「ただの一日足りとも 何ものをも素描せずに過ごしてはならない」チェンニーニ

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「芸術の書」チェンニーニ

チェンニーニは、15世紀前半のイタリア・トスカナ地方の画家です。
確証ある彼の作品は1点もないそうですが、
『芸術の書』 Il Libro dell'Arte  の著者として知られ、
芸術の基本は素描と色彩にあると述べています。

ルネサンス以降、多くの画家が素描の重要性について論じています。
アルベルティは、絵画の三要素は〈輪郭、構図、彩光(明暗)〉であるとし、
この三要素のうちもっとも基本的なことは、〈空間と物体の境界〉
としての〈線〉であるとしています。


このようなデッサン力の習得には日々の地道な鍛錬と自然の造形を
観察することが重要であるといいます。
今回は、そんな芸術論を書いたチェンニーニの言葉をご紹介します。

「芸術の基礎とすべての手工の発端とは素描と色彩の上に建てられる」


「まず線描によって始めねばならぬ」


「私たちが持ちうる最も完璧な案内人、最優の指導、素描に導く凱旋門
それは自然であることに留意せよ。
何よりも前に自然によって素描することが大切である。
すべからく熱意と信頼とをもって自然に身を献げよ…断じて、ただの一日足りとも
何ものかを素描せずに過ごしてはいけない」


「技法を修得するのに必要な年数を、まず知っておかねばならない。
最初にパネルを使ってデッサンの初歩を学ぶのに一年を要する。
師の工房に寝起きして、顔料を砕くことから始めて、膠を煮ること、
石膏を捏ねること、パネルの地塗り、肉付け、盛り上げ、磨くこと、
金箔を置くこと、金地に粒点をほどこすことまで、
絵画に関するあらゆる製法、技法に精通するには6年を要する。
ついで、顔料を研究し、媒材を使って彩色し、装飾すること、
豊かに波打つドラペリー(衣裳の襞)を金で表すこと、
壁画に習熟することにさらに6年を要する。
その間、デッサンを常に心掛け、祭日平日の別なく、毎日毎日、
デッサンを怠ってはいけない。
こうして多大の修練を積むことによってこそ天性も立派に結実するのである。
これ以外にはいかなる道を君が選ぼうと完成は望めまい」
「芸術の書」より

 

現在のような絵の具がなかった時代は制作準備から大変だったのですね。
さまざまな製法や技法を身につけるのには月日が必要なのはもちろんで、
その合間にも自然を観察し、デッサンを磨くことを怠ってはならないと。
私も決意を新たにし、日々デッサン力の向上に精進したいと思います!

藍より青し~法華経の師弟の精神

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藍の花(インディゴ)は青色の染料となる植物ですが、
その葉をしぼった染色液は、鮮明な青色ではありません。
ところが、何度も重ねて染めていけば色が段々深まって、
濃く鮮やかな青色になります。

翻って仏教においては、修行を重ねて信心をより堅固にし、
福徳を現していくことの譬えであり、
また師は弟子を自身以上に成長させようとする存在であり、
弟子もまた師を越えていこうと努力することをいいます。
この精神は数ある仏典の中で最第一とされる法華経に通じるものです。

しかし古い仏教観だと歴史上の人物である釈尊のみが仏です。
それ以外の人は仏にはなれず阿羅漢を目指します。
ですので仏教を論じる際、ともすればある仏教観や思想について、
それを「釈尊が言った、言わない」といった思考に陥る場合があります。

しかし法華経では「如我等無異」といって、
(「我が如く等しくして異なること無からしめん」と読みます)
法華経方便品第2において、
釈尊が長遠の過去に立てた誓願に、
仏である自身と等しい境地に衆生を導くこと、とあるのです。
同品では、一大事因縁とって仏がこの世に出生した目的は、
一切衆生の仏知見を開かしめるためである、と明確に述べています。
つまり、一切衆生には仏性が備わっており、仏が弟子である衆生らを
自身と同等の境涯にしようという誓願によって、師である仏もまた
自身を仏たらしめているといえるのです。

ちなみに釈尊が実際にどのような言葉を残したのかについては、
厳密な意味では断定することは不可能と言われています。
原始仏典も釈尊入滅後、第一結集から文字化、聖典化するまで
数百年の時を要しており、その間は記憶と口伝のみで伝えられていたので、
そこには少なからず記憶違いや、誤解、主観の介在があると考えられるからです。
実際に滅後、100年には戒律をめぐる解釈で分かれ、根本分裂が起き、
その後、多くの部派仏教に分派していっています。
中国では、孔子の「論語」等の四書もこれと同じような経緯をたどっており、
全て本人ではなく後代の弟子たちが編纂してまとめた思想です。

