キューバの歴史(コロンブスからキューバ危機まで)

「新・人間革命第7巻 文化の華の章」を参照しながらまとめてみました。


キューバの歴史
(スペインの植民地時代)
1492年 コロンブスキューバ上陸
   コロンブスはインドに到着したと思い、現地人をインディオと呼ぶ。

1511年 スペインに征服される 
 現地住民は、抵抗しては虐殺、虐待に遭い強制労働させられた。多くは疫病で絶滅。
 16世紀以降の大西洋間奴隷貿易で100万人以上の奴隷がスペイン人につれてこられ、
    サトウキビやコーヒーの農園で働かされ、家族は引き裂かれた。

1791年~ ハイチ革命・建国 
 同じカリブ海の東に位置しフランス植民地にあったハイチが独立革命を起こし成功。
 アフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命といわれる。

19世紀初頭 南米でシモン・ボリバルらによる独立革命
 南米各国で相次ぎ、キューバはスペインの最後の植民地となる。

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1868年 キューバで最初の独立戦争(日本では明治維新の年)
 抵抗運動とスペインによる過酷な弾圧が繰り返され、自由を求める民衆の抵抗は勢いを増す。

1895年 第二次キューバ独立戦争
    詩人であり、「独立の父」といわれるホセ・マルティが主導。
   16歳で独立運動に身を投じ、ニューヨークでキューバ革命党を設立。

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1898年、米西戦争
   スペインが敗戦し、キューバアメリカの軍政下に入る

1902年 キューバ独立(しかし1934年まで事実上アメリカの保護国に)
 その後も新米政権が続きアメリカの影響下にあった。

(以下、新・人間革命からの引用)
いわば、アメリカの絶大な干渉下での独立であり、独立後も、アメリカ資本による経済的支配は一段と進んでいった。キューバの国内産業は砂糖一品目に依存させられ、国民の大半はサトウキビ畑での重労働に従事するしかなかった。しかも、一方で日用品をはじめ、あらゆる製品はアメリカから買うように仕向けられていた。アメリカが、キューバ独立戦争に介入し、スペインと戦った時には、キューバに自由をもたらそうとの思いもあったであろう。しかし、その後のキューバは、事実上、不幸にしてアメリカの″半植民地″になってしまったといえる。そうなれば、貧困を強いられたキューバの民衆のアメリカへの感情は、当然、否定的なものとならざるを得ない。そうしたなかで、第二次世界大戦後の一九五二年、軍人出身の元大統領バティスタがクーデターで政権を奪取した。彼は、約七年にわたって私腹を肥やし、国民を圧迫。腐敗した独裁者として君臨したのである。

1959年 キューバ革命フィデル・カストロ
 カストロが手動したこの革命により、キューバソ連の影響下にある
社会主義国に転換。
 従来の政党は解散させられ、キューバ共産党による一党独裁体制が始まる。

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(以下、引用)
その悪名高き独裁を覆したのが、フィデル・カストロを指導者とした″キューバ革命″であった。一九五九年の元日、独裁者のバティスタは、国外へ逃亡し、民衆の歓呼に迎えられて、革命軍は首都ハバナに凱旋したのである。この時、カストロは満三十二歳。新生キューバの若き獅子であった。バティスタの革命運動に身を投じて、足掛け七年。武装蜂起、投獄、亡命、そして、山中でのゲリラ戦と、生死の境を超えて民衆の支持を勝ち取り、独裁者を追放した、筋金入りの革命家であった。キューバの革命政府は、当初、穏健派を主要閣僚に据えるなど、社会主義革命を前面に押し出していたわけではなかった。当時、アイゼンハワーが大統領の地位にあったアメリカも、ほどなく新政府を承認した。しかし、二月にカストロが首相になると、労働者や農民を主体とする″人民革命″の色彩を強めていく。国民の間に生じていた、極端な貧富の差を是正するには、そうせざるを得なかったのであろう。たとえば、五月には、農業改革法を定め、大土地の接収に踏み切っている。また、一九六〇年、キューバが輸入したソ連産の原油の精製を、アメリカ資本の石油会社(三社)が拒否したため、彼は石油の精製を国有化した。これらがキューバアメリカの関係を、決定的に悪化させたのである。アメリカは、対抗措置として、キューバの砂糖の輸入を大幅に削減。その後、アメリカ製品のほぼ全面的な禁輸を決めるなど、経済封鎖によるキューバの孤立化を推し進めた。キューバは、砂糖が輸出できなければ食べてはいけない。その時、手を差し伸べたのがソ連であった。当然、キューバソ連との関係を深めていった。


