全豪OP・大坂なおみ優勝!

ジェニファー・ブレイディ vs 大坂 なおみ/全豪オープンテニス2021 決勝

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昨年は相次ぐ黒人襲撃事件や大統領選挙で物々しい雰囲気でしたが、

全米オープンに続き全豪で再び優勝!

安定感のある強さで、王者の風格を感じますね!

 

ノバク・ジョコビッチ vs ダニール・メドベージェフ/全豪オープンテニス2021 決勝
  

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男子はジョコビッチが優勝!こちらも圧巻の強さです!

セルビアの首都ベオグラード出身で12歳の頃にユーゴスラビア紛争でNATO軍による空爆を受け、暗い地下室で恐怖に耐え続けたそうです。

 

個人的には大阪選手もジョコビッチ選手も、サーブを打つ時のフォームが優雅で見惚れてしまいます。大阪選手のセカンドサーブは回転がかかって跳ね上がるのでリターンし難いのだそうです。

創造的休暇

 万有引力の法則を発見したニュートン(17世紀)のお話です。

コロナ禍で企業活動の自粛、学校の閉鎖にある現在と重なるエピソードです。

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ケンブリッジ、トリニティ・カレッジにあるニュートン

生い立ち

1642年のXマスにアイザック・ニュートンは未熟児として誕生し、産婆から「この子は長生きすまい」と言われたそう。

農作業を放り出して水車や科学書に熱中する姿を見て、母親はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学させます。そこで授業料や食費を免除される替わりに、講師の小間使として雑用をするサイザーという身分となり、そのため同級生とは打ち解けなかったという。

 

師との出会い

ここでアイザック・バローという師に巡り合いニュートンは才能を見込まれ、奨学金の支給(スカラー)や学位を授与され、これにより才能が開花し、万有引力の法則や二項級数、対数の無限級数を発見。微分および微分積分学へと発展します。


ペストの流行

この頃、ロンドンではペストが大流行(1665-66年)しており、ニュートンがこうした成果を得るのは、一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たからといわれます。この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されており、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得たのです。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。こうしてニュートンは故郷での休暇中に、「流率法(と彼が呼ぶもの(将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想などに没頭することができたのです。「ニュートンの三大業績」とされるものは、いずれもペスト禍を逃れて故郷の田舎に戻っていた18か月間の休暇中になしとげたことであり、すべて25歳ごろまでになされたものです。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているため、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれています。

ブラジル広布

池田先生のブラジル初訪問は1960年10月19日。
日本の約23倍の国土に、当時は100世帯ほどの会員がいるのみ。
日系移民の彼らは、誰もが貧困や差別などで過酷な生活を強いられていた。
この訪伯前、先生はアメリカにいて北南米の3カ国9都市を24日間で回るという
過酷なスケジュールから体調を崩されていた。
同行者からは、ブラジル行きを止められたが、
先生は、同志が待っているからたとえ倒れてでも行くと答えたのでした。

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1960年10月、池田先生がブラジルを初訪問した折、先生は新任の幹部に“リーダーとして大切なのは後に続く同志のために、ブラジルの土になるのだという決意である”と語った

先生の2度目の訪問は66年3月。
わずか5年半の間で、同国の会員は約8000世帯へと躍進。



ビザが発給されず
さらに3度目となるはずだった74年には、軍事政権下で学会に対する誤解から、
ビザが発給されず入国できなかった。
この時、先生はこれは必ず意味のあることだと仰ったそうです。
以来、同志は「ムイト・マイス・ダイモク(もっとたくさん題目を)!」
を合言葉に新たな挑戦を開始。良き市民を目指し社会貢献に励んできた。
翌75年、ブラジルSGIはブラジリア連邦区の要請を受け、ブラジル文化祭を開催。
その模様が新聞に大きく報じられ、徐々に社会の見方が変わっていく。

 

 

アタイデ総裁

 84年2月、フィゲイレド大統領(当時)の招聘で18年ぶり3度目となる訪伯が実現。
4度目の93年2月には、ブラジル文学アカデミーアタイデ総裁と会見。
先生はアジア人初となる同アカデミー「在外会員」に就任した。

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リオデジャネイロ空港に到着した池田先生を迎える アタイデブラジル文学アカデミー総裁

 

ブラジル最高勲章など数々の称号

以来、ブラジルの友は師匠との忘れ得ぬ原点を胸に、全土に信頼と友情のネットワークを広げてきた。
その証しとして先生の地球規模の業績に対し、同国の最高勲章「南十字国家勲章コメンダドール章」やサンパウロ市など150以上の州・市から名誉州民・市民証等が贈られている。同国の学術機関からは、リオデジャネイロ連邦大学をはじめ29の知性の宝冠を戴いている。

 

ブラジル創価学園

ブラジル創価学園もあります。

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ブラジル創価学園の授業

 

アマゾン創価研究所


森はよみがえる アマゾン熱帯雨林を守れ | 創価学会公式

生物多様性の宝庫であり、地球上の多くの酸素を供給しているアマゾン熱帯雨林が破壊され危機に貧している。ブラジル、マナウスにあるアマゾン創価研究所では、アマゾン各地から原生種を集め約2万本の植樹に成功。原生動物も徐々に戻り始めたという。

