常に危険な考えです。戦争中の日本はたしかに狂った国でありましたが、だからといって原爆投下をやむを得なかったというのは、被爆の実相を知らない人々による、自己正当化のための安易な考えです。

 

しかしそれはアメリカだけでなく、日本にもいえることです。世界で唯一の被爆国である日本においても、日本は核武装すべきであるという論調が少なからず聞かれます。

 

ある人は核廃絶など夢物語であるといい、ある人は核廃絶を進めるために軍事的に説得力、交渉力をつけるべきであると主張します。

 

また核兵器を盾や施錠にたとえ、身の安全を守るためのものであると。敵国に攻められないために、また攻撃されないために、安全を保障するためのものであると。

 

そのような一定の抑止力があるのは事実でしょう。

 

しかし、核兵器は単なる盾ではなく矛でもあるのです。

 

もし日本が核武装した時に、一体だれが使用の判断をするのか?それはどのような局面であるのか?それが正しく使用されない、あるいは使用されるという根拠はあるのか、ないのか。

 

また日本が核を持つことによる核拡散のリスク、核のドミノも懸念されます。

 

敵の保有する核は悪であり、日本が持つ核は善であるといえるのか。

 

これらの懸念は現実的な脅威です。日本の政党を代表する人物や影響力のある言論人らが、核武装のための議論は必要であると、その実現に向け、積極的な姿勢を示しているからです。

 

問題意識を持つことは大事ですが、自国の軍事力をより高め、周辺国に脅威を与えることで身の安全を図ろうという考えは、ともすれば逆の結果を生じかねないという歴史の教訓があります。安全保障のジレンマとも呼ばれます。

 

私は民衆の一人として、もう一度オバマ大統領のプラハ演説を読み直したいと思います。

良医病子の譬え(法華経如来寿量品第十六より)

法華経寿量品第十六は、法華経の真髄というべき生命観があらわされています。
その中に良医病子の譬えというのがあり、妙法に譬えています。

 

寿量品の概要

仏が弟子たちに、真実の言葉を信解せよといい、弟子は三度請願する。
仏は、如来の秘密・神通之力を聴けといい、久遠実成を語る。
「私は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」
私は常にこの娑婆世界にいて、法を説き、衆生を教化してきた。
よその世界でも衆生を導き、利してきた。
過去世においては、燃灯仏などの仏であったこともあった。
私は仏眼をもって、諸々の衆生の利鈍(機根)を観じ、種種の方便で微妙の法を語る。
善根が乏しく、徳薄で垢が重い者には、(方便として)始成正覚を述べた。
然るに「私は実に成仏してより已来、久遠なることかくの如し」
いずれにせよ、人々を成熟させ、教えを会得させるために説くのである。
その時々により、自分であったり他人を喩えに語ってきたが、全て真実の教説である。
如来の言葉に嘘偽りはない、といって三界の不思議な実相を語る。
無量義経の「三十四非」、一生成仏抄「有無の二の語も及ばず・・・」のように)
如来は色々な仕事に従事し、種種様々な意図をもって良心の人に善根を生じさせる。
種種の教説を、種種の信憑すべき根拠に基づいて語るのだ。
如来は、如来が成さねばならないことを実行する。
如来は久しい以前に悟りを得て、無限の寿命を持ち、常住する。
入滅することなく、教え導くために、悟りの境地を示す。
如来はいまだ使命を果たし終わっておらず、寿命も尽きることがない。
如来は入滅することなく、完全な悟りの境地に入ると告げる。
仏を度々見て、たやすく会え、常住しているならば、誰も善根を積まなくなる。
福徳を失い、貧しい者となり、愛欲に溺れ、盲目となり、邪見の網に包まれる。
それで如来は巧妙な手段を用い、「如来が世に現れるのは容易ではない」と告げる。
「諸仏の出世には遇うべきこと難し」
人々は不思議に思い、渇望し、如来の教えを心に留めるだろう。
このようにして養い育てられた善根が、長い間彼らの利益となり幸いとなる。
そして安心するだろう。
このようにして「如来は入滅することなく、完全な悟りの境地に入る」と告げる。
これが如来の教え導く方法である。
如来がこのように説くとき、如来の言葉は偽りではない。