1961年 アメリカとの関係が途絶

キューバ社会主義は急速に進み、大企業と土地の国有化が推進された。一説では、一九六〇年の末までに、キューバでは、約十億ドルのアメリカ資本が国有化されたという。こうしてキューバアメリカの関係は、悪化の一途をたどり、翌六一年の一月三日には、アメリカはキューバとの国交を断絶したのである。1月20日に、ケネディが第三十五代の大統領に就任した時、既に両国の対立は、抜き差しならぬ状態になっていたといってよい。それは、早くも、その年の四月十七日に、″キューバ侵攻事件″として表面化することになる。これは亡命キューバ人の部隊が、キューバに上陸し、攻略しようとした事件であったが、その計画や実行には、アメリカのCIA(中央情報局)が深く関与していたのである。当時、アメリカの首脳にもたらされていた情報によれば、ひとたび、亡命キューバ人部隊が上陸すれば、国内にいる反カストロ勢力が立ち上がり、政府はあえなく転覆するだろうと伝えられていたという。ところが、事実は反対であった。亡命キューバ人の部隊は、キューバ民兵に、わずか三日間で撃退され、しかも、反カストロ勢力が蜂起するどころか、ますます、キューバ国民を団結させることになってしまったのである。この事件により、ケネディは、内外から激しい非難を浴びることになる。ケネディは、大統領選に出馬する直前、カストロのことを、南米解放の父シモン・ボリバルの「思想的後継者の一人」と位置づけていた。また、キューバをはじめラテン・アメリカ諸国が抱えている重荷や、革命にかける人びとの希望についても、努めて柔軟に理解しようとしていた。そのケネディが、前政権の″置き土産″とはいえ、キューバ侵攻の計画を認めてしまったのは、歴史の皮肉といえようか。一方、カストロは、このころ、「キューバ革命社会主義革命である」と宣言するに至った。キューバにとって、アメリカは強大な「北の巨人」であった。侵攻事件は、そのアメリカが、いつ攻めて来るかもしれないという、強い危機感を募らせた。それが、キューバソ連への接近に、一段と拍車をかけることにもなった。


1962年 キューバ危機
   ソ連の中距離ミサイルが持ち込まれ、アメリカが海上封鎖・武器を積んだソ連船を臨検。

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(以下、引用)

キューバに、ソ連の中距離ミサイルが設置され、使用可能になれば、首都ワシントンやニューヨークなど米本土の中心都市が攻撃の射程に入ることになる。米首脳の間では、大激論が交わされた。ケネディ大統領の発表を聞いたアメリカ国民の間には、核戦争前夜のような緊迫感が高まった。いや、アメリカのみならず、核戦争の脅威が世界を包んだのである。ところで、この事件の背景には、一つには、いうまでもなく、米ソ両大国の″冷戦″の問題があった。米ソ両国は、第二次世界大戦後、熾烈な核軍拡競争を繰り広げてきた。一九四五年にアメリカが最初に原爆をつくると、後を追うように、ソ連も四年後に原爆を保有し、アメリカが一九五二年に水爆実験に成功すれば、ソ連も翌年には水爆を完成させたところが、一九五七年になると、ソ連大陸間弾道ミサイルICBM)を開発し、更に、世界初の人工衛星スプートニク一号、二号の打ち上げに成功する。それは、ソ連が、核ミサイルを、直接、アメリカまで飛ばせる技術をもつに至ったことを意味していた。当初、アメリカが先行してきた核軍拡競争であったが、にわかに、ソ連が軍事的に優位にあることを示したのである。アメリカの衝撃は大きかった。また、危機感も生じた。ソ連の方も、ことあるごとに、核ミサイルの威力を宣伝し、誇示した。

