立正安国論と文永の役(1274年)


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上の動画は最近の説らしいですが、わかりやすく大変熱かったです。
本ブログでは、日蓮大聖人が予言した他国侵逼難と元寇との関連について、独自の視点で見ていきたいと思います。

1260年(文応元年)7月16日、日蓮大聖人は立正安国論鎌倉幕府に提出し、大集経と薬師経の三災七難※の経文を挙げて、他国侵逼難と自界叛逆難を予言。
(同年、クビライ・カーンが第5代モンゴル帝国皇帝に就任)

その後、日蓮大聖人は念仏、真言等の信者らにより松葉ケ谷法難、伊豆流罪、小松原法難、龍ノ口法難に遭われ、極寒の佐渡流罪となります。
しかし佐渡においても大聖人は果敢に折伏、法論を進められ、大聖人に帰依する人々や門下からの篤い信頼を得て、「開目抄」や「観心本尊抄」などの重書を著わされます。
また始めて御本尊を顕されたのもこの流罪の地においてだったようです。(始顕本尊)

約2年半の後、赦免されて鎌倉へ帰還し、平左衛門尉と再び謁見した際に、法華経を受持するよう3度目の諌暁を行なうのですが用いられず、大聖人は1274年(文永11年)5月、(甲斐国山梨県)波木井郷の)身延山に入山されます。
文永の役(1回目の日本襲撃)はこの年の10月、元寇朝鮮半島から3〜4万人を乗せた大小900艘の船団が出発し、壱岐対馬を制圧したのち、博多に上陸しました。

■三災七難とは

大集経

①穀貴[こっき](飢饉などによる穀物の高騰)
②兵革[ひょうかく](戦乱)
③疫病[えきびょう](伝染病の流行)

薬師経

①人衆疾疫難[にんしゅしつえきなん](人々が疫病に襲われる)
②他国侵逼難[たこくしんぴつなん](他国から侵略される)
③自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん](国内で反乱が起こる)
④星宿変怪難[しょうしゅくへんげなん](星々の異変)
⑤日月薄蝕難[にちがつはくしょくなん](太陽や月が翳ったり蝕したりする)
⑥非時風雨難[ひじふううなん](季節外れの風雨)
⑦過時不雨難[かじふうなん](季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる

日蓮大聖人は、以上の種々の難のうち、疫病や飢饉などはすでに起こっていたが、他国からの侵略と内乱だけが生じていなかったため、正法である法華経を用いなければ、この二難が生じるだろうと予言されたのでした。


13世紀、モンゴル帝国ユーラシア大陸をほぼ制覇し、人類史上大英帝国に次ぐ二番目の規模の帝国を築いていました。国号を元と改め、日本では蒙古と呼ばれていました。
日蓮大聖人が立正安国論を提出した1260年に第5代皇帝として即位したクビライ・カーンは、日本列島のある東方地域と南宋の攻略を目論んでいました。

■蒙古国書
しかし、何の予告もなく突然日本攻略をしてきたわけではなく、来襲する6年も前に、事前に高麗の使節団を通じて日本に国書を届けています。(「蒙古国書」や「蒙古国牒状」と呼ばれます)
1268年の正月、使節団が九州の太宰府を訪れ、その後幕府および朝廷がこの国書を受け取ります。この国書の内容および解釈については、諸説あるようですが、必ずしも宣戦布告といったものではなく、日本と親交を結びたい、という旨が書かれてます。以下、文末の抜粋です。

「・・・ゆえに特使を遣わして国書を持参させ朕の志を布告させる。
 願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結びもって互いに親睦を深めたい
 聖人(皇帝)は四海(天下)をもって家となすものである。
 互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
 兵を用いることは誰が好もうか。
 王は、其の点を考慮されよ。不宣。
   至元三年八月 日 」
(蒙古国牒状、東大寺尊勝院文書)

※誼み(よしみ)
親しい関係・間柄・交わり・付き合い。何らかの縁・間柄から生じる情・好意・親しみ。 縁故。


以上の文面は、前例のないほど鄭重であると解される一方、「兵を用いることは誰が好もうか。」というのが、武力で脅しているという見解もあります。
ただ表向きはあくまで親交を持とうとするものであり、戦闘は望まないといい、日本の権力者を「王」と呼んで尊崇の念を表してもいます。

