ファウスト 夜

ファウスト聖霊(アルトゥール・カンプ画)

 

世界を奥の奥で統(す)べているもの、それが知りたい、また世界のうちに働く力と元素のすべてを見究めたい、

そうなったら、もう言葉を漁ることも要るまいと思ったからなのだ。

空の月も、己の苦しい境涯を見下ろすのが今宵かぎりであってくれればいいが。

いく夜、寝もやらずに、この机に倚(よ)って、お前の差昇ってくるのを待っただろうか。

・・・

なんと、己はまだこの牢獄の中に屈(かがま)っているのか。

呪わしい陰気な、この壁穴の中に。やさしい陽の光さえ絵ガラスの窓に遮られて、濁るではないか。

・・・

お前はこんなところにいて、なぜ胸が息苦しいと訊ねたりするのだ。

なぜ不可解な苦痛が、お前の生命の動きを阻むのかと訊ねるのだ。

神が人間を創って、人間の居場所と定め給うたあの活きいきとした自然の代りに、

煤や黴だらけのこの部屋でお前はただ人や動物の骸骨に傅(かしず)かれているのだ。

逃げ出せ、さあ、広やかな聖霊の世界へ。

そしてこの、高名な占星術者自筆の、神秘の書を友とすれば、お前はその世界へ出て行かれるはずだ。

この書によって星辰の運行を知り、自然の教えを受けたならば、

魂の力が目ざめてきて、聖霊どもの交わす言葉もわかろうというものだ。

こんなところに坐り込んでいたのでは、この書の神聖な記号の解けるはずはない。

お前たち、己のまわりに漂う聖霊ども、己の言葉が聞こえるなら、返事をしてくれ。

ファウスト、その一巻を繙いて、大宇宙の符に見入る)

 

うむ、この符を見ると、突如として己の全身に、いうにいわれぬ歓喜が漲ってくるとは不思議だ。

若々しい浄らかな幸福感が新たに燃え上がって、五体の隅々まで流れて行くようだ。

・・・

己に明らかにしてくれるこの符の書き手は、神だったのではあるまいか。

己が神なのか。ひどく心が澄んでくる。

・・・

「霊の世界は鎖(とざ)されたるにあらず、汝の耳目ふさがり、汝の心死せるなり。

起て、学徒よ。誓って退転せず、塵の世の胸を暁天(ぎょうてん)の光に浴せしめよ」

ファウスト、符に見入る)

すべての物が一つの全体をつくり上げ、一が他と響き合い、作用し合う、この有様はどうだ。

天上の力が昇り降りして黄金の桶を手渡し合う有様はどうだ。

それら一切が、めでたく羽撃(はばた)きながら天上から下界を通じて、美しく調和して万有のうちに響き渡っている。

なんという眺めだ。しかし残念なことに絶景というにとどまる。

どこを捉えたらいいのだ、無辺の自然よ。

お前たち乳房の、どれに縋(すが)ったらいいのだ。

お前たち、天地が懸(かか)り、枯れ衰えたこの己の胸が憧れ迫るいのちの泉よ

―お前たちは惜しみなく湧いて潤すのに、己だけは渇(かっ)していなければならないのか。

・・・

もう力が加わってきたようだ。早くも新しい酒に酔ったような気がする。

思いきって世界の中へ飛び込んで、現世の苦と楽とを一身に受け、吹きすさぶ嵐と戦い、

沈もうとする船の軋みにも臆せぬだけの勇猛心が湧いてきたようだ。

・・・

そうか、地の霊だな、ついに地霊がやってきたのか。姿を現せ。

・・・

さあ、出てこい、さあ。殺すも生かすもお前の勝手だ。

 

ファウスト 夜より(一部抜粋)」 ゲーテ 高橋義孝訳 新潮文庫

 

ファウストメフィストフェレス(ギュスターヴ・ドレ)