キューバへのミサイルの配備に、アメリカとしていかに対処すべきか――それには、決して、模範解答があるわけではなかった。暗闇のなかでの、手探りに等しい協議であった。ある者は、直ちにキューバを空襲し、ミサイル基地が使用可能になる前に、徹底的に破壊すべきだと主張した。すると、別の首脳は、それは際限のない報復合戦となり、結局、全面核戦争という最悪の事態になってしまうと反論した。政治的な交渉であたるべきだとする者や、当面は、静観すべきだという少数意見もあった。相手のあることであり、容易に結論の出る問題ではなかった。対応策は、固まりかけては、また、再検討された。

奇襲攻撃を仕掛けるべきだという、こうした軍人たちの声高の主張を聞いて、大統領の弟で、司法長官の任にあったロバート・ケネディは、アメリカは日本の真珠湾攻撃のようなことをすべきではない、と語ったともいわれている。

緊迫した状況のなかでのアメリカ首脳の協議は、激しく意見が対立し、紛糾していた。怒りが爆発し、感情的なぶつかり合いも起こった。恐怖と緊張が極限に達した時、しばしば人間は、自制力を失い、安易な道を選択したり、戦争という誘惑に負けてしまうものだ。それは″恐怖の均衡″が戦争を抑止するという、いわゆる核抑止論が、いかに根拠薄弱なものかを示して余りある。大統領の弟のロバート・ケネディは、この時の模様を、こう回想している。「われわれ一人一人が、全人類の将来に影響する勧告を作成するよう要求されていたのである。その勧告は、もし間違っていて、もし受諾されたら、人類の破滅を意味するほどのものであった全面核戦争エスカレートしかねない危機下で、その最終的な決断は、たった一人の人間――ケネディの胸一つにかかっていた。会議が五日目に入った十月二十日の午後、ケネディ大統領は、遂に、最終的な対応を決断した。それは海上封鎖」案であった。ケネディは、この決断を下すまでの間、スタッフにあらゆる可能性を忌憚なく協議させたが、全面核戦争に発展する危険性の高い、即時の軍事侵攻には、一貫して与しなかったといわれている。彼は、この危機的状況においても、自らの内面を見事に統治する″管理能力″をもっていたといえよう。第二次大戦中、ケネディは、日本軍の攻撃で、乗っていた魚雷艇を大破されるが、自身も体を痛めながら、部下を助けて危機を脱出している。こうした彼の冷静さは、この「人類の危機」においても発揮されたのであるいかに文明が進歩しようとも、いかに時代が変わろうとも、最後に、問われるのは「人間」自身である人間の決断が、自らの運命を、そして、世界の運命を決定づけていくキューバ危機″は、改めて、この当たり前のことを実感させたといえまいか。アメリカの科学者ライナス・ポーリングは、ケネディに対して、政府の決定を撤回するよう求める電報を打った。「海上封鎖」も、その後の経緯のいかんでは、全面核戦争にエスカレートする危険性をはらんでいるからである。それは「世界には軍事力や核爆弾という悪の力よりも更に偉大な力がある。善の力、道徳や、ヒューマニズムの力である」との、彼の信念から発した行動といえた。また、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルも、米ソ首脳に打電し、海上での接触を避け、自重するように求めたのである。演説の翌二十三日の午前、ケネディは、キューバの隔離、すなわち「海上封鎖」の宣言に署名した。この日、ケネディは側近にこう語った。なによりも大きな危険は誤算――判断を誤ることだ」と。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(ドイツ、ロマン主義の画家)