この頃、鎌倉幕府北条時宗が執権に就いてまもなく、幕府や朝廷はこの国書を受けて対応を巡り連日協議を重ねていました。御家人に用心して警戒にあたらせたり、南宋の僧からモンゴル帝国の暴虐ぶりについて情報を得ていたようです。
しかし使節団が国書を渡し7か月経っても日本側からの返事がなかったことで、使節団は帰ってしまい、クビライに失敗したと報告します。クビライはこの報告を受ける前の5月頃には、日本征伐の意思を表明し軍艦の製造にあたらせたといいます。

結果的に日本側は皇帝の親書を無視
することとなり、これがクビライを怒らせる要因となったようです。このような日本の拙劣な対応や優柔不断ぶりは見落としてはならない点といえるでしょう。幕府は諸宗の僧侶らに祈祷を命じたりしたのですが、大聖人に祈雨対決に敗れた諸宗にそのような力があるはずもありません。ちなみにこの国書が届いた年に大聖人は、諸宗に対し11通の書を送り、公開討論を迫っています。

さらに翌年(1269年)2月、クビライは使節団を派遣したのですが、対馬で行く手を阻まれ、その時に塔二郎と弥二郎という名の二人の日本人を召し捕らえて帰還します。しかし拷問をしたり人質に取ったわけではなく、むしろ宝物を下賜したり、クビライの宮殿を観覧させもてなしています。
この時、クビライは二人に対しこのように述べた。
「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と。

同年9月、2度目の国書が届きます。前回無視されたことから服属を要求する強めの論調となっていました。幕府は拒否する旨の草案を作成しますが、評定を重ねた末、「返事をしない」と決め、朝廷もこれに従ったようです。2度の国書に対し、またもや無視を決め込むという選択をしたのです。

このような経緯を考えると、クビライは当初は日本に対して友好的な態度で親交または朝貢を迫ったのであるが、無視されたことにより、武力侵攻する選択肢が生じたといえるでしょう。媚びへつらわずとも、何らかの友好的な対応をしていれば、また違う展開になっていたのかもしれません。

1271年(文永8年)9月、三別抄という高麗の反乱軍から援軍の要請を受ける。
その直後に、クビライからの5回目の使節団が国書と100人余りを引き連れて来日。
この時、使節は一定の軍勢を伴っていたらしいが、返書の代わりに日本からクビライのもとへ使者を遣わすことを決めます。
この文永8年、9月12日は日蓮大聖人が竜の口で法難に遭われた時でもあります。


1272年1月、12人の日本使(『元史』日本伝では26人)が高麗を経由し、元の首都・大都を訪問しますが、クビライへの謁見は警戒されてかないませんでした。そして4月に高麗を経由して帰国します。同年、6度目の使節団が日本へ来ますが、クビライは日本からの返事が得られず、側近は日本を攻めても益はないと説得しますが、ついに武力侵攻を決断します。また一方で、鎌倉幕府は東国の御家人たちに九州への赴任を命じ、モンゴル軍の来襲に備え警固の任にあたらせます。
同年、2月に北条家の内乱が起きます(二月騒動)。北条時宗に対し謀反を企てたとして、鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ征伐されます。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難が的中しました。

文永の役(第1回蒙古来襲)
1274年(文永11年)10月3日、蒙古および高麗軍ら3~4万兵を乗せた7~900隻ほどの船が朝鮮半島を出航し、対馬壱岐を襲撃。
対馬勢はおよそ80騎で応戦し、多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒するなど奮戦したが、多勢に無勢であり、焼き払われた。また壱岐でも同様に元軍に圧倒された。
日蓮大聖人もこの時の惨状について、「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕ちし者、幾千万と云ふ事なし」などと言及されています。

また現在の長崎、佐賀の西部にあたる、肥前沿岸の松浦郡および平戸島鷹島能古島を来襲。ここでも肥前御家人が応戦したが、対馬壱岐と同様、数百人が討たれ、捕虜となるなどの惨状に遭った。

壱岐対馬の戦況を聞き、九州一円から御家人が博多へと集結し、襲撃に備えます。

そして元軍の主力部隊である蒙古・漢軍が博多湾から上陸し、早良郡を襲撃。
赤坂、鳥飼潟、百道原・姪浜で激しい攻防が繰り広げられます、元軍は強く、また弓矢を雨のように降らし、日本軍は苦戦を強いられ九州北部の拠点を悉く突破されたようです。