このようなことを考えますと、仏法とはそもそもいかなるものであるのか。
その本質、内容、そして現代に生きる我々にとっていかなる意味があるのか
という観点から仏や仏法のなんたるかを捉え直していく必要がでてきます。

ではこの話はまたの機会にして、
「従藍而青」や「藍より青し」の由来となっているのは中国の古代思想です。
従藍而青」とは天台大師の「摩訶止観」にある言葉で、
荀子の「青は藍より出でて藍より青し」という意味です。

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孟子(左)、荀子(中)、天台大師(右)

孟子荀子孔子の弟子にあたる儒家の思想家(諸子百家)ですが、
二人の思想は対極的でした。
孟子が「性善説」を説き、人が仁義礼智を生来的に備えているという
理想主義であるのに対し、
荀子は「性悪説」を説き、人は先天的には弱く利己的な存在であり、
後天的に教育しなければ、善い人間にはならないというリアリストです。

孟子の有名な譬えには「五十歩百歩」があります。
また王者は自らの徳によって仁政を行い民から慕われるのに対し、
覇者は武力による恐怖政治を行うと説明しました。

一方、荀子は「青は藍より出でて藍より青し」や
蓬(よもぎ)も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し」 (麻中之蓬
という言葉が有名で、日蓮大聖人も「蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」と
この故事に由来する言葉を残しています。

二人は対極的な思想の持ち主ではありましたが、師である孔子が説いた
世の乱れは統治者の資質つまり「」に原因があるという思想を継承発展し、
儒教の普及に貢献しました。
仏法からみれば、人間は善性も悪性も同時に備えており、機縁に依って
善くも悪くもなるものといえます。例えば、善縁となる人を善知識と呼び、
悪縁となる人を悪知識といいます。
また日蓮大聖人は、世の乱れは法華経ではなく誤った法を用いていることに
根本原因があるとして、時の権力者に立正安国論を提出しました。

云く、「よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し、
国土の大難をも払ふべき者なり
このように、よき師、よき教え・法に巡り合うことで人生が大きく変わり、
ひいては、一国の命運も変えていくことができると仰せになっています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

旅路の風景展(東京富士美術館)北斎、広重、吉田博、川瀬巴水 4/2-6/5

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北斎と広重は皆さんよく知ってるかと思いますが、吉田博、川瀬巴水はあまり知られてないのではないでしょうか。19世紀生まれの日本画家とは思えないほど、現代の感覚に近いきれいな絵です。東京富士美術館で開催されるそうです。

それぞれの代表作や私好みの絵をピックアップしてみました。
こちらで紹介する絵は、美術館で展示される作品ではありませんのでご了承くださいませ。

葛飾北斎

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代表作「冨嶽三十六景」 神奈川沖浪裏

北斎は、江戸時代後半の化政文化を代表する浮世絵師で生涯に3万点の絵を描き残しています。(凄い!)
代表作は「富嶽三十六景」や「北斎漫画」など。
ゴッホにも影響を与え、北斎を模写した絵があります。
弟子が200人くらいいたそうです。
アメリカの雑誌「ライフ」には、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」
に唯一日本人としてランクインした人物です。(えー)

何度も改名してますが、「北斎」の由来は、北極星と北斗七星を神格化した日蓮宗系の
北辰妙見菩薩信仰だそうです。(へー、知りませんでした!)

※古代中国では、星が巡回する中心の北極星が宇宙(紫微垣、しびえん)の中心であり、
道教最高神「玉皇大帝」は、この紫微宮に住むと考えられていました。(北極紫微大帝

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また北斗七星も「死」を司る星であり、死んだ人間の生前の行いを調べて、
地獄での行き先を決定する
閻魔大王のような役目を持つと考えられていました。
この北極星と北斗七星が習合し、
さらに星を仏教における妙見菩薩に見立てた妙見信仰が生まれたのだそうです。
北斎法華経を信仰していたらしく、以下のような日蓮の絵も描き残しています。

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日蓮像「七面大明神応現図」 
うーん、物々しい世界観が凄いですね。


引っ越しもよくしたそうで、93回とあります。今では考えられないですね。
ちなみに私も引っ越しする夢をたまに見るのですが、
たぶん
引っ越し願望があるのでしょう。


90歳まで長生きし最後まで画力の向上に努めたようです。
最後の言葉は、

『天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう』
と、生きているうちに一枚でも多くの絵を描きたいという意気込みが伝わります。
また「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」といい、
接骨家に弟子入りして解剖学を学び、人体の描写に心を砕いたそうです。
ミケランジェロダヴィンチもそうでした。
死に際まで描き続けるこの情熱は私も見習いたいものです。
絵は何歳になっても描き続けられますから。趣味としてもお薦めですね。

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「富士越龍図」
死の3ヶ月ほど前の作品で、絶筆(最後の作品)とされます。
富士山を越えていく龍の絵が描かれています。
晩年の巨匠のごとき熟練を感じさせます。