ロマン主義とは
18世紀末から19世紀前半にヨーロッパの精神運動のひとつ。それまでの
理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおき、古典主義と対をなす。
恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、
近代国民国家形成を促進した。
文芸・美術・音楽・演劇などさまざまな芸術分野に及ぶ。

後にその反動として写実主義自然主義などをもたらした。

■カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
13歳の時、河でスケート遊びをしていたときに、氷が割れて溺れ、彼を助けようとした
一歳年下の弟・クリストファーが溺死してしまう。
このことで長年自責の念にかられ、うつ病を患い自殺未遂を起こしたこともあった。
その後、姉や母も亡くしたことが彼の画風や人格に大きく影響を与えたと言われている。


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雲海の上の旅人
人が描かれるときは、その人も作品に描かれた風景を鑑賞者と共に見つめるため、
背後からしか描かれないのが常である。

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エルデナ修道院
作者が頻繁に主題にした生まれ故郷グライフスヴァルトにある修道院
三十年戦争で破壊され廃墟と化している。19~20世紀にかけて修復された。



■カスパーの風景画の特徴
自然の風景、それも高みや遥か彼方を見据えるもの、廃墟になった僧院、
墓地、古代の巨石墓、槲の木などがよくモチーフとして取り上げられる。
夕暮れ時やひと気のない寂寥感漂う茫漠たる情景のものが多い。

しばしば人間がえがかれているがほとんどが後ろ姿や遠見の構図であり、
人間以外の生き物、例えば鳥や動物はほとんど見当たらない。

 

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氷の海
自然の冷酷さと死のイメージを重ね合わせている。
こちらは大地から何かが盛り上がったような力強い絵ですね。

 

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リューゲン島の白亜岩

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人生の諸階段
一番手前の老人が作者、向こうにいるのが甥と3人の子どもだそうです。
地平線に向かう五隻の船が人生の諸階段をあらわしているのでしょうか。
若くして家族を失った作者が年老いて、これから人生の諸階段を進みゆこうとする
うら若き家族へ温かな眼差しを向けているようにも見えます。


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ミミズクのいる風景
人間以外の生き物はえがかないのかと思っていたら、なぜかミミズクの絵があった
ミミズクは作家の心象風景にマッチしたのだろうか。やはり物悲しい風景となっている。

 

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肖像画

トルストイ「人は何で生きるか」「人にはどれほどの土地がいるか」

■「人はなんで生きるか」トルストイ

あらゆる人に理解される為に簡素な表現で分かり易く、という趣旨で
1年間に渡って何度も推敲を重ねた人間の本質を問う力作。
日本語題の「なんで」は「なぜ」ではなく「何によって」の意味。


こちらの動画でわかりやすく要約されています。

神に使わされた天使が次の三つの命題を与えられます。
①人間の中にあるものは何か
②人間に与えられていないものは何か
③人間はなんで生きるか

神は人の心の中にいる。なぜならこの世の神とはその心の中にある愛だから。

このトルストイキリスト教観は仏法に通じるものがあります。
万人の心の中に仏性をみとめ、根底に大慈悲の生命がある。
仏法では、愛ではなく慈悲と呼びます。
また慈悲は勇気によって置き換えられるそうです。
現実には、この小説のように美しい姿をした神の使いではないし、
誰もが行き倒れの人を助けるような愛に満ちているとは限りません。
むしろ偏見や疑念、排他性を感じる方が多いこともあります。
しかしどんな人であれ仏性(または神性)があるのだとすれば、
どんなに仲が悪くても通じ合うことは可能なはずです。
直接会いもせず、言葉も交わさず、あるいは冷たくしたり、
一方的な関係では、愛も慈悲もなかなか感じられないと思います。

■「人にはどれほどの土地がいるか」


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いくら広大な土地を持ってても死んだらあの世に持っていけません。
心の財こそ大切なのです。
「自身の宮殿に入るなり」
愛や慈悲と同じように、安楽の地は心そのものであるのです。

 

