NHK ザ・プロファイラーなどを参照しながら楠木正成についてまとめたいと思います。
■楠木正成
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
日本史上最大の軍事的天才、後醍醐天皇の忠臣。
後醍醐天皇による倒幕の命を受け挙兵し、鎌倉幕府を滅亡させた人物の一人です。
湊川の戦いで足利尊氏に敗れ、自害するまで天皇への忠義を貫きました。
湊川神社の主祭神であり、関西では大楠公として知られます。
智某に長け、忠義に厚く、情に厚い人物だったようです。
■鎌倉武士の不満
鎌倉武士は2度に渡る元寇を命がけで撃退したにも関わらず、
恩賞もなく、各地で不満を募らせていました。
また「太平記」によると、執権・北条高時は政治を顧みず闘犬や田楽などの
遊びにふける暴君であり、その側近も無能で腐敗しており、
相次ぐ暴動を強権的な支配で抑え込んだために民衆は不満を募らせていました。
後醍醐天皇が倒幕を企てたのには、このような背景がありました。
■後醍醐天皇の倒幕計画
1324年に最初の倒幕計画を疑われています。
このとき関係者が討たれ、腹心の公家が流刑となりました。
しかし後醍醐帝は幕府が処分に及び腰であったため赦免されています。
1331年、再び倒幕を企てるが密告され、脱出と挙兵を試み比叡山~笠置山に籠城します。
(元弘の乱)
しかし圧倒的兵力の幕府軍(六波羅探題)に捉えられ(1332、笠置山の戦い)
ついに隠岐島へ流されます。
1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が倒幕し、隠岐に流されたことが先例となっています。
4、後醍醐天皇の夢(1331)
六波羅探題に捕らえられる前、笠置山に立て籠もっていた後醍醐天皇は、
「南向きに枝が伸びた大きな木の下に玉座があり、
童子が後醍醐天皇のための席だと言って消えてしまう」・・・という夢を見ます。
不思議に思った後醍醐天皇は、夢のお告げは“木”と“南”つまり“楠木”を意味していると重視し、
寺の僧侶から楠木正成のことを教えられ、笠置山に呼びます。
このとき正成は、後醍醐天皇に忠誠を誓い、
「合戦の一時の勝ち負けを重視なさらず、たとえ敗けても
この正成が生きている限り天皇のご運は必ず開くと思っていただきたい」と述べます。
■赤坂城の戦い 1331年
後醍醐天皇が笠置山で捕らえられた一方で、正成は赤坂城の戦いで奮戦し、
一度は自ら城に火を放ち、湯浅軍に城を明け渡すも兵糧を襲うなど智謀を廻らし、
一戦も交えることなく奪還します。
そして降伏した湯浅氏を引き入れて一大勢力となり和泉・河内を制圧。
その後、幕府軍が攻めてくるが農民に狼煙をもたせて兵力を誇示するなど、
策をめぐらし撤退させます。
正成いわく、“優れた武将は戦わずして勝つ”とのこと。
■千早城の戦い 1333年
正成の戦の中で最も有名であり、その名を轟かせた戦いです。
(正成軍)1000×25000(幕軍)
圧倒的兵力差を前に、正成は自らが築城した絶壁の要塞(千早城)に籠城し、
ゲリラ戦を展開します。上り詰めようとする幕府軍を山の上から落石するなどして撃退します。
手をこまねいた幕府軍は、兵糧攻めに切り替え、持久戦で正成を追い詰めようとします。
しかし正成はそれを見越して、たくさんの水桶を備えたり、金剛山の水脈から水を汲んだり、
抜け道を利用して、逆に幕府軍の兵糧を襲い補給を断つという作戦にも成功します。
そしてなんと3ヶ月間も、幕府は大軍を送り込みながらわずか1000人の城を落とせず撤退するのです。
この噂が諸国を駆け巡り、幕府の権威を失墜します。
これを契機に、
足利尊氏は京都で反旗を翻し、六波羅探題を攻略。