※三界・・・欲界、色界、無色界のこと。


良医病子の譬え

ある智慧聡達な名医がおり、衆(もろもろ)の病を治していた。彼には大勢(十人~百人)の子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲み、地べたを転がって悶絶し、本心を失って乱心していた。そこへ帰ってきた良医をみて子供たちは大いに歓喜して「私たちを救い、癒し、更に寿命を賜え」と懇願した。良医は苦しむ我が子らを見て、色も香りも味もすぐれた、素晴らしくよく効く良薬を用意し、調合して「この大良薬は、色・香・美味を皆、悉く具足している。これを飲んで苦悩を除き、もろもろの患いを解消しなさい。」そういって子供たちに与えたところ、半数の子供たちは薬の色や香りを嗅いで、父親の薬を素直に飲み、本心を取り戻して治ったが、残りの子供たちは、毒気が深く入り込んで本心を失っており、薬の色や香りを好まず、飲もうとしなかった。父は憐れみ、毒のために意識が顛倒して好薬を飲もうとしないと思い、一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。頼りであった父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、心は遂に醒悟(めざ)め、父が残した良薬を飲み、病を治すことができた。父はそれを聞いて子供たちの前に姿を現した。(釈尊はこのようなたとえ話を述べて)「さて、このことをどのように考えるか?わが息子たちよ。かの医者が巧妙な手段を用いたことを、誰が嘘つきであると虚妄の罪を告発するだろうか」といった。求法者たちは、「世尊よ、そのようなことはありません」といって、仏はこのように言った。「私もまたそうなのだ。成仏してより已来(このかた)、測ることも数えることもできないほど幾千万憶劫(無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫)の時が過ぎた。衆生には方便を用いて「私は滅度(死んだ)した」といってきたのであるが、偽りではないのだ」と。

(以下、自我偈へつづく)

この物語の良医は仏で、薬は法華経、病で苦しむ子供たちは衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している。

 

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大良薬とは南無妙法蓮華経
(二十八品の)法華経には、遥か以前の時代にも仏がおり、それぞれ異なる形態の法華経を説いたとされます。例えば、日月灯明仏、燃灯仏、大通知勝仏、威音王仏、雲雷音宿王華智仏、不軽菩薩の二十四文字の法華経など。また未来の弘法のために、四句の要法を地涌の菩薩らとその代表に託す付属の儀式が、如来神力品第二十一および嘱累品第二十二に説かれます。これらのことを考え合わせると、要法を受け継いだ上行菩薩は誰か?歴史上にすでに出現しているか?要法とは何であるか?それはどのような形態のものであるか?という疑問が導かれます。それこそが日蓮大聖人にほかならず、要法とは七文字の南無妙法蓮華経であり、虚空会の儀式がご図顕された曼荼羅御本尊のことです。この南無妙法蓮華経の御本尊には、釈尊の因行果徳の功徳が全てつまっているため、功徳聚ともいいます。

 

如来滅後五五百歳始観心本尊抄
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

※具足・・・物事が十分に備わっていること。
 
円満具足ともいい、妙法の特筆(妙の三義)の一つです。
 すなわち、漢文法華経には「色香美味・皆悉具足」とあり、色も香りも味もすぐれた、よく効く大良薬とは、法華経のことであり、あらゆる要法・因行果徳が備わっているのです。

日女御前御返事(本尊相貌抄)

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり
経王殿御返事
南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病障りをなすべきや
 
御義口伝
妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり

開目抄
六波羅蜜経に云く・・・
・・・此の五の法蔵譬えば乳・酪・生蘇・熟蘇及び妙なる醍醐の如し、総持門(※陀羅尼の法門)とは譬えば醍醐の如し醍醐の味は乳・酪・蘇の中に微妙第一にして能く諸の病を除き諸の有情をして身心安楽ならしむ、総持門とは契経等の中に最も第一と為す能く重罪を除く」等云云


法華経の真髄は本門・寿量品といわれます。
寿量品には仏の本地(久遠実成の覚り)、三世の生命観が明かされており、仏がいかにして寿命を延ばしてきたかも示されています。
原始仏教法華経以前の経では、この娑婆世界は穢れや苦悩に満ちており、解脱して、二度と生まれ変わらない涅槃の境地に至るという解脱観がありますが、法華経ではじつは仏は、何度も娑婆世界に生まれ変わり、我々の住むこの世界に常住し、様々な姿や菩薩、働きとなって人々を導き、無限の寿命をさらに延ばしています。
また仏とは一人ではなく、誰もがその可能性である仏性を秘めています。
決して、死んだら終わりではないのです。
お金も健康も死とともに失われますが、福徳は三世に及びます。
この有難い、稀有の妙法を聞いて、私たちも如来の使い(地涌の菩薩)となって、妙法を弘め、寿命無量の「心の財」を積んでいきましょう。

 

 

追記

余談ですが、先日、父が糖尿と認知症のため入院しました。他にも肺や血液などを患っています。主治医によると、自宅でインスリンをちゃんと打てておらず、それが血糖値の上昇を招いており、適切に打てていないのは認知症が原因であると考えられると。簡易のCT検査によると、脳が委縮しており、アルツハイマーの可能性もあるとのことでした。まだ、これから専門医による検査という段階ですが、最近は新薬の開発や承認も、以前より進んでいると聞きます。父には、なんとしても健康回復してほしいとの願いから今回の記事を書きました。必ず治ってくれると信じます。

サミュエル・ウルマン「青春」


青    春 
(サミュエル・ウルマン 訳:岡田義夫)

