(神話、聖典における)生命の木

神話や宗教には、人間と(神など)超越した存在との関係をあらわしたり、
神聖な場所など、各々の信仰観における象徴となる種々の樹が登場します。

旧約聖書「創世記」

エデンの園の真ん中には二本の木があり、一つは知恵の樹、もう一つは生命の樹
この二つの木の実を両方食べてしまうと神と等しい存在になる(ユダヤ伝承)

知恵の樹
「善悪の知識の木」ともいいます。
旧約聖書「創世記」によれば、知恵の樹の実を食べると神と等しい「善悪の知識」を得られる
といわれ、
それを食べることは神ヤハウェから禁じられていたのだが、アダムとイブは
蛇に唆(そそのか)されて禁断の果実を食べてしまい、楽園を追放されます。

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「楽園のアダムとイブ」ヤン・ブリューゲルルーベンスによる共作

ヤン・ブリューゲルが得意とした動物を、ルーベンスが人物を描いたという
バロック時代を代表する二人の巨匠による共同作品です。
イブが智慧の樹から実をもぎ取り、アダムに手渡しています。

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「人間の堕落」グース作
こちらの絵はイブを唆した蛇が描かれています。
頭が人間で体が蛇になっているのが面白いです。
蛇はこのあと神の怒りに触れ、地を這うようになります。

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天使を引き連れて現れる神 アレクサンドル・カバネル
神の逆鱗に触れ、許しを請いますがついに楽園を追放されます。

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失楽園 マザッチオ
神に許されず、楽園を追放されたアダムとイブが嘆き悲しんでいます。
二人を追い払っているのは天使ミカエルです。


知恵の樹の実は、りんごの実であったなど諸説ありますが定かではありません。
「善悪の木の実」ともいわれ神と等しい知識を得るといわれますが、
実際、人間は神と等しいといえるほど賢くはないですね

しかし地球上のあらゆる生物の中で唯一、高度な知性を持った存在であるのも確かです。

映画「2001年宇宙の旅」では、群れを持つ猿たちが縄張り争いをしていますが、
謎の物体モノリスに触れた猿が知恵を得て、動物の骨を武器にするようになり、
他の群れを圧倒し、退けていきます。
そしてその骨を空へ放り投げた後、突然宇宙船のシーンへつながります。
この知恵を得た人間が進化して、巨大な文明を獲得するシーンも
知恵の樹の寓意をなぞらえているといえるかもしれません。
(ただしキリスト教の古典的な解釈において進化論は否定されます。)

ちなみにクリスマスツリーのもみの木も知恵の樹の象徴とされており、
この聖書の逸話に由来しているようです。


生命の樹
そして、もう一本の「生命の樹」の実を食べると「永遠の生命」が得られるそうです。

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生命の樹グスタフ・クリムト

アダムとイブが智慧の樹の実を食べてしまったので、神は二人が生命の樹の実まで
食べてしまい永遠の生命を得て、唯一神である自身の存在を脅かすことをおそれ、
二人を楽園から追放しました。この出来事を「失楽園」といいます。

17世紀にジョン・ミルトンがこの寓話をもとに執筆した「失楽園」が有名です。
ダンテの「神曲」に並び、キリスト教を代表する文学作品です。

 

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失楽園ジョン・ミルトン(版画:ジョン・マーティン)


知恵について
知識と知恵は意味が異なりますが、仏法においても智慧は重要な概念で
大乗仏教では般若という言葉が知恵をあらわすものとして知られています。
しかし法華経と爾前教とではその知恵の内容や現す方法は必ずしも同じではなく、
爾前教では、「無常・苦・無我・不浄」を観ずることがしばしば強調されるのに対し、
法華経では、「常・楽・我・浄」という志向性の転換がなされています。
これは永遠性の希求、人間は楽しむために存在していること、
世界は素晴らしいものであること、などといった人間観、世界観の転換があります。

また法華経における仏の智慧とは、方便品第二にあるように、難信難解であり、
人間の知恵の到底及ぶところではないとされます。
しかし、一旦はこのように遠く及ばないものであると示しながら、
この仏の智慧は、信によって代えることができると説かれるのです。
これを以信代慧といいます。
例えば、人が何らかの目標を立てそれを達成しようとする時、現実の状況を把握し、
将来の予測を立てようとするのですが、そこには必ず認識しきれない
不確定の要素が介在します。
人間の知恵や意思ではコントロールしがたい要素ともいえるでしょう。
これを祈りと信の力で、方向づけをしていくことが私は以信代慧ともいえると思います。
ただ信じているだけではもちろん何事も達成しません。
したがって可能な限りの知恵をひねり、努力するのですが、
これに信や祈りという要素が加わることで自ずと望んでいるような現象や結果が
あらわれてくる、といえるかもしれません。
チャンスはそれを準備している者にのみ訪れるともいいますね。
以上のことは、信力行力および仏力法力という言葉でもあらわせます。
妙法を信じ、それを行っていくことで、仏力法力という現象があらわれるとされます。
最終的に、思ってもみなかった境地、境涯に至れるということだろうと思います。

永遠の生命観
アダムとイブは生命の樹の実は食べなかったのですが、それを食べさえすれば
得られるというのは、それを獲得する可能性を示唆しているともとれます。
この生命論は仏法においてもよく論争となるテーマであり、仏典や宗派により
主張が異なっています。
釈尊は来世など説いてないという人もいますが、原始仏典であるダンマパダには
次のようにあります。

「悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む」
「善いことをなす者は、この世と来世で歓喜する」

これは現世のみならず、過去世や来世があることを示す文ととらえられます。
これを三世といいますが、上の文では同時に業や報いが示されてます。
この生命の「輪廻」と「業(カルマ)」の思想は、仏教のはるか以前の
古代インドからある思想で、バラモン教もこの考えに立っています。

そして永遠の生命観をより明確に示す経典が法華経です。

法華経において、仏とはこの世界に常住して人々に法を説きながら仏道へと導く存在であり、
その福徳により寿命を絶えず伸ばし続けてきたことが示されています。
これは法華経の真髄でもあり、従来示されてきた成仏観、生命観の転換ともなっています。
この仏の寿命が示された章は「如来の寿命を量る品」(法華経如来寿量品第十六)」です。
また「久遠」という時間の観念を超えた存在であることから、
この仏(如来)を久遠実成の仏ともいいます。
しかし、久遠の仏は荘厳な姿で法を説くのではなく、衆生と同じ凡夫の姿として現れ、
娑婆世界において人々に仏法を伝えようとする存在です。これを地涌の菩薩といいます。
久遠の仏(釈尊)は、法華経において十大弟子文殊弥勒にではなく、
この地涌の菩薩に未来の弘法を託すべく、一切の法を継承します。
これが法華経の虚空会の儀式における最も重要な場面であり、これが「結要付嘱」です。
法華経如来神力品第二十一)
しかし娑婆世界において、衆生の心は必ずしも素直に仏法を信じることができないため、
地涌の菩薩は弘教にあたって多くの苦難や試練を経ることになります。
しかしその試練を経て勝ち取られる宝こそが、かけがえのないものなのです。


■ゴータマ・ブッダ菩提樹

準備中...