しかしブラジル現地では今なお森林伐採は文明の発展のためだと考えられており、環境保護への意識は高いとはいえず、人間の手による自然破壊への懸念はたえない。

こうした中、アマゾン創価研究所では、現地の子供たちに対し環境教育に力を入れており、植樹活動をしたり、人と自然が共生する重要さを学んでいるという。

四条金吾

 
【仏教ものがたり】信心をつらぬいた四条金吾 | 創価学会公式

 

四条金吾日蓮大聖人が最も信頼を寄せていた弟子の一人で、同氏宛てに20通以上のお手紙が残されています。

本名は四条頼基(よりもと、四条中務三郎左衛門尉頼基)。

武士。官位が左衛門尉で、左衛門尉の唐名が金吾と称されたので四条金吾という。

大聖人が立宗宣言した建長5年(1253年)頃に門下となる。

池上宗仲・富木常忍等と並んで信心強盛。

五大部の『開目抄』は佐渡島から鎌倉の頼基の許へ宛てられたもの。

承久3年(1221年)の承久の乱後、父・四条頼員の代から北条氏一族の名越朝時[なごえともとき]・光時(江間光時)父子に執事として仕え、名越氏が信濃国伊賀良荘の地頭となると代官として赴任。

 

主君・江間氏

北条氏の有力な一族。第2代執権の北条義時の子・名越朝時の長男が江間光時[えまみつとき]。この光時の一族をいう。四条金吾は、金吾の父と2代にわたって、この江間氏に仕えていた。朝時が鎌倉・名越に住んでいたことから、この一門は名越氏と呼ばれていた。また、北条時頼が執権に就任して間もなくして、光時は謀反疑惑をかけられ伊豆国の江間に流され幽閉されたことから、江間氏と呼ばれる。

 

此経難持御書四条金吾殿御返事)文永12年(1275年)3月

日蓮大聖人が佐渡から帰り身延入りした文永11年(1974年)9月、金吾は主君・江間氏を折伏します。しかし、主君は極楽寺良観を信奉しており金吾を遠ざけます。そして、それにつけ込んだ同僚たちが金吾を迫害するようになります。金吾は「法華経を持つ者は『現世安穏・後生善処』――現世は安穏であり、後生は善き処に生まれる――と聞き、言われた通り信心に励んできたが、大難が雨の降るように次々と起こっています」という戸惑いを、大聖人の弟子に語ったようです。弟子からその報告を聞き、心配された大聖人が金吾に認められたのがこのお手紙です。本抄の冒頭に「此経難持の事」とあります。此経難持とは、「此の経は持ち難し」と読み、法華経見宝塔品第11に説かれる一節です。仏の滅後悪世に、法華経受持することがいかに困難であるかを示しています。

 

大聖人は法華経の「難信難解」の文を引き、「大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持(たも)つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、『則為疾得・無上仏道』は疑なし」と、法華経を受けることはやさしいが、持ち続けることは難しい。成仏は持(たも)つことにあり。大難が起こることを知りなさい。そして見宝塔品第11より「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」とご指導されます。

 

これは観心本尊抄で「受持即観心」、すなわち「末法の凡夫が成仏するための観心の修行は、南無妙法蓮華経の御本尊を受持すること」と示されているところでもあり、受持し「持(たも)つ」とは、日々の精進、継続的な努力があってはじめて維持できるという意味です。「進まざるは退転」との有名な文がありますが、退転さえしなければ持っていることになる、のではないのです。行学の習慣を持ち続けるのは簡単なことではありませんが、向上の中に楽しさを見出していくことが大事かなと思います。

 

文永8年(1271年)の龍ノ口法難では同行して嘆くが反対に激励されてしまいます。

有名なシーンです。

 

晩年には、信心を貫いた甲斐あって主君の信頼を得て、甲斐国内船(現在の山梨県南巨摩郡南部町)の地を与えられ、同地に内船寺を、身延山内に端場坊(はばのぼう)を建立しました。屋敷跡は収玄寺となっています。

 

福士川渓谷(南巨摩郡南部町)にある七ツ釜五段の滝

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七ツ釜五段の滝(福士川渓谷)

 

なんと小説とコミックもあります。ぜひ手に入れて読んでみたいです。

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「小説 四条金吾」「コミック 四条金吾

2.16 日蓮大聖人御生誕800年

日蓮大聖人は、1222年(承久4年)2月16日に安房の国小湊(現千葉県鴨川市)に誕生されました。数えで800年となります。

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『六十余州名所図会』安房 小湊 内浦 歌川広重

日蓮大聖人は清澄寺比叡山などで仏法を修学し、あらゆる諸経典の中で法華経こそが最勝であると確信されます。

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妙法蓮華経 板木(千葉県)

 そして末法の民衆のために法華経の肝心である南無妙法蓮華経曼陀羅御本尊として顕され、これによって一切衆生の成仏のための法が明かされました。

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御本尊御図顕

そして鎌倉時代からおよそ800年の時を経て、仏意仏勅の使命を担う創価学会が三代の会長を中心に、わずか100年足らずで世界192か国地域へと広宣流布しました。

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日蓮仏法を192か国地域に広宣流布

 

日蓮大聖人によって、二十八品の法華経が御本尊として顕されなければ、決して民衆のための仏法となることはなかったでしょう。

そしてまた創価学会の歴代会長が出現していなかったならば、現実に日蓮仏法が世界へと広がることはなかったはずです。
この師弟の魂が繋いだ広宣流布の今日の実像を、御本仏日蓮大聖人は心からお喜びになり、讃嘆されているに違いありません。