酒や煙草は嗜まなかったそうです。
私はビールとウイスキーをたまに飲みます。タバコは喉が痛くてやめました。


金銭には無頓着であり、精力的に仕事をしていたわりに赤貧だったそうです。

米屋が請求に来ると包のまま金銭を投げて渡したそうです。
全然関係ないですが、、
私が以前勤めていた会社の社長も、札束の入った給料を一人ひとり名前を呼び、
円盤投げして渡してました。(大体、机でバウンドして床に落ちます。笑)

歩合給の仕事だったので50~100万円くらいの厚さの人もいました。
投げられたら皆大声で「あざーす!」
あんな渡し方をされたのは後にも先にも二度とないでしょう。


北斎は行儀作法を好まず、大変そっけない返事や態度をとる人物だったそうです。

人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけ答え、
世間話もしなかったらしいです。
武士に呼び出されても何度も無視し、トラブルになってます。
画家って大体、偏屈な気性の人多いですね。ターナーとかゴッホとかピカソとか。

春画も描いてます。こちらは有名な「蛸と海女」

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「蛸と海女」
うーん、
なまじ人間よりも興奮しますね。もはや天才としかいいようがないです。
Googleで検索したらたくさんのパロディがつくられていますので、見て楽しんでみて下さい。


それでは今日はところはこの辺りまで、、
広重以下の続きはまた今度時間がある時に更新します。

天才軍師 楠木正成(大楠公)

NHK ザ・プロファイラーなどを参照しながら楠木正成についてまとめたいと思います。

楠木正成
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楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
日本史上最大の軍事的天才、後醍醐天皇の忠臣。
後醍醐天皇による倒幕の命を受け挙兵し、鎌倉幕府を滅亡させた人物の一人です。
湊川の戦い足利尊氏に敗れ、自害するまで天皇への忠義を貫きました。
湊川神社主祭神であり、関西では大楠公として知られます。
智某に長け、忠義に厚く、情に厚い人物だったようです。


■鎌倉武士の不満

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鎌倉武士は2度に渡る元寇を命がけで撃退したにも関わらず、
恩賞もなく、
各地で不満を募らせていました。
また「太平記」によると、執権・北条高時は政治を顧みず闘犬や田楽などの
遊びにふける暴君であり、その側近も無能で腐敗しており、
相次ぐ暴動を強権的な支配で抑え込んだために民衆は不満を募らせていました。
後醍醐天皇が倒幕を企てたのには、このような背景がありました。


後醍醐天皇の倒幕計画

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1324年に最初の倒幕計画を疑われています。
このとき関係者が討たれ、腹心の公家が流刑となりました。

しかし後醍醐帝は幕府が処分に及び腰であったため赦免されています。
1331年、再び倒幕を企てるが密告され、脱出と挙兵を試み比叡山笠置山に籠城します。
元弘の乱
しかし圧倒的兵力の幕府軍六波羅探題)に捉えられ(1332、笠置山の戦い)
ついに隠岐島へ流されます。

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1221年の承久の乱後鳥羽上皇が倒幕し、隠岐に流されたことが先例となっています。

4、後醍醐天皇の夢(1331)

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六波羅探題に捕らえられる前、笠置山に立て籠もっていた後醍醐天皇は、
「南向きに枝が伸びた大きな木の下に玉座があり、
童子後醍醐天皇のための席だと言って消えてしまう」・・・という夢を見ます。
不思議に思った後醍醐天皇は、夢のお告げは“木”と“南”つまり“楠木”を意味していると重視し、
寺の僧侶から楠木正成のことを教えられ、笠置山に呼びます。
このとき正成は、後醍醐天皇に忠誠を誓い、
「合戦の一時の勝ち負けを重視なさらず、たとえ敗けても
この正成が生きている限り天皇のご運は必ず開くと思っていただきたい」と述べます。


赤坂城の戦い 1331年

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後醍醐天皇笠置山で捕らえられた一方で、正成は赤坂城の戦いで奮戦し、
一度は自ら城に火を放ち、湯浅軍に城を明け渡すも兵糧を襲うなど智謀を廻らし、
一戦も交えることなく奪還します。
そして降伏した湯浅氏を引き入れて一大勢力となり和泉・河内を制圧。
その後、幕府軍が攻めてくるが農民に狼煙をもたせて兵力を誇示するなど、
策をめぐらし撤退させます。
正成いわく、
“優れた武将は戦わずして勝つ”とのこと。

千早城の戦い 1333年

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正成の戦の中で最も有名であり、その名を轟かせた戦いです。
(正成軍)1000×25000(幕軍) 
圧倒的兵力差を前に、正成は自らが築城した絶壁の要塞(千早城)に籠城し、

