五尺の身「妙法蓮華経」とルネサンスの精神

我等(われら)が頭(こうべ)は妙なり喉(のど)は法なり
胸は蓮なり胎(はら)は華なり足は経なり
此の五尺の身 妙法蓮華経の五字なり(御義口伝)

 

レオナルド・ダヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」と呼ばれる有名な絵に

「五尺の身 妙法蓮華経」を重ねてみました。



宇宙の森羅万象の全てが我が身に収まっている、というのが一念三千です。

妙とは不思議ということ。

なぜ宇宙や人間は存在しているのか?

なぜこれほどまでに秩序があり、精緻にできているのか?

考えたら不思議なことばかりです。

仏とは死んだ人のことではなく生命のことです。

宇宙は生命を生み出す母体のようなものといえます。

太陽や銀河、鉱物やガスにいたるまであらゆるものが生命の構成要素です。

生命といっても、有情の生命と非情の生命があるのです。

地球のような生命の星があり多種多様な生命が発現し、循環しています。

また仏法によれば、生命とは一度限りのものではありません。

現世のみならず、過去世、未来世の三世を遊楽しゆく姿が妙法の生命観です。

法華経に説かれるように、

諸仏(すなわち生命)の智慧人智や思慮では及ばないほど深くて不思議なのです。

聖も俗も、悟りも無明も、わが一念の当体に同時におさまっている。

生命の真髄をこのように説くのは、数ある仏典の中でも法華経だけです。

 

外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法を片端片端説いて候なり

しかりといえども、法華経のごとく説かず」(蒙古使御書)

 

ルネサンス以前の中世のキリスト教社会では、神が世界の中心であり、

人間は神の被造物にすぎないばかりか、罪深い存在であると考えられていました。

禁断の実を食べてしまったアダムとイブの犯した「原罪」が全人類に及んでおり、

人々は最後の審判を待って、神の赦しを得たものだけが救済されます。

このように神や教会を絶対視し、教条主義、没個性的な真理や概念が優先されていたため

中世はしばしば暗黒時代といわれます。

神と人間、聖職者(僧侶)と大衆、聖と俗の間に大きな断絶があったのです。

 

しかし14世紀になってイタリア・フィレンツェを中心に華やいだルネサンスが興ると、

古代ギリシャやローマの神々が再現されるようになります。

ギリシャの神々では兄弟喧嘩をしたり、恋をしたり、子供を産んだり、

怒りや悲しみをあらわにした物語が題材となっていきます。

それまで軽視されてきた人間性の豊かさが求められるようになり、たとえば宗教画であっても

神や天使が感情表現豊かに表現されるようになり、それまでタブーとされていた裸体も

積極的に生々しく描かれるようになっていきます。

 

それまでの神が支配する禁欲的な世界から解放され、ありのままの美が追求されるようになり、

人間が人間らしく生きる姿が描かれるようになっていきます。

この精神的、文化的な出来事がやがて近代社会の理念や原理に直結していくこととなります。

 

仏教でも初期の経典では、禁欲や戒律が重視されます。

笑ってはいけない、着飾ってはいけない、男女は近づいてはならないなど、

煩悩を消滅させることが解脱の道であると教えられていました。

この初期の教えを受け継いだ部派仏教ではとくに、

人間は釈尊のような仏になることはできないと考えられていました。

しかしこのような厳格な戒律主義、出家主義は高度に築かれた文明社会に生きる人々が

実践できるものではありません。

大乗仏教では煩悩に対する捉え方がより柔軟になり、寛容になっていきます。

大乗は仏説ではないと主張する人々もいますが、決してそうではありません。

法華経では「煩悩即菩提」といいます。

日本天台宗の開祖である最澄は、古い時代の煩瑣で禁欲的な戒律を瓦(かわら)にたとえ、

法華経の「受持」というただ一つの戒律を金剛(ダイヤモンド)にたとえています。

前者が人間を「他律」によって縛る道であるなら、後者は「自律」であり、

人間性を豊かに謳歌する道であるといえます。

 

ヴィーナスの誕生」サンドロ・ボッティチェリウフィツィ美術館所蔵)

フィレンツェの支配主であったメディチ家の当主が依頼したといわれる作品。

愛の化身であるヴィーナスが海から全裸で現れ、貝殻に乗り海を渡っています。