日興遺誡置文

1五一相対(ごいちそうたい)を示して訓戒す


さてよく考えてみると、末法に弘通される太陽のごとき仏法は極悪の謗法の闇を照らし、久遠寿量の南無妙法蓮華経という妙なる風は釈尊伽耶城(がやじょう)の近くにおいて始めて覚りを成じたという権教を吹き払った。この仏法に巡りあうことは、まれなことであり、優曇華うどんげ)の花の咲くことに譬えられ、また、一眼(いちげん)の亀が浮木の穴にあうことに譬えられる。それでも足りないぐらいである。ここに我等は、宿縁が深く厚いことから、幸いにもこの経に巡りあうことができた。従って後代の門下のために、個条書きにして一つ一つの項目を書き遺したのは、ひとえに広宣流布せよとの日蓮大聖人の御言葉を仰ぐためである。


一、日興門流が立てている教義は、いささかも先師・日蓮大聖人の御化導に相違していないこと。


一、五人の立てた教義は、一つ一つ先師・日蓮大聖人の御化導に相違していること。


一、日蓮大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、日興門流を誹謗する者があるであろう。  もしそのような悪侶が出現したら、親しみ近づいてはならない。


一、偽書を造って御書と称し、本門・迹門は一致であるとして修行をする者は師子身中の虫であると  心得るべきである。


一、謗法を呵り責めることもなく、遊び戯(たわむれ)れ、雑談等の振る舞いに明け暮れたり、  外道の書物や歌道を好んではならない。


一、信徒の神社・仏閣への参詣を禁ずるべきである。まして、僧侶の身でありながら、  一見と称して謗法を犯し悪鬼が乱入している神社に行ってよいはずがない。(そのような僧侶がいることは)返す返すも残念なことである。  これは、全く私が勝手に言っているのではない。  経文や御書などに説かれている通りに戒めているのである。


2  門下に行学二道(ぎょうがくにどう)への精進を促(うなが)す


一、才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸(もろもろ)の用事をしなくてもよいようにし、  御書をはじめとして仏法のさまざまな教えを学ばせるべきである。


一、(仏法の)学問がまだ完成していないのに、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)を考える僧侶は、  私(日興上人)の末弟ではない。


一、 私(日興上人)の後代の弟子たちは、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、  父母や師匠の恩を振り捨てて、生死の苦しみから出て仏道を証得するために、この寺に登って  学問をすべきである。


一、大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない。


一、日興門流においては御書を心肝(しんかん)に染め、極理(ごくり)を師から受け伝えて、  その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである。


一、(仏法についての)論議や(正法の)講義、説法を好むべきであり、  それ以外のものは慎まねばならない。


一、広宣流布は成就しない間は、身命を捨て、おのおのの力に随(したが)って妙法弘通に励むべきである。


3  仏法護持の根本精神を示す


一、我が身は軽く法は重しとして仏法実践に励んでいる者に対しては、たとえ下劣の法師であっても、  「当(まさ)に仏を敬う如くにすべきである」との道理にのとって、その人を敬うべきである。


一、妙法を弘める法師は、  たとえ身分の低い者であっても、(修行を積んだ)老僧のごとく思って敬うべきである。


一、たとえ位の低い者であっても、自分より智慧がすぐれている人を、師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。


一、たとえ、時の貫首(一宗の法主)であっても、仏法の正義(しょうぎ)に背いて、  勝手な自説を立てた場合には、これを用(もち)いてはならない。


一、たとえ宗内の多数で議決したことであっても、  (大聖人の)仏法と相違があるならば、貫首(一宗の法主)はこれを打ち砕くべきである。


4  日興門流の化義(けぎ)を示す


一、法衣(ほうえ)の色を黒くしてはならない。


一、直綴(じきとつ=法衣の一種)を着てはならない。


一、謗法と同座してはならない。与同罪(よどうざい)になることを恐れるべきである。


一、謗法の者から供養を受けてはならない。


一、刀や杖等の武器を持(たも)つことは、仏法を守るためであれば許される。  ただし、仏前に出る時には、身に帯びるべきではない。  ただし(その時でも)、一般の衆僧等の場合は(自衛・護衛のために)許してもよいのではないか。


