南十字の暗黒星雲(コールサック)~星が生まれる場所

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銀河鉄道の夜北十字から始まり、南十字で終わる物語。

現世と冥界を往来する旅であるとも。

二つの星雲は石炭袋と呼ばれ、真っ暗で何も見えない。

しかしそこは星々が生まれる場所なのだ。

 

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可視光で見たコールサック(石炭袋)

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赤外線で見たコールサック(NASAハッブル宇宙望遠鏡)

嵐の海の船(イヴァン・アイヴァゾフスキー)

以前にも紹介しました海洋画家アイヴァゾフスキーは、嵐の海を進む船を主題に数多くの作品を描いています。

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嵐の中の船 1858年

 

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1873年

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第九の波 1850年

 

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黒海の嵐

 

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北極海の嵐 1864年

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夜の嵐の海

 

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イヴァン・アイヴァゾフスキー(1817-1900)
ウクライナクリミア半島フェオドシヤ)生まれ、アルメニア人。帝政ロシアの画家。
貧しい家庭であったが、傑出した画才から援助を得てサンクトペテルブルク美術アカデミー
に進み、金メダルを得て卒業。風景画で稼いだ賞金でクリミアに行き、黒海沿岸の都市で
肖像画家として活動。ヨーロッパ各地を旅する。後に海洋画の評判からロシア海軍より
長年にわたり制作を依頼される。
その後、イスタンブールへ行きオスマン帝国の宮廷画家となった。
生涯にわたり6000点を超える多くの作品を残している。

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(神話、聖典における)生命の木

神話や宗教には、人間と(神など)超越した存在との関係をあらわしたり、
神聖な場所など、各々の信仰観における象徴となる種々の樹が登場します。

旧約聖書「創世記」

エデンの園の真ん中には二本の木があり、一つは知恵の樹、もう一つは生命の樹
この二つの木の実を両方食べてしまうと神と等しい存在になる(ユダヤ伝承)

知恵の樹
「善悪の知識の木」ともいいます。
旧約聖書「創世記」によれば、知恵の樹の実を食べると神と等しい「善悪の知識」を得られる
といわれ、
それを食べることは神ヤハウェから禁じられていたのだが、アダムとイブは
蛇に唆(そそのか)されて禁断の果実を食べてしまい、楽園を追放されます。

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「楽園のアダムとイブ」ヤン・ブリューゲルルーベンスによる共作

ヤン・ブリューゲルが得意とした動物を、ルーベンスが人物を描いたという
バロック時代を代表する二人の巨匠による共同作品です。
イブが智慧の樹から実をもぎ取り、アダムに手渡しています。

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「人間の堕落」グース作
こちらの絵はイブを唆した蛇が描かれています。
頭が人間で体が蛇になっているのが面白いです。
蛇はこのあと神の怒りに触れ、地を這うようになります。

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天使を引き連れて現れる神 アレクサンドル・カバネル
神の逆鱗に触れ、許しを請いますがついに楽園を追放されます。

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失楽園 マザッチオ
神に許されず、楽園を追放されたアダムとイブが嘆き悲しんでいます。
二人を追い払っているのは天使ミカエルです。


知恵の樹の実は、りんごの実であったなど諸説ありますが定かではありません。
「善悪の木の実」ともいわれ神と等しい知識を得るといわれますが、
実際、人間は神と等しいといえるほど賢くはないですね

しかし地球上のあらゆる生物の中で唯一、高度な知性を持った存在であるのも確かです。

映画「2001年宇宙の旅」では、群れを持つ猿たちが縄張り争いをしていますが、
謎の物体モノリスに触れた猿が知恵を得て、動物の骨を武器にするようになり、
他の群れを圧倒し、退けていきます。
そしてその骨を空へ放り投げた後、突然宇宙船のシーンへつながります。
この知恵を得た人間が進化して、巨大な文明を獲得するシーンも
知恵の樹の寓意をなぞらえているといえるかもしれません。
(ただしキリスト教の古典的な解釈において進化論は否定されます。)