 

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、

怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、

こう言う様相を青春と言うのだ。


年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望

こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、

精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。


年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
 
曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、

その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、

事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、

人生への歓喜と興味。

 
人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる
 
人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる
 
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる
 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、

そして偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない。

 
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、

皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば

この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。


サミュエル・ウルマン(1840-1924)は、ドイツ出身のユダヤアメリ人の詩人。
南北戦争では南軍の兵士として従軍し、除隊後は結婚して8人の子供をもうける。
ミシシッピ州で市会議員を務めた後、アラバマ州金物屋や不動産業など様々な事業を行っていたが、教育委員会に長年在任するなど教育活動にも熱心だった。とくに黒人教育に関心を寄せ、黒人にも白人と同じ教育を行うことが教育的にもプラスになると主張した。このほか、病院の設立など多くの地域社会活動に携わった。
「青春の詩」"Youth" は、ウルマンが70代で書いた詩で、詩集 From the Summit of Years, Four Score に収められた作品のひとつである。
日本でこの詩が普及したはダグラス・マッカーサーが関わっている。1940年頃に友人のコーネル大学教授からこの詩を贈られて大変気に入り、マニラや東京の執務室の壁に額に入れて飾り、講演でもたびたび引用した。

パナソニックの創業者である松下幸之助氏もこの詩を座右の銘として紹介し、手書きで揮毫して額に掛けたり、講演等で引用している。

サミュエル・ウルマン

 



今日は大学生のY君に、池田大作著「青春抄」を差し上げた。最近は折あるごとに池田先生の本を贈呈している。今日で4人目。「池田大作という人を知っているか?」と聞くと知らないという。創価学会の会長だと伝え、しばらくして少しめくって読んだというので、何が書いてあったのかと聞くと、青春とは心の若さというようなことが書いてあったと。そのとき、「心の若さを詠った詩としてはサミュエル・ウルマンの詩も有名だね」などという話をした。その後、この詩が示す輝きの源泉はたしか"理想と情熱”だったか・・・?、などと記憶を辿ったりしていたが、あらためて読んでみると色々な言葉が散りばめてあり含蓄が深い。

 


若さ(アンチエイジング)の秘訣として挙げられているのは

優れた創造力

逞しき意志

炎ゆる情熱

怯懦を却ける勇猛心

安易を振り捨てる冒険心

理想

情熱

驚異への愛慕心

事物や思想の対する欽迎

事に處する剛毅な挑戦

小児の如く求めて止まぬ探求心

人生への歓喜と興味

信念

自信

希望

大地、神、人  より

美と喜悦

勇気と壮大

偉力と霊感 を受ける

 

とこのように、よくみると哲学的であり、宗教的でもあり深い。

仏典と響き合うようなフレーズもある。

「勇猛精進」

「浅きを去って深きにつくは丈夫の心」

「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず」

 

どれも精神的価値であり目に見えないものなので、それらはたしかに大事な要素だと思いつつも、あるのかないのか感じ取り難い。これらの精神的な価値や人格的な特質は、お金のような財産的価値などと違い視覚化も数値化もされないので、これらの要素が人によってどの程度あるのかないのか、意識されたり、語られたりする機会は乏しい。しかしそれらはどれも人間として、人生を輝かしいものにしていくための大事な要素である。

 

反対に老いさせる要素は、

苦悶、狐疑、不安、恐怖、失望 などが挙げられる

これらはどれも生きている以上、避けようのない要素といえる。仏教でいえば、「生老病死」「四苦八苦」に相当するかもしれない。それらは避けられるものではなく、いかに対峙し輝きに変えていくかが信仰者の生き方となる。

 

最近、ネットやSNSを通じ、若者に強盗を仕向ける事件が相次いでいる。ルフィ一味による資産家強盗・殺人。銀座や川崎での時計店強盗など。バイト感覚の”ノリ”で犯罪を行う若者たち。若さゆえに簡単に悪事に染まり、愚かと評されるが、最も非難されるべきは、平然と若者を使い捨てにし、不当な利益を得ている悪党である。現代の日本でこのような事件が起きるのは、人々から精神性が失われているからではないか。法律があっても、捕まらなければよい、バレなければよいと考える人がいれば、悪事は絶えない。社会のルールや規範とともに大切なのは、自律的、内律的な自己規律である。健全な哲学、目的観や人生観。苦悩と対峙する希望の哲学。これは明らかに持ってる人と持ってない人がおり、日々の、長い修練によって培われる。では、それは一体いつ育む機会があったのか?いつそれらのことが考えられ、語られたのか?学校教育には集団規律のようなものはあるが、自己を統制するようなことは学ばない。大人になったらお好きにどうぞだ。しかし実際、大人の社会では卑俗的な関心に狭められてしまっている。皮相的な出来事に終始している。なぜそうなっているのか、ではどうすればいいのか、今の私にはそれらを明確に述べる力量はない。しかしシンプルに他律と自律という観点からいうと、他律は法律であり広く一般に適用されるのに対し、自律は思想、良心の自由、人生観など個人的な領域にあるため、強制力を働かせることはできない。理想、願望、情熱、興味、関心、テーマ、目標、人生観、善悪観、自律心。それらはあくまで各個人が自己のうちに見出し、能動的、主体的に望み、つかみとっていくべきものだからだ。そのためには自身の情熱のありかを掘り当て、燃やし続けなければならない。運よく、生まれながら才能、資質、環境、機縁に恵まれ、それらの価値を有している者は幸いであろう。いま私は本を渡そう。少なくとも、そこに書かれてある言葉は私が発するものより力があり、響くだろう。私が自身の言葉を忌憚なく放つには、不足していることがありすぎる。

