平安時代の人々と法華経

f:id:norwegian_forest:20211020100114j:plain

法華経薬王品第二十三(装飾経)

「鳴くようぐいす平安京」で始まる平安時代には、貴族たちが盛んに法華経を読誦したり、写経をしていたようで、桓武天皇の時世には、法華経の読誦に関する詔が発布されていたり、紫式部の「源氏物語」など文学作品への影響があります。また平安後期の源平合戦においては、後白河法皇平清盛源頼朝源義経などの主要な武将が何らかの形で法華経に対する信仰心を示しています。

 

この時代に法華経を広めていた中心的な人物は日本天台宗の開祖である最澄伝教大師)ですが、当時は南都六宗が幅を利かせており権実争論などを行っております。桓武天皇平城京から長岡京平安京へ遷都したのは、この仏教僧による著しい政治介入があったことも原因の一つであるようです。このようにして法華経を最第一とする最澄天台宗は、それ以前からあった南都六宗らと同じように公認仏教として扱われるようになります。

 

紫式部
源氏物語法華経二十八品になぞらえ全28帖から成る。

光源氏法華経に精通。
朝夕3日間で28品を読誦するという法華八講にも参加し、とくに女人成仏が説かれる提婆達多品に感激していたようです。

 

後白河法皇

今様を集めた「梁塵秘抄」を編纂
天皇ですが仏教に篤く、法華経の持経者といわれる。
今様とは、当時流行していた詠み歌です。たとえば・・・

「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる 
人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」

法華経の久遠常住の思想が垣間見れます。
冒頭「諸行無常の響きあり…」と詠った平家物語と相対するようにも見えます。また、この他にも法華経の情景描写や、功徳を讃嘆する唄がたくさん載っています。

 

平清盛

厳島神社に「平家納経」を奉納
平家納経は法華経三十巻、阿弥陀経1巻、般若心経1巻に金箔や美しい絵柄を挿し入れた装飾経。清盛は願文に「善を尽くし、美を尽くした」と記しております。
栄華を極めた平清盛が財力とこだわりを込めて作らせたものともいえます。

源頼朝

吾妻鏡によると、挙兵前に法華経を千回読もうとしたが、省略して一部だけでもよいだろうかと阿闍梨に相談したとあります。


源義経
兄、頼朝の軍勢に追いつめられ最期を遂げる際に、弁慶に対し「法華経を最後まで読んでから死にたい」と告げ、弁慶はそれを了承し、読み終えるまでは何としても敵を食い止めようと立ち往生、討ち死にする。

 

武蔵坊弁慶
観音信仰に篤く書写を行っていた。
観音経は法華経観世音菩薩普門品第二十五に由来します。
平泉より招来した法華経を納め武運を祈願した。

 

このように平安期には天皇や貴族を中心に法華経が信奉されていたのですが、源平合戦平氏が滅ぼされ、武家社会である鎌倉時代が到来すると法華経は次第に読まれなくなり、代わりに法然が説いた称名念仏が人気を集めます。当時の武士たちは貴族たちに比べ識字率が極めて低く、五種妙行のような法華経の読誦や書写を行うことが難しかったためと考えられます。それよりも唱えるだけで簡単に成仏できるという阿弥陀信仰が徐々に民衆の間に広がっていったようです。

 

このような時代背景の中で、日蓮が登場し、八万法蔵といわれる膨大な仏典の正邪を見極め、かつて最澄が最第一とした法華経を宣揚し、唱題行という民衆に開かれた易行を確立していきます。