一、たとえ若い僧侶であっても、位の高い檀那より下の座にいてはならない。
 
一、先師・日蓮大聖人のように、私(日興上人)の門下の振る舞いも聖僧であるべきである。  ただし(将来において)時の貫首(一宗の法主)、あるいは習学中の僧などが、  一時的に女犯をしたとしても、(破門せずに)平僧にしてとどめておくべきである。


一、難問答に巧みな仏道修行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえるべきである。


5  二十六箇条厳守を遺誡する


右の条目は、大略以上のようであるが、未来永劫にわたり、一切衆生を救い護るために、二十六か条を定め置くのである。後代の僧侶はあえて疑惑を生ずることがあってはいけない。このうち一か条でも犯す者は、日興の門流ではない。よって定めるところの条目は以上の通りである。


元弘三年 酉癸 正月十三日     日  興 判

グラミン銀行(ムハマド・ユヌス博士)

2006年にノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行と設立者であるムハマド・ユヌス博士が聖教新聞に紹介されていましたので以下、抜粋いたします。



ムハマド・ユヌス博士


SDGs×SEIKYO〉利他の精神に基づく新たな文明を ノーベル平和賞受賞者 ムハマド・ユヌス博士
2022年12月14日
インタビュー:貧困ゼロの世界をつくる

 

1日当たりの生活費が2・15ドル(約300円)未満で暮らす「極度の貧困層」は、本年末の時点で6億8500万人に上ると推計されています。バングラデシュの経済学者であり、2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士は、長年にわたり、貧困の撲滅と女性のエンパワーメント(能力開花)に取り組んできました。SDGsの目標1には「貧困をなくそう」、目標5には「ジェンダー平等を実現しよう」が掲げられています。人間の可能性をどこまでも信じ抜き、地球的課題に立ち向かい続ける博士に、より良い未来を築くための方途を聞きました。(取材=サダブラティまや、山科カミラ真美)

 

◆信頼によって築かれた銀行
 


グラミン銀行

――ユヌス博士は、1983年に貧困者を対象とした銀行を設立しました。ベンガル語で「村の銀行」を意味する、グラミン銀行です。きっかけは、74年にバングラデシュで発生した大飢饉。当時、南東部のチッタゴン大学で経済学部長を務めていた博士は、飢えに苦しむ人々の現実と、自身の教える美しい経済理論の間に大きな矛盾を感じ、貧困問題に携わるようになりました。
  
 飢饉が起きた時、私は貧困の実態をつかみたくて、大学から近いジョブラ村に赴きました。そこで出会ったのが、悪徳な金貸しから借りたわずかな額を返済するために、奴隷のように働く女性たちでした。

 何とか彼女たちを救いたいとの、やむにやまれぬ思いが、銀行設立につながりました。

 始まりは小さなことです。自分のポケットマネーから、女性たちが借りていた同等の金額を貸し付け、借金を肩代わりしたのです。

 それが次第に広がり、「マイクロクレジット」と呼ばれる、無担保で少額の融資を行うアイデアに発展しました。

 本来、お金に困っている人を助けるのが銀行です。しかし、既存の経済システムの中では、資産も技術も持たない極貧層は、完全に対象から外されていた。

 バングラデシュの銀行に、貧困者への融資をお願いしましたが、皆が鼻で笑い、真剣に取り合ってはくれませんでした。

グラミン銀行の特色は、お金を借りる際、担保や法的な文書を必要としないことです。従来の銀行からは、あらゆる批判を受けました。

 「貧困者に無担保で融資なんて、あり得ない」「ビジネスは都市部でしか成立しない」「女に金は扱えない」……。そんな“常識”を突き付けられるたびに、正反対の方法をことごとく実践してみたのです。

バングラデシュの農村風景


 女性たちがきちんと返済できるのか、私にも確信はありませんでした。でも、生まれた時から、人間以下の扱いを受けてきた彼女たちに、“私もできる!”という自信を持たせてあげたかった。どのような可能性があるのかを試さずして、新しい未来は築けません。