ちなみにクリスマスツリーのもみの木も知恵の樹の象徴とされており、
この聖書の逸話に由来しているようです。


生命の樹
そして、もう一本の「生命の樹」の実を食べると「永遠の生命」が得られるそうです。

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生命の樹グスタフ・クリムト

アダムとイブが智慧の樹の実を食べてしまったので、神は二人が生命の樹の実まで
食べてしまい永遠の生命を得て、唯一神である自身の存在を脅かすことをおそれ、
二人を楽園から追放しました。この出来事を「失楽園」といいます。

17世紀にジョン・ミルトンがこの寓話をもとに執筆した「失楽園」が有名です。
ダンテの「神曲」に並び、キリスト教を代表する文学作品です。

 

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失楽園ジョン・ミルトン(版画:ジョン・マーティン)


知恵について
知識と知恵は意味が異なりますが、仏法においても智慧は重要な概念で
大乗仏教では般若という言葉が知恵をあらわすものとして知られています。
しかし法華経と爾前教とではその知恵の内容や現す方法は必ずしも同じではなく、
爾前教では、「無常・苦・無我・不浄」を観ずることがしばしば強調されるのに対し、
法華経では、「常・楽・我・浄」という志向性の転換がなされています。
これは永遠性の希求、人間は楽しむために存在していること、
世界は素晴らしいものであること、などといった人間観、世界観の転換があります。

また法華経における仏の智慧とは、方便品第二にあるように、難信難解であり、
人間の知恵の到底及ぶところではないとされます。
しかし、一旦はこのように遠く及ばないものであると示しながら、
この仏の智慧は、信によって代えることができると説かれるのです。
これを以信代慧といいます。
例えば、人が何らかの目標を立てそれを達成しようとする時、現実の状況を把握し、
将来の予測を立てようとするのですが、そこには必ず認識しきれない
不確定の要素が介在します。
人間の知恵や意思ではコントロールしがたい要素ともいえるでしょう。
これを祈りと信の力で、方向づけをしていくことが私は以信代慧ともいえると思います。
ただ信じているだけではもちろん何事も達成しません。
したがって可能な限りの知恵をひねり、努力するのですが、
これに信や祈りという要素が加わることで自ずと望んでいるような現象や結果が
あらわれてくる、といえるかもしれません。
チャンスはそれを準備している者にのみ訪れるともいいますね。
以上のことは、信力行力および仏力法力という言葉でもあらわせます。
妙法を信じ、それを行っていくことで、仏力法力という現象があらわれるとされます。
最終的に、思ってもみなかった境地、境涯に至れるということだろうと思います。

永遠の生命観
アダムとイブは生命の樹の実は食べなかったのですが、それを食べさえすれば
得られるというのは、それを獲得する可能性を示唆しているともとれます。
この生命論は仏法においてもよく論争となるテーマであり、仏典や宗派により
主張が異なっています。
釈尊は来世など説いてないという人もいますが、原始仏典であるダンマパダには
次のようにあります。

「悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む」
「善いことをなす者は、この世と来世で歓喜する」

これは現世のみならず、過去世や来世があることを示す文ととらえられます。
これを三世といいますが、上の文では同時に業や報いが示されてます。
この生命の「輪廻」と「業(カルマ)」の思想は、仏教のはるか以前の
古代インドからある思想で、バラモン教もこの考えに立っています。