G7 広島サミット 「核兵器なき世界」へ

核兵器なき世界の実現に向けて

5月19日から広島でG7サミットが開催されています。
各国首脳が集い、広島の記念公園や原爆資料館を訪れたのは、史上初めてです。

核大国ロシアによるウクライナ侵攻をいかにして早期終結に導くか、
また「核兵器なき世界」をどのように実現していくのか、
歴史上唯一の被爆地となった広島はこれらのことを考え、各国のリーダーたちが新たな決意を表明する上で最も相応しい場所といえるでしょう。


今回のサミットで大きな関心が寄せられていたのが原爆資料館への訪問ですが、各国首脳たちが揃って見学できたことは大変大きな意義があったと思います。とくに現職のアメリカ大統領による資料館訪問は2016年のオバマ大統領に次いで2人目であり、画期的であったといえます。ただ資料館を実際に見学する様子は非公開となっていました。アメリカを始め、イギリス、フランスなど核保有国も含まれるため、各国の事情に配慮してのことでしょう。資料館には原爆の悲惨さを物語る展示物があり、来場者が時に涙し、感傷的な様子がみられますが、今回は各首脳たちが、資料を通じ、被爆の実相をみて、何を思い、感じたのかを表情から読み取る機会はありませんでした。しかし、オバマ大統領が広島訪問の際、資料館に滞在したのは10分程度だったことから、今回約40分間滞在できたことは、大きな前進だったといえるでしょう。何事も一気呵成にいくものではありません。何より、各国首脳たちが原爆資料館にある芳名録に、平和へのメッセージとそれぞれの思いを言葉で記したことは、核なき世界と世界平和を望む人々には大きな希望となったに違いありません。


G7各国首脳が平和記念公園で原爆慰霊碑に献花(19日)


原爆資料館(各国首相の芳名録)

岸田総理大臣
歴史に残るG7サミットの機会に議長として各国首脳と共に「核兵器のない世界」をめざすためにここに集う

マクロン仏大統領
感情と共感の念をもって広島で犠牲となった方々を追悼する責務に貢献し、平和のために行動することだけが、私たちに課せられた使命です。

バイデン米大統領
この資料館で語られる物語が、平和な未来を築くことへの私たち全員の義務を思い出させてくれますように。世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう。信念を貫きましょう!

トルドー加首相
多数の犠牲になった命、被爆者の声にならない悲嘆、広島と長崎の人々の計り知れない苦悩に、カナダは厳粛なる弔慰と敬意を表します。貴方の体験は我々の心に永遠に刻まれることでしょう。

ショルツ独首相
仮訳:この場所は、想像を絶する苦しみを思い起こさせる。私たちは今日ここでパートナーたちとともに、この上なく強い決意で平和と自由を守っていくとの約束を新たにする。核の戦争は決して再び繰り返されてはならない。

メローニ伊首相
本日、少し立ち止まり、祈りを捧げましょう。本日、闇が凌駕するものは何もないということを覚えておきましょう。本日、過去を思い起こして、希望に満ちた未来を共に描きましょう。

スナク英首相
シェイクスピアは、「悲しみを言葉に出せ」と説いている。しかし、原爆の閃光に照らされ、言葉は通じない。広島と長崎の人々の恐怖と苦しみは、どんな言葉を用いても言い表すことができない。しかし、私たちが、心と魂を込めて言えることは、繰り返さないということだ。

ミシェル欧州理事会議長
80年近く前、この地は大いなる悲劇に見舞われました。このことは、われわれG7が実際何を守ろうとしているのか、なぜそれを守りたいのか、改めて思い起こさせます。それは、平和と自由。なぜならば、それらは人類が最も渇望するものだからです。

フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長
仮訳:広島で起きたことは、今なお人類を苦しめています。これは戦争がもたらす重い代償と、平和を守り堅持するというわれわれの終わりなき義務をはっきりと思い起こさせるものです。

外務省
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/g7hs_s/page1_001692.html

 

