世界を奥の奥で統(す)べているもの、それが知りたい、また世界のうちに働く力と元素のすべてを見究めたい、
そうなったら、もう言葉を漁ることも要るまいと思ったからなのだ。
空の月も、己の苦しい境涯を見下ろすのが今宵かぎりであってくれればいいが。
いく夜、寝もやらずに、この机に倚(よ)って、お前の差昇ってくるのを待っただろうか。
・・・
なんと、己はまだこの牢獄の中に屈(かがま)っているのか。
呪わしい陰気な、この壁穴の中に。やさしい陽の光さえ絵ガラスの窓に遮られて、濁るではないか。
・・・
お前はこんなところにいて、なぜ胸が息苦しいと訊ねたりするのだ。
なぜ不可解な苦痛が、お前の生命の動きを阻むのかと訊ねるのだ。
神が人間を創って、人間の居場所と定め給うたあの活きいきとした自然の代りに、
煤や黴だらけのこの部屋でお前はただ人や動物の骸骨に傅(かしず)かれているのだ。
逃げ出せ、さあ、広やかな聖霊の世界へ。
そしてこの、高名な占星術者自筆の、神秘の書を友とすれば、お前はその世界へ出て行かれるはずだ。
この書によって星辰の運行を知り、自然の教えを受けたならば、
魂の力が目ざめてきて、聖霊どもの交わす言葉もわかろうというものだ。
こんなところに坐り込んでいたのでは、この書の神聖な記号の解けるはずはない。
お前たち、己のまわりに漂う聖霊ども、己の言葉が聞こえるなら、返事をしてくれ。
(ファウスト、その一巻を繙いて、大宇宙の符に見入る)
うむ、この符を見ると、突如として己の全身に、いうにいわれぬ歓喜が漲ってくるとは不思議だ。
若々しい浄らかな幸福感が新たに燃え上がって、五体の隅々まで流れて行くようだ。
・・・
己に明らかにしてくれるこの符の書き手は、神だったのではあるまいか。
己が神なのか。ひどく心が澄んでくる。
・・・
「霊の世界は鎖(とざ)されたるにあらず、汝の耳目ふさがり、汝の心死せるなり。
起て、学徒よ。誓って退転せず、塵の世の胸を暁天(ぎょうてん)の光に浴せしめよ」
(ファウスト、符に見入る)
すべての物が一つの全体をつくり上げ、一が他と響き合い、作用し合う、この有様はどうだ。
天上の力が昇り降りして黄金の桶を手渡し合う有様はどうだ。
それら一切が、めでたく羽撃(はばた)きながら天上から下界を通じて、美しく調和して万有のうちに響き渡っている。
なんという眺めだ。しかし残念なことに絶景というにとどまる。
どこを捉えたらいいのだ、無辺の自然よ。
お前たち乳房の、どれに縋(すが)ったらいいのだ。
お前たち、天地が懸(かか)り、枯れ衰えたこの己の胸が憧れ迫るいのちの泉よ
―お前たちは惜しみなく湧いて潤すのに、己だけは渇(かっ)していなければならないのか。
・・・
もう力が加わってきたようだ。早くも新しい酒に酔ったような気がする。
思いきって世界の中へ飛び込んで、現世の苦と楽とを一身に受け、吹きすさぶ嵐と戦い、
沈もうとする船の軋みにも臆せぬだけの勇猛心が湧いてきたようだ。
・・・
そうか、地の霊だな、ついに地霊がやってきたのか。姿を現せ。
・・・
さあ、出てこい、さあ。殺すも生かすもお前の勝手だ。
「ファウスト 夜より(一部抜粋)」 ゲーテ 高橋義孝訳 新潮文庫