トルストイの破門
1901年、トルストイロシア正教を破門されてます。
理由は『復活』の中で「聖書を勝手に解釈したり正教を冒涜したりした」とか。
教会側は破門はしておらず勝手に離脱した、などといってるようです。
歴史的には、ガリレオ、ルター、ブルーノなどが破門されてますが、
彼らは真理や原点を見失ったのではなく、独立性や尊厳性を維持したのでした。
人間が自身の存立を脅かすような試練に遭遇した時、何に立ち返るのか?
によってその後の顛末が大きく左右されてくるのだろうと思います。

「永遠の平和の上に」レヴィタン

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永遠の平和の上に

イサーク・レヴィタンはリトアニア出身の移動派の画家。貧しいユダヤ人家庭に生まれ、赤貧の日々を過ごす。モスクワの美術学校で絵を学べたのは絵の才能を認められ奨学金を受けられたからである。またこの頃に起きたテロ事件と関連付けられ、ユダヤ人追放が盛んになり一家が郊外へ逃れることになってからも、芸術家愛好家らの働きによってモスクワへの帰還を赦されている。有名な慈善家で芸術収集家パーヴェル・トレチャコフもレヴィタンの絵を買い上げている。

彼が最も好んだのは森林や穏やかな田舎にある詩的な場所であった。彼の作品で特徴的なのは、静まりかえっていて、ほとんど憂愁の空想が田園の風景に囲まれて、人の存在を欠いているところにある。彼は漠々とした風景を描き続けたが、晩年になると再びユダヤ人迫害に遭い、モスクワを逃れ田舎町を転々として過ごし、またその中で多くの風景画を描き残した。

レヴィタンは人生最後の年を、クリミア半島にあるチェーホフの家で過ごした。絶え間ない病気の影響にもかかわらず、彼の最期の作品は増大する光で満たされている。それらは静穏とロシアの自然の永遠の美を反映しているのである。

ウクライナ出身の画家

日本ではあまり知られていないウクライナ出身のロシアで活躍した画家です。

 

■イワン・アイヴァゾフスキー 1817-1900
海洋画家であり、ロシア海軍オスマン帝国の宮廷画家として6000点もの作品を残した。
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クリミア半島のフェオドシヤでアルメニア人の両親の子として生まれる。
家庭は貧しかったが、傑出した画才のため援助を受けクリミアや
ペテルブルグの美術学校で学び、
黒海沿岸で風景画や海洋画を描いて賞金を稼ぎ、ヨーロッパ各地を旅する。
海洋画家としてロシア海軍に長年に渡り作品を委嘱されたあと、
スルタンのアブデュルメジト1世に招聘されてイスタンブールへ赴き、
オスマン帝国の宮廷画家として活躍し、歴代皇帝などを描いた。
長寿であったことから、生涯において6000点におよぶ作品を残し、
成功で得られた資金で美術館や美術学校を開いている。

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Fisherman on the seashore 1852

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ベネチアラグーンの景色 1841

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コンスタンティノープル



■アルヒープ・クインジ   1842-1910
独創的な光のイリュージョンをえがく、移動派に属す風景画家

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ウクライナマリウポリ出身の風景画家。
6歳で両親に先立たれたため、幼くして自活を余儀なくされた。
若い頃は撮影所で働き、写真の修正係をしていたせいか

独特の画風、色彩感覚から明暗が浮き彫りの写真のネガのような印象を受ける。
巨匠に師事して本格的に絵を学ぼうとアイヴァゾフスキーのいるクリミアへ赴くが、
才能を認めてもらえず、絵の具作りや壁のペンキ塗りをさせられていたという。
彼に絵を教えたのは同門下のフェースレルという若者であったが、それでも師である
アイヴァゾフスキーの絵を模写するなど、独自に巨匠の絵から学んだ。
サンクトペテルブルクへ行ったあと美術アカデミーに学ぶが、移動派に属してからは
クラムスコイレーピンらと出会い、アカデミズムから離れる。
移動派の貧しい民衆の力強さや美しさをえがく精神性に共感していく。
移動派は当初、社会生活を営む人々に関心を払っていたが、全盛期では視野を広げ、
ロシアの自然風景や人々と自然環境とのかかわりを対象としていくようになり、
クインジもまたロシアの自然風景を描き続けた。
イリヤ・レーピンは、クインジについて、
光のイリュージョンは彼の神であった。この絵画の奇跡を生んだのは画家ではない
と語っている。