19日夕方には世界遺産である宮島・厳島神社を訪問し、会食が行われました。

厳島神社には平清盛が奉納した装飾経・国宝「妙法蓮華経30巻」(開結含む)が収蔵されています。清盛の願文に「善を尽くし、美を尽くし」とあるように、荘厳で美しい経典です。

グローバルサウスへの関与

今回、岸田首相はG7以外の新興国の首相らも招待していました。先進国のG7に対して、グローバルサウスの国々は発展途上であり、大国と比べると立場の弱い国です。これらの国々は、ロシアとの経済的、軍事的な結びつきがあり、ウクライナ侵攻を明確には非難しがたい現状にあります。今回は、その中でも核保有国であり、西側諸国ともロシアとも一定の距離を保つインドの動向に注目が集まっていました。
モディ・インド首相は昨年9月にプーチン大統領と会談し、「今は戦争すべき時ではない」と苦言を呈したものの、インドは国連での対ロ非難決議には度々棄権し、曖昧なスタンスでもありました。原油などロシアの安価な資源を頼る現状があり、インド国民の生活と経済を守っていくことも新興国として死活問題となっています。

しかしそんな中でサミットに参加したインドメディアが、核なき世界の実現へ、力強い意思表明をしていたのが印象的でした。



インド国営放送「DD」キャスター アミリット・パール・シンさん

ウクライナ侵攻でインドが果たすべき役割は一つで、理性的な声を上げることです。外交と対話によって模索することが、ロシア国民とウクライナ国民にとっての利益となるでしょう。」
インドは核保有国です。しかしインドは、全世界の核兵器廃絶を望んでいます

と、力強い言葉。


また今回、インドは広島に非暴力の象徴的人物であるガンジー像を寄贈しました。ガンジーはイギリスの支配下において祖国インドを独立に導いた平和指導者であり、ここにおいて「法の支配に基づく国際秩序を守り、力による現状変更は許されない」という広島サミットの精神を、インドらしく表しているように思いました。

 

広島に寄贈されたガンジー

 

ゼレンスキー大統領の来日、参加

そしてなんとゼレンスキー・ウクライナ大統領が電撃来日し、G7に参加しました。
到着後、ツイッターに意気込みを投稿していました。
日本だ。G7だ。ウクライナのパートナーや友人との大事な会議だ。勝利に向けた安全と協力拡大。今日、平和が身近になっていく

フランス機で日本に到着したゼレンスキー大統領

 

到着後は、各国首相と精力的に会談を重ねている模様です。

戦火のウクライナから離散した国民からも強い支持を集めています。

せっかく広島に来たからには、ぜひ原爆資料館を訪れていただきたいですね。

 

SGI提言 G7で「核兵器の使用・威嚇許されない」と発信を

G7は20日、「核兵器による威嚇は許されない」と表明

www.jiji.com

創価学会池田大作名誉会長は、先月4月27日に、G7は「核兵器の使用や威嚇は許されない」というメッセージを力強く発信するよう求める提言をしていました。

また、ウクライナ情勢の早期終結を目指し、重要インフラや民間施設への攻撃の即時停止を実現したうえで、戦闘の全面停止に向けた交渉を、医師や教育者など市民の代表がオブザーバー参加する形で行うことを提案しています。

核兵器の使用や威嚇は許されないというメッセージを広島から力強く発信すべきだと指摘したうえで「核兵器の先制不使用」の誓約に関する協議を、G7が主導して進めるよう呼びかけていました。

 

www.sokagakkai.jpwww3.nhk.or.jp

 