 現在、グラミン銀行は、バングラデシュ国内だけで1000万人以上に融資をしており、うち98%が女性です。返済率はほぼ100%。こうしたグラミンふうのプログラムは、アメリカをはじめ、世界中に広がり、多くの人を窮状から救っています。「不可能だ」と言った者たちの言葉を見事に覆すことができたのです。

 
◆女性が立ち上がれば未来は変わる

 ――グラミン銀行は、貧困の撲滅だけでなく、女性の地位向上やエンパワーメントにも多大な貢献をしてきました。貧困のない世界をつくる上で重要な、女性の役割を教えてください。
  
 戦争や貧困の中で、最も犠牲となるのは女性です。彼女たちは、わずかな食べ物を夫や子どもに譲り、自分は我慢します。社会的、政治的、経済的に脆弱な立場に置かれるのは、いつも女性なのです。

 私は、グラミン銀行の事業を通して、女性に融資をした方が、真っ先に家庭や子どもに利益がいくことに気が付きました。男性は、すぐに自分のために使ってしまう傾向があるからです。

 女性たちはチャンスさえあれば、男性以上に努力をします。惨めな境遇から抜け出したいとの意志が強く、苦労を厭わない。失敗しても諦めない。女性を自立させることは、社会全体の貧困と戦うことにつながるのです。

 

また、グラミン銀行では、借り手の子どもたちが、明るく価値ある未来を築けるよう、教育ローンも提供してきました。

 母親は学校に行けず、読み書きができなかったとしても、次の世代が同じ道をたどってはいけません。この制度によって、大学に進学し、修士課程や博士課程に進んだ人もいます。エンジニアや医師になった人もいます。人生を切り開く力は、その人の中にあり、誰かにすがって生きていく必要はないことを証明しています。

 私は、こうした現実を目の当たりにするたびに、環境さえ整っていれば、母親だって、子どもと同じように自身の才能を開花できたはずだ、と思います。そして、“貧困は決して貧しい人々が生み出したものではない。貧困の責任は貧しい人々にあるのではない”との確信を、ますます強めていったのです。


(以上、聖教新聞2022年12月14日記事より)
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続きは、以下の聖教オンラインでどうぞ。
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このような銀行が世界に存在することを大変誇らしく思います。

とはいえ、資本主義経済の世の中、綺麗事ばかりでは立ち行かないのも現実。
貧困層を対象にしたビジネスを現実的に存続させるのは大変だったそうです。

1998年には、バングラデシュで大洪水が起こり、借り手である貧困層の住宅や生活基盤の田畑が浸水する危機があり、都市部にある銀行まで足を運べないことや返済方法に苦しむ借り手のために様々な工夫もこらしてきたといいます。
それらをどのように乗り越えてきたか、こちらの記事にも詳しく紹介されています。↓

 

グラミン銀行~進化する貧困層を対象に金融サービスを提供するビジネスモデル~
何故グラミン銀行貧困層に金融サービスを提供できたのか
https://www.jica.go.jp/bangladesh/bangland/cases/case20.html

 

内村鑑三が語るジョン・ロック 人権思想はいかに実現されてきたか

『代表的日本人』の著者として有名な内村鑑三は、クラーク博士のいる札幌農学校で同期の新渡戸稲造らとともにキリスト教の洗礼を受け、アメリカに渡ってからは知的障害施設で介護人として働きながら、伝道者の道を志します。しかし宣教師たちからは、日本人はキリスト教を知らぬ暗黒の国の人間であると、差別と偏見を受けます。この時、同期の新島襄に、伝記を読むように勧められ、日蓮など敬虔な信仰の道を貫いた生きざまを見て、ルターにも比肩する人物がいたことに深く感銘を受けます。