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After the rain

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白樺の木立 1901



イリヤ・レーピン    1844-1930
移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家

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ロシア帝国時代のチュグエフ(現在はウクライナ)に生まれる。
文豪トルストイや元素の周期律を発見したメンデレーエフ、音楽家
リムスキー・コルサコフムソルグスキーなど社会的名士の肖像画を制作する一方で、
しばしば社会階層の矛盾や貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材とし
た。
移動派に入り、
ヴォルガの舟曳きを巡廻美術展に出品したことでレーピンの名声が確立する。

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ヴォルガの船曳き   1873
船の動力がなかった時代に川の上流に向かうには、人や馬で船を曵くしかなかった。
船曳き人夫らは、主に春と秋に、それぞれ皮や布でつくった幅広のベルトを身体に巻いて、
何時間も何日間も岸辺や浅瀬を歩き続けて船を曳いた。


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トルストイの肖像

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水の下の王国のサトコ 1876

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何という広がりだ! 1903

1961年の主な出来事

1961年の主な出来事について、創価学会(前年に池田第三代会長が就任)の動向と合わせてまとめてみました。


1月
「銀座の恋の物語」石原裕次郎&牧村旬子  300万枚を超える大ヒット
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現在でもカラオケで人気の銀恋。
初出は公開の日活映画『街から街へつむじ風』(石原裕次郎主演)の挿入歌として


1.17 アイゼンハワー米大統領が退任
演説で軍産複合体が国家に及ぼす影響力を警告

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「…軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除しなければなりません。
誤って与えられた権力の出現がもたらすかも知れない悲劇の可能性は存在し続けるでしょう。
この軍産複合体の影響力が、我々の自由や民主主義的プロセスを決して危険にさらす
ことのないようにせねばなりません。何ごとも確かなものは一つもありません。

警戒心を持ち見識ある市民のみが、巨大な軍産マシーンを平和的な手段と目的に適合するように
強いることができるのです。その結果として安全と自由とが共に維持され発展して行くでしょう。」


1.20 ジョン・F・ケネディ米大統領就任

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ケネディ大統領は就任演説で、米国民に自己利益を超えて、自分の国のために働くよう促し、
あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、
あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい
と述べた。

またソ連と米国の両国民に対し、

人類共通の敵、すなわち圧政、貧困、疾病、そして戦争そのものとの闘い
とも呼びかけた。


1.24 ゴールズボロ空軍機事故

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アメリカ極東部のノースカロライナ州で起こった核爆弾の落下事故
アメリカ空軍のB-52 ストラトフォートレス爆撃機が空中分解し、搭載していた3.8メガトン
の威力を持つ
マーク39核爆弾2発が地表に落下した。※直径約3.4~3.5メートル。
※参考……TNT火薬で換算した場合、広島型は推定約16キロトン、長崎型は約22キロトン。
 メガトンはキロトンの1000倍にあたるので、落下した核爆弾は200倍以上の威力に相当。
1発は、4つの起爆装置のうち3つがアクティブになっており、起爆条件の多くが実行されており
致命的な状態であったが、地表まで30m地点で落下傘が開き、着弾時の衝撃は弱まったという。

落下傘で降下した爆弾は、落下傘が木に引っかかり、完全な状態で発見された。



1.28 池田SGI会長、アジアへ仏法西還の旅

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アジアの民に 日をぞ送らんと詠った恩師・戸田城聖先生の東洋広布、仏法西還
への熱願を実現すべく、香港、セイロン、インド、ビルマ、タイ、カンボジアを歴訪