最後に

現在の核兵器の威力は、広島、長崎と比べものにならないほど破滅的であり、核戦争はいかなる場合も避けなければなりません。しかしながら、誰もが核兵器のない世界を望みながら、現実にはなかなかその道筋が見えてきません。軍事的な抑止力が一定の効果を果たしているのも事実でしょう。またもし全廃できたとしても、どこかの国が持ってしまえば、他の国は非力な状態に陥り、太刀打ちできなくなるのではないかという懸念もあります。しかし核兵器が存在し続ける以上、キューバ危機のような核戦争勃発スレスレの状況や、落下や暴発による事故、誤認発射などの懸念も絶えません。核兵器はそれ自体が絶対悪であり、それを維持するために莫大な予算も毎年かかるのですが、同時にそれは強大な権力を裏付けるものでもあるため、一度それを手にしてしまうと簡単には手放すことができないのでしょう。それを対外的な力の誇示であったり、脅威に対する安心の備えと考える人々がたくさんいるのです。ゴルバチョフ大統領の登場でかつての東西対立・冷戦は終わりを迎え、一時は局所的・地域的なテロとの戦いに入ったともいわれました。しかし今また大国同士の対立・分断が新たな形で生じつつあります。喧嘩両成敗とはいいますが、現在の価値観からいえば、法の支配や秩序を無視した、力による一方的な現状変更の試みは、現実に耐えがたい災禍を招いています。対話が重要だと言いながら、往々にして両者の言い分はすれ違います。物事が対話を通じて合意や解決を得られていくならいいですが、世の中には話が通じない人や話が無理なら腕づくでという人が必ずいるわけです。とはいえ、人類は大きな災禍を何度も経て、現在の国際秩序ひいては人権、自由を勝ち得てきました。核兵器もピーク時には7万発もあったのが、核軍縮の努力によって1万発程度に抑えられてきているのも事実です。ですから大きな視野に立てば希望的観測を持てるかもしれませんが、人間は痛い目に合わないとわからない、という愚かな存在でもあるため、できれば大きな災厄を招くことなく、知恵を紡ぎ、平和の実現をめざしたいと思うのです。これらを踏まえて端的に思うのが、まず教育が大事だということ。もっといえば根底にある価値観、精神性。世の中が平和なのはいいですが、あまりにも無関心すぎると危機的な状況に陥るかもしれません。市井において日常で核廃絶が話されることはほとんどありません。政治や宗教はとくに遠ざけられます。次に創造的文化。価値観の違う国や人同志の共感や敬意。共通の理解など。そういう文化的要素の重要さは、アインシュタインフロイトの対話でも指摘されていました。またこれは非常に主観的な見解ですが最近になって、マクロで起きていることはミクロで起きていることと相関しているとも感じます。多様性の世の中にあって百人百様であり、自分とは毛並みの違う人々がたくさんいて、人間関係でさえ簡単ではありません。じつはそういう所にも問題の根があるのだろうと思います。会話は誰もがしてますが、必要なのは同じ目線に立った対話ではないでしょうか。命令的、高圧的、一方的、侮蔑的、抑圧的な力関係は負の連鎖を生みだしていくだけでしょう。理解と共感を得ていくプロセスをなおざりにされているように思います。一方の側にだけ都合のいい解釈や論理、押し付けや非難は、反発や怒りを生むだけであり、一方の側に徹底的に我慢や苦痛を強いる方法では、好ましい結果にはならないと思うのです。強者は往々にしてこのように振る舞いがちです。また匿名性の高い人々もこのような心理を抱く傾向があります。全部相手が悪い、全部誰々に非があると責め立て、自己正当化を図るのです。しかし「驕れる者は久しからず」で、理解や共感を軽視しては何事も成就できません。自ら掲げる理念や精神性に背く振る舞いをすべきではありません。誰もが言い分を持っているのです。皆が言いたいことの言える時代になったとはいえますが、言いっぱなしが目立ちます。反論や異なる見解には耳を傾けようとしないし、相互理解に至るような踏み込んだ対話というのはなかなかみられません。これはたぶん学びと素養によるのだろうと思います。では、長々と失礼しました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

「かもめのジョナサン」リチャード・バック


「ジョナサン・リヴィングストン」長老が言った。
 
「不名誉のかどにより中央に進み出よ。汝のはらからたちの面前にだ」
 
板きれでぶんなぐられたような感じだった。膝の力がぬけ、羽毛はぐったりとなえて、激しく耳鳴りがした。不名誉のかどで中央に?そんな馬鹿な!<限界突破>なんだぞ!連中にはわからないのか!やつらが間違ってる、こいつらの間違いだ!
 
「・・・・・・思慮を欠いた無責任な行為のゆえに」
 
抑揚をつけたおごそかな声がとぎれとぎれにきこえた。
 
「汝はカモメ一族の尊厳と伝統を汚した・・・・・・」
 
不名誉のかどで中央に引き出されることは、カモメの社会から追放され、<遥かなる崖>での一人暮らしの流刑に処せられることを意味していた。
 
「・・・・・・ジョナサン・リヴィングストンよ、汝もやがてはさとるであろう、無責任な行いが割にあわぬものだということを。われらの生は不可知にして、かつはかり知れざるものである。わかっていることはただわれらが餌を食べ、そしてあたうる限り生きながらえるべくこの世に生をうけたということのみなのだ」
 
<評議集会>では決して言葉を返してはならないのだが、思わずジョナサンは声をあげた。
 
「無責任ですって?」彼は叫んだ。
 
「聞いてください、みなさん!生きることの意味や、生活のもっと高い目的を発見してそれを行う、そのようなカモメこそ責任感の強いカモメじゃありませんか?千年もの間、われわれは魚の頭を追いかけまわして暮らしてきた。しかし、いまやわれわれは生きる目的を持つにいたったのです。学ぶこと、発見すること、そして自由になることがそれだ!」
 

