ウクライナ出身の画家

日本ではあまり知られていないウクライナ出身のロシアで活躍した画家です。

 

■イワン・アイヴァゾフスキー 1817-1900
海洋画家であり、ロシア海軍オスマン帝国の宮廷画家として6000点もの作品を残した。
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クリミア半島のフェオドシヤでアルメニア人の両親の子として生まれる。
家庭は貧しかったが、傑出した画才のため援助を受けクリミアや
ペテルブルグの美術学校で学び、
黒海沿岸で風景画や海洋画を描いて賞金を稼ぎ、ヨーロッパ各地を旅する。
海洋画家としてロシア海軍に長年に渡り作品を委嘱されたあと、
スルタンのアブデュルメジト1世に招聘されてイスタンブールへ赴き、
オスマン帝国の宮廷画家として活躍し、歴代皇帝などを描いた。
長寿であったことから、生涯において6000点におよぶ作品を残し、
成功で得られた資金で美術館や美術学校を開いている。

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Fisherman on the seashore 1852

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ベネチアラグーンの景色 1841

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コンスタンティノープル



■アルヒープ・クインジ   1842-1910
独創的な光のイリュージョンをえがく、移動派に属す風景画家

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ウクライナマリウポリ出身の風景画家。
6歳で両親に先立たれたため、幼くして自活を余儀なくされた。
若い頃は撮影所で働き、写真の修正係をしていたせいか

独特の画風、色彩感覚から明暗が浮き彫りの写真のネガのような印象を受ける。
巨匠に師事して本格的に絵を学ぼうとアイヴァゾフスキーのいるクリミアへ赴くが、
才能を認めてもらえず、絵の具作りや壁のペンキ塗りをさせられていたという。
彼に絵を教えたのは同門下のフェースレルという若者であったが、それでも師である
アイヴァゾフスキーの絵を模写するなど、独自に巨匠の絵から学んだ。
サンクトペテルブルクへ行ったあと美術アカデミーに学ぶが、移動派に属してからは
クラムスコイレーピンらと出会い、アカデミズムから離れる。
移動派の貧しい民衆の力強さや美しさをえがく精神性に共感していく。
移動派は当初、社会生活を営む人々に関心を払っていたが、全盛期では視野を広げ、
ロシアの自然風景や人々と自然環境とのかかわりを対象としていくようになり、
クインジもまたロシアの自然風景を描き続けた。
イリヤ・レーピンは、クインジについて、
光のイリュージョンは彼の神であった。この絵画の奇跡を生んだのは画家ではない
と語っている。


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After the rain

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白樺の木立 1901



イリヤ・レーピン    1844-1930
移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家

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ロシア帝国時代のチュグエフ(現在はウクライナ)に生まれる。
文豪トルストイや元素の周期律を発見したメンデレーエフ、音楽家
リムスキー・コルサコフムソルグスキーなど社会的名士の肖像画を制作する一方で、
しばしば社会階層の矛盾や貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材とし
た。
移動派に入り、
ヴォルガの舟曳きを巡廻美術展に出品したことでレーピンの名声が確立する。

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ヴォルガの船曳き   1873
船の動力がなかった時代に川の上流に向かうには、人や馬で船を曵くしかなかった。
船曳き人夫らは、主に春と秋に、それぞれ皮や布でつくった幅広のベルトを身体に巻いて、
何時間も何日間も岸辺や浅瀬を歩き続けて船を曳いた。


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トルストイの肖像

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水の下の王国のサトコ 1876

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何という広がりだ! 1903