『八幡愚童訓』によれば、「日本の武士は蒙古軍に対し手ひどく敗北し、内陸深くまで押し込められたものの、夜間に現れた神の軍勢が一夜にして蒙古の船団を追い払った」とあります。

しかし、この後元軍はなぜか一夜にして撤退したといいます。
元軍の撤退理由については、日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた。恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から不可思議な火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した、とされているようです。

嵐に遭ったというのは有名な話ですが、どの程度の規模であったのかは定かではありません。また日本列島は大陸から海で隔たれていることや、重装備の日本の屈強な武士を前にさしもの元軍も簡単には攻略できませんでした。

ともあれ日蓮大聖人の予言は的中し、日本史上数少ない他国からの大軍を率いての侵略に見舞われたのですが、御本仏・日蓮大聖人がおはします妙法の国、日本。諸天の加護は厳然であったといえるでしょう。

このようにして最初の日本襲撃は失敗に終わり、7年後の1271年に2回目の来襲(弘安の役)が起こります。では、そのことはまたの機会に…。

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■「北条時宗への御状
 謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺寿福寺極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
 夫れ此の国は神国なり神は非礼を稟けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり、然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、法華経に云く諸仏救世者・大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ずと、一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、仁王経に云く「一切の聖人去る時七難必ず起る」と、彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し・桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす、今日本国既に蒙古国に奪われんとす豈歎かざらんや豈驚かざらんや、日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、三世諸仏の事とは法華経なり、
 此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有つて御報に予かる可く候、所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。 
文永五年戊辰十月十一日 日 蓮 花押
 謹上 宿屋入道殿


(通解)
 謹んで申し上げる。そもそも去る正月十八日に、西戎大蒙古国から牒状が到来したという。これは、日蓮が先年、諸経の要文を集めて勘えた立正安国論の予言の通り少しも違わず符合したのである。日蓮は未来の出来事を知るゆえに聖人の一分に当たる。そこで重ねて、このことを諌言申し上げるのである。急いで建長寺寿福寺極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿等の御帰依を止めなさい。もし止めなければ、この上にまた四方の国々から攻めてくるであろう。速やかに蒙古国の人を調伏して、我が国の安泰を計るべきである。蒙古を調伏することは、日蓮でなければできないのである。主君を諌める忠臣がいれば、その国は正しく、親を諌める孝子がいれば、その家は真っすぐになる。国家が安泰であるかないかは政道が正しく行われるか否かにより、仏法の邪正は経文の明鏡によるのである。
 この国は神の国である。神は礼にそむくことをうけられない。天神七代、地神五代の神々、その外、諸天善神等は法華経守護の神々である。しかも法華経を食となし、正直をもって力とするのである。法華経神力品第二十一には「諸の仏、救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんがための故に、無量の神力を現じたもう」とある。法華経を捨てて顧みない国においては、諸天善神が怒りをなして守護されないのは当然である。
 仁王経には「一切の聖人が国を捨てて去る時、七難が必ず起こる」とある。呉王の夫差は伍子胥の諫めを捨てて我が身を亡ぼした。夏の桀王、殷の紂王は忠臣竜蓬や比干を殺して王位を失った。今、日本国はすでに蒙古国に奪われようとしている。どうして嘆かずにいられようか、どうして驚かずにいられようか。日蓮が申すことをお用いにならなければ、必ず後悔されるであろう。日蓮法華経の御使いである。
 法華経法師品第十に「この人は則ち如来の使いであり、如来の所遣として、如来の事を行ずる」とある。三世諸仏の事とは法華経である。
このことを他の方々(建長寺等十か所)へ申し送ってあるから、一所に集めて御評議のうえ、御返事にあずかりたい。所詮はこれまでの諸仏諸神への祈禱をなげうって、諸宗の僧たちと日蓮を御前に召し合わせて仏法の邪正を決していただきたい谷の深い所に松の良材があるのに、これを未だ知らないでいるのは良匠の誤りとなり、闇のために錦衣を見分けられないでいるのは愚人の失である。
 三国(インド・中国・日本)において、仏法の分別は(国主の)殿前で行われた。いわゆる阿闍世王は釈尊の正しさを知り、陳や隋の国主は天台大師の正しさを知り、桓武天皇伝教大師の正しさを知った。
 これは日蓮の身勝手の邪見ではない。ただひとえに大忠を懐くゆえであって、自身のために申すのではない。神のため、君のため、国のため、一切衆生のため申し上げるのである。恐恐謹言。