鳩摩羅什

今回は、「妙法蓮華経」等多くの仏典を中国で漢訳した鳩摩羅什の紹介です。
以下の経緯は『高僧伝』(6世紀の南北朝時代に著された名僧たちの伝記、列伝)に詳しい。
 
亀茲国(現在の新疆ウイグル自治区クチャ市)は天山山脈の東南、シルクロードにあるオアシス都市。
 



鳩摩羅什の主な経歴)
・344年、後に中国・長安で300巻の仏典を漢訳する名訳経僧・鳩摩羅什がこの地に誕生。
 父・鳩摩羅炎はインド・カシミールの名門貴族。母・ジーヴァは亀茲国王の妹。
・7歳で出家し、9歳でインド・カシミールに遊学し、サンスクリット語をはじめ小乗仏教アビダルマ仏教を学ぶ。
・12歳のときカシュガルにおいて梵語経典(転法輪経)を講じ、諸学問(五明)や西域の言語を学ぶ。
 
※五明とは、文典・訓詁の学、工芸・技術・歴数、医学・薬石、論理学、四ヴェーダ・韻律学に相当する。
 これらの知識が後の仏典漢訳に生かされてくる。とくに仏教のエンサイクロペディアといわれる『大智度論』は、
 これら万般にわたる学問の蓄積がなければ理解できるものではなく、まして翻訳などできない。
 また羅什は、沙弥(しゃみ、見習い僧)にして高座にのり、各国語に通じた才能と外典の諸学を駆使した
 学識深い説法は、人々を驚嘆させ、国王、重臣も臨席したと考えられる。
 羅什に高座を勧めたある沙門は「此の沙弥は軽んずべからず。・・・
 ・・・亀茲国とカシュガル(沙勒国)の架け橋となるだろう(要約)」といい、両国の修好となった。
 一人の沙門の説法が二つのオアシス国家を結び、その高名は漢土まで知れ渡り、やがて係争の的となる。
 
具足戒を受け、大師・須利耶蘇摩 (しゅりやそま)と出会い、大乗に転向。中観派(論書)等を研究。
 
 須利耶蘇摩は羅什の幅広い学識に感心していたが、根本となっている小乗的な展開には物足りなさを
 感じていたであろうし、羅什もまた小乗に限界を感じ、須利耶蘇摩の門下に指摘されたかもしれない。
 羅什から須利耶蘇摩を訪ね、大乗の教えを請いに行ったのであろうか。
 『高僧伝』によると、蘇摩が羅什に「阿耨達経」を説いた時、「一切法これ空にして無相なり」との大乗教義を
 羅什は直ちに理解できなかったが、問答の中で大乗の深義に開眼してからは、大乗と小乗の違いを研究する
 のに時を忘れるほどであったという。
 こうして羅什は大乗の要義を求め、『中論』『百論』『十二門論』の講義も受けて、全て暗誦してしまった。
 
・五胡の一つ前秦長安に建国した苻堅は、羅什の高名を聞きつけ長安に連行するよう将軍・呂光に命じる。
 
 苻堅(ふけん)は仏教の教えに強い関心を持っており、羅什を生け捕りにする以前は釈道安を得るために
 十万の大軍を派遣し、道安と親交のあった文筆家などとともに長安に迎えている。
 この道安門下の中から、後に羅什の訳場に列なる俊英が数多く輩出された。
 このような意味で、道安は羅什の名訳を生む下地を作った人物ともいえる。
 苻堅が羅什を捕らえるべく呂光を派遣したのも、道安から羅什の名声を聞いたからであった。
 しかし苻堅はまもなく倒れ、帰途にあってその報を聞いた呂光は涼州で独立し、後涼国を建てる。
 
・羅什は亀茲国を攻略した呂光の捕虜となるが、軍師として度々呂光を助ける。
 
 呂光の参謀として牛や悪馬も乗りこなし、おそらく人生で最もつらい時期を過ごしたと考えられる。 
 呂光は仏教理解も乏しく粗野であったらしく、羅什に亀茲王女を強要し、女犯の戒を破らせたり、
 戦でも羅什の策を用いた時は勝利するが、用いることも少なく部下からの反乱も度々であったという。
 
・以後17年間、涼州後涼国(現在の中国甘粛省)で過ごし、この間漢語や既訳の仏典に精通する。
 
 この最も困難な時期に羅什は、いつも東方の空を仰ぎいつか長安の都へ入り、深遠な大乗の教えを
 必ずや後世に伝えようと念願していたに違いない。そのために来る日も来る日も粒々辛苦して修行に励み、
 漢語も覚え、流麗な漢詩も創れるまでになっていた。
 実際、羅什が長安入りするまでの中国仏教界では、小乗と大乗の違いも明確に区別されていなかった。
 『高僧伝』によると、母ジーヴァは、羅什が二十歳の時に、大乗の教えを中国に伝える使命を持つことに
 大きな期待を寄せる一方、羅什もまた民衆を利する大乗菩薩の道を中国に伝え、衆生を教化して
 蒙昧をひらき、小乗の俗理を洗悟しゆく決意を述べている。
 
・401年、後秦の姚興(ようこう)に迎えられ長安入りを果たす。
 
以上、鳩摩羅什の前半生です。
続きは追って掲載します。

「A CHANGE IS GONNA COME」Sam Cooke(1964)