また大日本帝国時代の国家主義が蔓延する社会からは、明治天皇教育勅語発布の奉拝式で、勅語と署名に奉拝をしたが、それが一部の者に礼を欠いたととられ、さらに帝国大学の教授の非難によって加熱し、宗教界、教育界、政界、マスコミ各界で大論争となっていきます(不敬事件)。日本中から非難と迫害を受けた内村は、教職を辞すこととなり、生活は困窮。不敬の人物として全国に知れ渡り、旅館の宿泊も断られ、自殺を考えるほどとなります。さらに病身の妻を失うなど不遇の時を過ごしました。この時、友人であった新渡戸稲造徳富蘇峰国木田独歩らに世話になっていたようです。

このように天皇主義が蔓延する世の中で、世間の人々から激しい非難を浴びながらも、彼は日本人としての誇りを持ち続け、代表的日本人5人(西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮)を挙げて、自ら英語で執筆して世界へと紹介したのです。

 

内村鑑三

 

このように国内外で迫害を受けた内村が、西洋社会における人権思想の成り立ちは、ある一人の人物のすぐれた思想が伝播し、啓蒙の波を起こしたことで国家主義からの大転換がなされてきたことを、以下のように感慨深く述べています。

 

内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』1946 岩波文庫 p.43-44>より抜粋

イギリスに今からして二百年前に痩っこけて丈(たけ)の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店のようなところに住まって・・・何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というのは人間というものは非常な価値のあるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。それで17世紀の中ごろにおいてはその説は社会にまったく容れられなかった。その時分にはヨーロッパでは主義は国家主義と定まっておった。イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でごさいました。その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行できないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私(ひそ)かに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう。ジョン・ロックであります。その本は"Human Understanding"(『人間悟性論』)であります。しかるにこの本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに1790年(ママ)フランスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした。・・・それから合衆国が生まれた。それからフランスの共和国が生まれた。それからハンガリアの改革があった。それからイタリアの独立があった。実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした栄光は非常にあります。

 

ジョン・ロック

 

彼が挙げる「代表的日本人」の一人に日蓮がいます。日蓮もまた、西洋で人権思想が芽生える遥か以前の13世紀に、天災や飢餓で民衆が苦しむ中、鎌倉幕府の時の権力者に「立正安国論」を上奏し、仏と衆生、そして環境世界との関係を経文を挙げて、一切衆生の仏知見を開かしめる法華経に根差して民衆救済すべしと訴えたのでした。しかし幕府は、立正安国論に述べられた深き意義を理解しようともせず、あろうことか日蓮を迫害し、処刑を試みたり流罪にしたのです。

 

同じく13世紀のイギリスで絶対王政を支えていたのは王権神授説という考えでした。これは、人間は神の被造物というキリスト教の思想に由来するもので、王権とは、神から授かった絶対的な権力であるので、人間はその支配下に置かれなければならないというように、権力維持の論拠として利用されていました。民に兵役や重税を課す王の横暴から諸侯が反乱を起こし大憲章(マグナカルタ)がつくられます。このとき「王もまた法治下にある」ということを約束したものの、絶対王政をくつがえすほどの力とはなりませんでした。この思想的根拠を転換したのがホッブズで、彼は人間を神の被造物ではなく「物質」ととらえ、人間は「自然状態」であり、「国家と人間は契約によって結ばれている」と述べて、王権神授を退けたのでした。これにルソーが「革命権」や「抵抗権」などを加えて、国家に対する人権の優位をより確かなものとしていったのです。

 

このように、ある政治体制の背景には必ず何らかの思想的基盤があるわけです。絶対王政の背景にある王権神授説。そして人権思想を芽生えさせた王も民もともに自然状態であるという思想。鎌倉時代日蓮の時代は、主に念仏、そして真言、禅だったといえるでしょう。大日本帝国は、憲法はあったものの、民主主義とは名ばかりの国家主義であり、主権は天皇にあり、国民は天皇に隷属する臣民。天皇陛下のために命を捨てよと戦争に駆り出され、多くの若者や国民がかけがえのない命を失ったのでした。

 