そして永遠の生命観をより明確に示す経典が法華経です。

法華経において、仏とはこの世界に常住して人々に法を説きながら仏道へと導く存在であり、
その福徳により寿命を絶えず伸ばし続けてきたことが示されています。
これは法華経の真髄でもあり、従来示されてきた成仏観、生命観の転換ともなっています。
この仏の寿命が示された章は「如来の寿命を量る品」(法華経如来寿量品第十六)」です。
また「久遠」という時間の観念を超えた存在であることから、
この仏(如来)を久遠実成の仏ともいいます。
しかし、久遠の仏は荘厳な姿で法を説くのではなく、衆生と同じ凡夫の姿として現れ、
娑婆世界において人々に仏法を伝えようとする存在です。これを地涌の菩薩といいます。
久遠の仏(釈尊)は、法華経において十大弟子文殊弥勒にではなく、
この地涌の菩薩に未来の弘法を託すべく、一切の法を継承します。
これが法華経の虚空会の儀式における最も重要な場面であり、これが「結要付嘱」です。
法華経如来神力品第二十一)
しかし娑婆世界において、衆生の心は必ずしも素直に仏法を信じることができないため、
地涌の菩薩は弘教にあたって多くの苦難や試練を経ることになります。
しかしその試練を経て勝ち取られる宝こそが、かけがえのないものなのです。


■ゴータマ・ブッダ菩提樹

準備中...


「ただの一日足りとも 何ものをも素描せずに過ごしてはならない」チェンニーニ

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「芸術の書」チェンニーニ

チェンニーニは、15世紀前半のイタリア・トスカナ地方の画家です。
確証ある彼の作品は1点もないそうですが、
『芸術の書』 Il Libro dell'Arte  の著者として知られ、
芸術の基本は素描と色彩にあると述べています。

ルネサンス以降、多くの画家が素描の重要性について論じています。
アルベルティは、絵画の三要素は〈輪郭、構図、彩光(明暗)〉であるとし、
この三要素のうちもっとも基本的なことは、〈空間と物体の境界〉
としての〈線〉であるとしています。


このようなデッサン力の習得には日々の地道な鍛錬と自然の造形を
観察することが重要であるといいます。
今回は、そんな芸術論を書いたチェンニーニの言葉をご紹介します。

「芸術の基礎とすべての手工の発端とは素描と色彩の上に建てられる」


「まず線描によって始めねばならぬ」


「私たちが持ちうる最も完璧な案内人、最優の指導、素描に導く凱旋門
それは自然であることに留意せよ。
何よりも前に自然によって素描することが大切である。
すべからく熱意と信頼とをもって自然に身を献げよ…断じて、ただの一日足りとも
何ものかを素描せずに過ごしてはいけない」


「技法を修得するのに必要な年数を、まず知っておかねばならない。
最初にパネルを使ってデッサンの初歩を学ぶのに一年を要する。
師の工房に寝起きして、顔料を砕くことから始めて、膠を煮ること、
石膏を捏ねること、パネルの地塗り、肉付け、盛り上げ、磨くこと、
金箔を置くこと、金地に粒点をほどこすことまで、
絵画に関するあらゆる製法、技法に精通するには6年を要する。
ついで、顔料を研究し、媒材を使って彩色し、装飾すること、
豊かに波打つドラペリー(衣裳の襞)を金で表すこと、
壁画に習熟することにさらに6年を要する。
その間、デッサンを常に心掛け、祭日平日の別なく、毎日毎日、
デッサンを怠ってはいけない。
こうして多大の修練を積むことによってこそ天性も立派に結実するのである。
これ以外にはいかなる道を君が選ぼうと完成は望めまい」
「芸術の書」より

 

現在のような絵の具がなかった時代は制作準備から大変だったのですね。
さまざまな製法や技法を身につけるのには月日が必要なのはもちろんで、
その合間にも自然を観察し、デッサンを磨くことを怠ってはならないと。
私も決意を新たにし、日々デッサン力の向上に精進したいと思います!