新田義貞は鎌倉を攻め落とし、ついに鎌倉幕府は滅亡します。
■正成、慰霊碑を建てる
この時、正成は先の戦で討ち死にした兵のために敵・味方両方の慰霊碑を建立しています。
こんなことからも人情に厚そうな人柄が偲ばれますね。
■建武の新政 1334
後醍醐天皇は綸旨(天皇の命令書、勅書)を多発し、権威回復のため内裏を造影。
従来より重い年貢、労役は民衆は失望していきます。
元弘の乱で挙兵した後醍醐天皇ですが、公家への恩賞は厚いのに対し、
武士たちへの恩賞はわずかであったために、武士たちの不満は再び募っていくのです。
正成も失望していきますが、この後も後醍醐帝の側につき、尊氏の反乱を迎え撃つことになります。
■楠木正成が書写した法華経 大楠公御真筆「法華経奥書」(湊川神社)
大楠公はかつて「逆徒平定・天下安泰」と祈願していたところ、
建武中興の宿願が達成されました。
その御恩に報いるために法華経を写経し、巻末に願意を記しています。
(戦死する半年ほど前の日付、河内守橘朝臣正成)
以前にも紹介しましたが、武運を祈ってか、法華経を写経した武将は意外に多いですね。
■足利尊氏の反旗
正成は反旗を翻した尊氏を追い詰めますが、あえてとどめを刺さず尊氏は九州へ落ち延びます。
この時、不思議な光景を見たといいます。
敗走する尊氏に、なんと味方の武士たちが加わっていったというのです。
このことで正成は後醍醐天皇にこのように言います。
「天皇の武士でさえ尊氏について行ってしまいました。
これを見て天皇の徳のなさを思い知ってください」
辛辣ですね。正成の心情としては尊氏を政権内に留めていたかったようです。
■湊川の戦い 1336年
正成は朝廷に、武士たちの尊敬を集める尊氏を味方に付ける必要があると訴えました。
そうすれば政権を維持できると。しかし進言は受け入れられず、
尊氏が圧倒的兵力で京都へ進軍してくると、後醍醐天皇は正成に
新田軍とともに迎え撃つように命令します。
戦を知り尽くしている正成は「それでは勝てない」といい、
一度尊氏軍を京都へ引き入れてから兵糧攻めにし、
南北から挟み撃ちにする、という戦略を提案します。
しかし側近がこれを反対し却下されます。その側近はこのようにいいます。
「これまでも大軍を退けてきたのは戦略が優れていたからではなく、
天皇のご運が天命にかなっているからである」と。
そして正成はこういいます。
「この上は異論を申すまでもありません、天皇は大敵を打ち破る策を立て
勝ち戦に導くというお考えではなく、討ち死にせよとのご命令なのですね」
こうして正成は、死を覚悟して足利尊氏との湊川の決戦に臨みます。
上の絵図は出兵前の「桜井の別れ」というシーンで、正成と息子・正行が決別するシーンです。
ともに戦いたいという正行(まさつら)に父・正成は地元河内に帰るようにいいます。
「一族の誰でも生き残っている間は、命を投げ出して戦い、後代に名誉を残しなさい。
それがお前にできる親孝行だ。」
湊川の戦い
尊氏は、予想通り西国の武士たちを軍勢に率いて上京してきます。
その数 尊氏35,000×正成700
圧倒的多数の尊氏軍と一騎打ちとなり、戦いは6時間に及び、正成は敗れ民家に逃げ込みます。
そしてこの時、戦いをともにした兄弟で来世を誓います。
「7度生まれ変わっても同じ人間に生まれ朝敵を滅ぼしたい」と。
正成はここで自害して果てたのでした。
横山大観筆「大楠公像」
大楠公騎馬像(湊川神社)
■南北朝時代の始まり
正成の死後、後醍醐天皇は奈良の吉野へ逃れます。
一方で尊氏は京都で別の天皇を擁立。(南北朝時代へ)
1339年、後醍醐天皇が崩御したとき、南朝のために力を尽くした武将が正成の子・正行でした。
■室町幕府の成立 1338年8月11日
足利尊氏が征夷大将軍となる