戦後民主主義となってからは、天皇は象徴天皇となり、国民の自由と人権が憲法で保障される主権在民の世の中となります。しかし今度は、格差や貧困、心の貧しさから生じる新たな問題に直面しています。哲学不在の大空位時代といえるかもしれません。人間はただの物質ではなく、可能性を持った尊厳ある存在です。政治と宗教の関係や、宗教への忌避感が高まる昨今、物事を単純化し、理解しがたいものを排斥しようとする傾向が見られます。しかし哲学の根源にあるものこそ宗教であり、人間に物質であること以上の尊厳を見出せるのは無神論唯物論ではなく、宗教的次元における生命観といえるでしょう。すぐれた宗教とは、包摂的であり寛容であるとともに、誤った思想を峻別する思想性を持つのです。仏法的には、円融・具足とか教相判釈と呼ばれます。絶待妙、相対妙ともいいます。これが一般的には理解されにくい点ではありますが、まさに妙法の持つ性格ともいえます。宗教のための人間ではなく、人間のための宗教であらねばならないし、人間に対する糾弾ではなく、誤った思想・哲学に対する糾弾でなければならないのです。日蓮はそのために諸宗に法論を挑んだのですが、かえって命を狙われるなどの迫害を受けたのです。そして日蓮は攻撃的で排他的であると誤った論評が長らくされ続けてきました。しかしそうではないのです。全く逆なのです。相手に尊厳ある仏性をみとめるからこそ思想・教え、法の優劣と正邪を議論や対話で明らかにしようとするのです。「どれも似たようなもの」「どれも正邪優劣はなく尊重すべき」。これは一見聞こえがいいのですが、宗教はどれも同じではありません。またすぐれた法をめぐり議論していくことは重要な意味があります。人権や人間の尊厳をただのルールではなく、真に実りあるものにするものは、あらゆる人々が人間の底力を示すことのできる普遍的な信仰であると思います。したがって宗教的知見を持っていくことが大事なのです。民主主義の成熟も、その国に生きる人々が、普遍的な信仰と精神性によって成熟していくことにかかっているといえるでしょう。

オーロラが発生するしくみ

オーロラはどのように発生するのでしょうか?
北極や南極など、地球の極地でのみ見られる現象です。


大雑把にいうと、太陽フレア(爆発)によって放たれた太陽風に含まれる(電離してイオン化した)高エネルギーの粒子が「地球の磁気圏」に到達したあと、太陽と反対側(夜側)に吹き流された磁気圏の長い尾の部分(プラズマシート)に滞留し、その後、地球の磁力線に沿って降下し、地球の上層にある電離層(成層圏や中間圏のさらに上)にある酸素原子窒素原子と衝突して各原子が励起(高いエネルギーを持った不安定な状態となる)され、(それがまた、エネルギーの低い状態に戻るときに)光を放ち(放電)、地球の極地周辺でリング状に(とくに夜側で強く)発生する現象です。
(とはいえ、まだわかってないことも多いようです)

 

太陽風と地球の磁気圏

地球には「磁気圏」と呼ばれる厚い磁場の層があります。

地球は巨大な棒磁石のようなもので、北極側がS極、南極側がN極であるため、方位磁石を使うと、N極の針はS極のある北を常に指します。この磁石は南から北へ向かう磁力線があり、これにより作り出された磁場が、地球をドーナツのように取り囲み(ヴァン・アレン帯といいます)、宇宙から地球に降り注ぐ有害な放射能や紫外線を防いでいるのです。

 

 

プラズマシート(吹き流された磁気圏の尾)

プラズマシートという磁気圏の長い尾の部分に太陽風のエネルギー(プラズマ)が滞留します。その後、地球の磁力線に沿って高速で降下していきます。

 

 

さてその後、磁力線から侵入した太陽風のプラズマと地球の大気とが衝突するのですが、この時に熱圏という電離層にある酸素原子や窒素原子が励起という状態を起こして、光(電磁波)を放出しオーロラとなります。原子から光や電気、音が放たれるのです。それは原子の持つ、電気的なエネルギーの性質によるものです。

 

 