ゲリラ戦を展開します。上り詰めようとする幕府軍を山の上から落石するなどして撃退します。
手をこまねいた幕府軍は、兵糧攻めに切り替え、持久戦で正成を追い詰めようとします。
しかし正成はそれを見越して、たくさんの水桶を備えたり、金剛山の水脈から水を汲んだり、
抜け道を利用して、逆に幕府軍の兵糧を襲い補給を断つという作戦にも成功します。

そしてなんと3ヶ月間も、幕府は大軍を送り込みながらわずか1000人の城を落とせず撤退するのです。
この噂が諸国を駆け巡り、幕府の権威を失墜ます。
これを契機に、

足利尊氏は京都で反旗を翻し、六波羅探題を攻略。
新田義貞は鎌倉を攻め落とし、ついに鎌倉幕府は滅亡します。

■正成、慰霊碑を建てる
この時、正成は先の戦で討ち死にした兵のために敵・味方両方の慰霊碑を建立しています。
こんなことからも人情に厚そうな人柄が偲ばれますね。

建武の新政 1334

後醍醐天皇は綸旨(天皇の命令書、勅書)を多発し、権威回復のため内裏を造影。
従来より重い年貢、労役は民衆は失望し
ていきます。
元弘の乱で挙兵した後醍醐天皇ですが、公家への恩賞は厚いのに対し、
武士たちへの恩賞はわずかであったために、武士たちの不満は再び募っていくのです。
正成も失望していきますが、この後も後醍醐帝の側につき、尊氏の反乱を迎え撃つことになります。

楠木正成が書写した法華経 大楠公御真筆「法華経奥書」(湊川神社

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楠公はかつて「逆徒平定・天下安泰」と祈願していたところ、
建武中興の宿願が達成されました。
その御恩に報いるために法華経を写経し、
巻末に願意を記しています。
(戦死する半年ほど前の日付、河内守橘朝臣正成)
以前にも紹介しましたが、武運を祈ってか、法華経を写経した武将は意外に多いですね。

足利尊氏の反旗

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正成は反旗を翻した尊氏を追い詰めますが、あえてとどめを刺さず尊氏は九州へ落ち延びます。
この時、不思議な光景を見たといいます。
敗走する尊氏に、なんと味方の武士たちが加わっていったというのです。
このことで正成は後醍醐天皇にこのように言います。
天皇の武士でさえ尊氏について行ってしまいました。
これを見て天皇の徳のなさを思い知ってください」
辛辣ですね。正成の心情としては尊氏を政権内に留めていたかったようです。

湊川の戦い 1336年
正成は朝廷に、武士たちの尊敬を集める尊氏を味方に付ける必要があると訴えました。
そうすれば政権を維持できると。しかし進言は受け入れられず、
尊氏が圧倒的兵力で京都へ進軍してくると、後醍醐天皇は正成に
新田軍とともに迎え撃つように命令します。
戦を知り尽くしている正成は「それでは勝てない」といい、
一度尊氏軍を京都へ引き入れてから兵糧攻めにし、
南北から挟み撃ちにする、という戦略を提案します。
しかし側近がこれを反対し却下されます。その側近はこのようにいいます。
これまでも大軍を退けてきたのは戦略が優れていたからではなく、
天皇のご運が天命にかなっているからである」と。
そして正成はこういいます。
この上は異論を申すまでもありません、天皇は大敵を打ち破る策を立て
勝ち戦に導くというお考えではなく、討ち死にせよとのご命令なのですね
こうして正成は、死を覚悟して足利尊氏との湊川の決戦に臨みます。

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上の絵図は出兵前の「桜井の別れ」というシーンで、正成と息子・正行が決別するシーンです。
ともに戦いたいという正行(まさつら)に父・正成は地元河内に帰るようにいいます。
一族の誰でも生き残っている間は、命を投げ出して戦い、後代に名誉を残しなさい。
 
それがお前にできる親孝行だ。

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湊川の戦い

尊氏は、予想通り西国の武士たちを軍勢に率いて上京してきます。
その数 尊氏35,000×正成700
圧倒的多数の尊氏軍と一騎打ちとなり、戦いは6時間に及び、正成は敗れ民家に逃げ込みます。
そしてこの時、戦いをともにした兄弟で来世を誓います。
「7度生まれ変わっても同じ人間に生まれ朝敵を滅ぼしたい」と。
正成はここで自害して果てたのでした。

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横山大観筆「大楠公像」

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楠公騎馬像(湊川神社

南北朝時代の始まり
正成の死後、後醍醐天皇は奈良の吉野へ逃れます。
一方で尊氏は京都で別の天皇を擁立。南北朝時代へ)
1339年、後醍醐天皇崩御したとき、南朝のために力を尽くした武将が正成の子・正行でした。

室町幕府の成立 1338年8月11日 
足利尊氏征夷大将軍となる

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