香港で海外初の地区を結成。
インド・ブッダガヤでは「東洋広布」と刻んだ石碑を埋納。幾十万の地涌の人材の誕生を祈念
ビルマでは戦死した長兄をしのび、日本人墓地では戦没者の追善法要、恒久平和を誓う。


4月
4.12 人類が初めて宇宙へ
人類初のソ連有人宇宙船ボストーク1号がユーリイ・ガガーリンを乗せて地球一周に成功

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地球は青かった
直訳すると「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となるそうです。
また宇宙から「無重力状態は面白い。すべてが浮かんでいる」と地上に伝えたそうです。

宇宙から帰還後「神はいたか?」と聞かれて、、
ロシア正教モスクワ総主教アレクシー1世がガガーリンに尋ねた。
    総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか」
    ガガーリン「見えませんでした」
    総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように」
しばらくしてフルシチョフガガーリンに同じことを尋ねた。
総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
    ガガーリン「見えました」
    フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように」
レーニン主義は宗教を否定している)



7月
7.4 ソ連原子力潜水艦 K-19が原子炉トラブル事故

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北海グリーンランド付近でソ連海軍最初の弾道ミサイルを装備した原子力潜水艦
冷却システムに異常をきたし、
メルトダウンの危機に見舞われた。
通信系統は故障し、外部と遮断されていたため救援を呼ぶことができず、
乗員は放射線防護服の代わりにレインコートのようなものを着てトラブル修復のための作業を
余儀なくされたため、大量の放射線を浴びて被爆し、乗員8名が1週間以内に死亡したという。
のちに映画化された「K-19」ではハリソン・フォードが主演している。

このとき副艦長だったアルヒーポフは、翌62年のキューバ危機においても
ソ連潜水艦B59に乗船しており、核ミサイル発射の判断を迫られた3名の責任者のうち
唯一反対した人物である。
当時、核魚雷の発射には乗艦する三人の士官の承認が必要だったが、
アルヒーポフがこれを拒否したことから、核戦争を回避した人物として知られる。
この事実は2002年に公開された。

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8月
ベルリンの壁
を設置し、東西の往来を遮断

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冷戦下にあって東ドイツから西ドイツへの流出が相継いだため、これを防ぐために有刺鉄線とコンクリートで突如として壁が設けらた。人々の移動は完全に遮断され西側諸国と東側諸国を分断する象徴となった。


10月
10.4 池田SGI会長、初の欧州訪問

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デンマークコペンハーゲン)、西ベルリン、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアを歴訪。※画像はイギリスのウィンザー城。
西ドイツで池田SGI会長は「ブランデンブルク門」を仰ぎながら、
30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう…と語り、実際にそれから約30年後の1989年にベルリンの壁は取り払われた。


上を向いて歩こう坂本九 
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ビルボードBillboard)誌で唯一、日本出身者としてHot 100週間1位を獲得


10.30 史上最大規模の核弾頭・水爆ツァーリ・ボンバの爆発実験(ロシア公開画像)
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破壊力(放射能被害・汚染を除く)はTNT換算で50メガトン
広島・長崎の1500倍相当とされる。



11月
11.27 公明党の前身「公明政治連盟」発足

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池田大作創価学会会長が示した指針、
大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく
(1962年公明政治連盟第一回全国大会での挨拶)は公明党の原点。


その他の邦楽
「王将」村田英雄
「コーヒー・ルンバ」西田佐知子
「スーダラ節」植木等
「東京ドドンパ娘」渡辺マリ


洋楽の主なヒット曲

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「好きにならずにいられない」エルヴィス・プレスリー
「ライオンは寝ている」トーケンズ
「プリーズ・ミスター・ポストマン」マーヴェレッツ
「レッツ・ツイスト・アゲイン」チャビー・チェッカーなど


映画
ウエスト・サイド物語
「101匹わんちゃん」
「用心棒」(黒澤明

ベストセラー
砂の器松本清張

TV
NHK朝の連続テレビ小説が始まる。(第1回「娘と私」)


以上です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。^^