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I was born by the river in a little tent
Oh and just like that river
I've been running ever since
It's been a long,A long time coming
But I know a change is gonna come,
Oh yes it will

俺は川のほとりの小さなテントで生まれたんだ
それからというもの、この川みたいに
ずっと走り続けてきたんだ
とても長い時間がかかったけど
俺にはわかる
きっと変化が訪れると
そう、必ず


It's been too hard living,But I'm afraid to die
’Cause I don't know what's up there beyond the sky
It's been a long, a long time coming
But I know a change is gonna come,
Oh yes it will

死ぬのは怖いけど、生きていくのも厳しい
空の向こうで何が起きているのか分からないから
とても長い時間がかかったけど
俺にはわかる
きっと変化が訪れるって
そう、必ず

 

I go to the movie and I go downtown
Somebody keep tellin’me don’t hang around
It's been a long, a long time coming
But I know a change is gonna come,
Oh yes it will

映画館に行っても、街に出かけても
俺に「うろうろするんじゃねえ」って誰かがいうんだ
とても長い時間がかかったけど
俺にはわかる
きっと変化が訪れると
そう、必ず

 

Then I go to my brother
And I say, brother, help me please
But he winds up knockin' me
Back down on my knees and oh

それで、兄弟のところに行き
助けてくれと頼んだが
奴は俺にひどい仕打ちをして
ひざまづかせようとする

 

There been times that I thought
I couldn't last for long
But now I think I'm able to carry on
It's been a long, a long time coming
But I know a change is gonna come,
Oh yes it will

もう長くはもたないって、何度も思ったよ 
でも今は、何とかやっていける気もする
とても長い時間がかかったけど
俺にはわかる
きっと変化が訪れると
そう、必ず

 

 

最近、絵を描きながらこれを聴いてます。(他にも色々聴いてます)

サム・クックの最高傑作といわれている曲で、1960年代の公民権運動の最中にボブ・ディランの「Blowin' In The Wind(風に吹かれて)」を聴いて感銘を受け、自身で作曲したそうです。

2005年には「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」で12位に選ばれた名曲で、アレサ・フランクリンやティナターナーなど多くのアーティストたちがカバーしていますが、私が聴いた中では原曲を超えるものはありませんでした。しかし残念なことに、この曲が発売された1964年12月には、彼はトラブルにより銃で撃たれ帰らぬ人となっていました。

 


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「Blowin' In The Wind(風に吹かれて)」について、wikipediaには以下の記述がありました。

 

<<1962年4月、グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウス「ガスライト」の向かいにあった「コモンズ」で友人たちと長時間黒人の公民権運動について討論したはてに生まれ、「コモンズ」か「ファット・ブラック・プシーキャット」に座って数分で書き上げたと言われている。「10分で書いた。古い霊歌に言葉を当てはめたんだ。多分カーター・ファミリーのレコードか何かで覚えたものだと思う。これがフォーク・ミュージックのいつものやり方だ。すでに与えられているものを使うんだ。」とディラン本人は述べている。>>

 

しかし「風に吹かれて」は、黒人奴隷制度を嘆く「No More Auction Block」という曲に非常に似てるので、これがルーツだと思われます。ディランもこの曲を歌っています。

 

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1959年にディランは、両親の勧めでミネソタ大学に入学しますが、半年で通わなくなります。そして隣接するミネアポリスのディンキータウンでエレキギターアコースティックギターに買い替え、フォークソングに熱中していました。その頃レコード店で黒人フォーク歌手のアルバムを熱心に視聴していたというので、この時にオデッタの「No More Auction Block」を聴いて(もしくは残像を)アレンジしたのではないかと思います。

 

No more auction block for me     
No more, no more,          
No more auction block for me     
Many thousand gone.

 

もう競売台はたくさんだ

もうやめてくれ、もうやめてくれ

もう競売台はたくさんだ

何千もの人々(黒人)が連れて行かれた


歌詞の感じも何となく似てますね。

「Auction Block」(競売台)というのは、奴隷制度があった時代に黒人たちを乗せて売買されていた台(ブロック)のことで、現在もその忌まわしい記憶を風化させないために、バージニア州フレデリックスバーグに設置されています。

 

そもそもロック・アンド・ロールという概念自体が、黒人のリズム・アンド・ブルースに由来しており、まだ人種差別の色濃かった時代に言い換えられたものなのだそうです。エルヴィス・プレスリーも黒人教会に通って黒人音楽をよく聴いていたといい、それがロックスターとしての華々しいデビューを飾る礎となったともいわれます。

 

「風に吹かれて」が独創性の高い名曲であることは言うまでもないことですが、このように名曲がどのように創られたのか、背景やつながりを知り、あれこれと想像することも、音楽を聴く楽しみの一つだろうと思います。