藍より青し~法華経の師弟の精神

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藍の花(インディゴ)は青色の染料となる植物ですが、
その葉をしぼった染色液は、鮮明な青色ではありません。
ところが、何度も重ねて染めていけば色が段々深まって、
濃く鮮やかな青色になります。

翻って仏教においては、修行を重ねて信心をより堅固にし、
福徳を現していくことの譬えであり、
また師は弟子を自身以上に成長させようとする存在であり、
弟子もまた師を越えていこうと努力することをいいます。
この精神は数ある仏典の中で最第一とされる法華経に通じるものです。

しかし古い仏教観だと歴史上の人物である釈尊のみが仏です。
それ以外の人は仏にはなれず阿羅漢を目指します。
ですので仏教を論じる際、ともすればある仏教観や思想について、
それを「釈尊が言った、言わない」といった思考に陥る場合があります。

しかし法華経では「如我等無異」といって、
(「我が如く等しくして異なること無からしめん」と読みます)
法華経方便品第2において、
釈尊が長遠の過去に立てた誓願に、
仏である自身と等しい境地に衆生を導くこと、とあるのです。
同品では、一大事因縁とって仏がこの世に出生した目的は、
一切衆生の仏知見を開かしめるためである、と明確に述べています。
つまり、一切衆生には仏性が備わっており、仏が弟子である衆生らを
自身と同等の境涯にしようという誓願によって、師である仏もまた
自身を仏たらしめているといえるのです。

ちなみに釈尊が実際にどのような言葉を残したのかについては、
厳密な意味では断定することは不可能と言われています。
原始仏典も釈尊入滅後、第一結集から文字化、聖典化するまで
数百年の時を要しており、その間は記憶と口伝のみで伝えられていたので、
そこには少なからず記憶違いや、誤解、主観の介在があると考えられるからです。
実際に滅後、100年には戒律をめぐる解釈で分かれ、根本分裂が起き、
その後、多くの部派仏教に分派していっています。
中国では、孔子の「論語」等の四書もこれと同じような経緯をたどっており、
全て本人ではなく後代の弟子たちが編纂してまとめた思想です。

このようなことを考えますと、仏法とはそもそもいかなるものであるのか。
その本質、内容、そして現代に生きる我々にとっていかなる意味があるのか
という観点から仏や仏法のなんたるかを捉え直していく必要がでてきます。

ではこの話はまたの機会にして、
「従藍而青」や「藍より青し」の由来となっているのは中国の古代思想です。
従藍而青」とは天台大師の「摩訶止観」にある言葉で、
荀子の「青は藍より出でて藍より青し」という意味です。

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孟子(左)、荀子(中)、天台大師(右)

孟子荀子孔子の弟子にあたる儒家の思想家(諸子百家)ですが、
二人の思想は対極的でした。
孟子が「性善説」を説き、人が仁義礼智を生来的に備えているという
理想主義であるのに対し、
荀子は「性悪説」を説き、人は先天的には弱く利己的な存在であり、
後天的に教育しなければ、善い人間にはならないというリアリストです。

孟子の有名な譬えには「五十歩百歩」があります。
また王者は自らの徳によって仁政を行い民から慕われるのに対し、
覇者は武力による恐怖政治を行うと説明しました。

一方、荀子は「青は藍より出でて藍より青し」や
蓬(よもぎ)も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し」 (麻中之蓬
という言葉が有名で、日蓮大聖人も「蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」と
この故事に由来する言葉を残しています。

二人は対極的な思想の持ち主ではありましたが、師である孔子が説いた
世の乱れは統治者の資質つまり「」に原因があるという思想を継承発展し、
儒教の普及に貢献しました。
仏法からみれば、人間は善性も悪性も同時に備えており、機縁に依って
善くも悪くもなるものといえます。例えば、善縁となる人を善知識と呼び、
悪縁となる人を悪知識といいます。
また日蓮大聖人は、世の乱れは法華経ではなく誤った法を用いていることに
根本原因があるとして、時の権力者に立正安国論を提出しました。

云く、「よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し、
国土の大難をも払ふべき者なり
このように、よき師、よき教え・法に巡り合うことで人生が大きく変わり、
ひいては、一国の命運も変えていくことができると仰せになっています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。