原子が持つ電気的な性質

原子は、原子核と電子からなり、原子核はプラスの電荷(電気)を帯び、電子はマイナスの電荷を持っており、普段はプラスとマイナスが安定した状態になっています。このバランスが失われ、プラスかマイナスのどちらかに偏ると電気的な状態(イオン)となります。このプラスイオン(電子を失ってプラスの電荷を帯びた状態の原子)と電子が分離し、混在した状態の気体がプラズマです。

 

 

太陽、オーロラ、雷、炎、蛍光灯などもプラズマ

銀河団、太陽、オーロラ、雷、炎、蛍光灯はプラズマです。

プラズマは、固体、液体、気体(物質の三態)のどの状態とも違う「第4の状態」ともいわれます。宇宙に存在する質量のうち、なんと99%以上がプラズマの状態にあるといわれます。固体、液体、気体は全質量のうち1%未満しかないのです。

 

 

地球の大気の上層部にある電離層(熱圏)では、宇宙からの紫外線やX線により、酸素原子や窒素原子が電離(イオン化)した状態となっており、全体としてプラズマとなっていて、電波を反射する性質を持っています。ここで有害な紫外線を弾いています。

オーロラは、この電離層で生じる現象です。

太陽風のプラズマと電離層の酸素原子、窒素原子が衝突して、励起し、光を放ちます。

上空100km~150km圏は大気の密度が高く、オーロラの光は緑色のカーテンとなり、さらにその上空150km~200km圏では大気の密度が薄く、赤色のカーテンとなる。それぞれの色は、原子から放たれる波長の違いによって異なる色となって現れます。

 

 

励起とは、原子が安定した状態からエネルギーを持った状態になること

励起とは、外部からのエネルギーや熱、粒子の衝突などによって、原子核を周回していた電子が軌道を変え、外側を周回するようになることで、高いエネルギーを持った不安定な状態(励起状態)となることを指します。これが元の軌道(基底状態)に戻る時に、発する光がオーロラです。

 

 

太陽からやって来たエネルギーと地球の大気が触れ合って、〝励まされて〟、元気になって光り輝く、といえばわかりやすいですね。

 

このような原理を解明したのはビルケランドというノルウェーの物理学者で、オーロラは、宇宙から強力な電流が流れ込んで生じることを実験によって証明したそうです。

このことから太陽風と地球磁場の交錯は、自然の大発電所とも考えられます。

オーロラの光を電力に換算すると、100万メガワット~100億キロワットにもなるそうで、日本とアメリカの電力量を補って余りあるほどの大電力だそうです。いつか、これをクリーンエネルギーとして活用する未来が到来するかもしれません。

 

大地から発生するオーロラもあるそうです。

 

ISS国際宇宙ステーション)から見たオーロラと夜景

 

法華経の題目は日輪と雷との如し

日輪とは太陽、太陽も雷もプラズマです。

一念のエネルギーが大宇宙に遍満します。

 

日本でも北海道では見られるそうですが、

いつか荘厳な光のカーテンをこの目で見てみたいです。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

「南無妙法蓮華経」は釈尊から授かりし一切衆生成仏の「法」

最近、ある哲学者の方の仏教本を読んでいたら、南無妙法蓮華経というのはおかしいと書いてあり愕然としましたので、一言、反論しておきたいと思います。故人の方なので本人には伝わらないでしょうが。

 

梅原猛氏という著名な方で、書かれた著書では仏教の授業をされているのですが、私はブックオフでたまたま見かけてパラパラとめくったら、法華経のことにも触れられていたのでとりあえず買ったわけです。それで法華経に関してどのような見識をお持ちだろうと家に帰って読んでみましたところ、「法華経の題目」について、この方は本当に仏教を知っている方かと疑わしくなるほどの、まるで仏教的知見のない素人が感想を述べただけのような書きぶりであったわけです。

 

それが些末な部分なら大して気にもしませんが、「法華経の題目」は信仰の根幹であり、日蓮大聖人の魂ともいうべきものです。しかも同氏は著名な人物であり「仏教の授業」と銘打ったタイトルの本でもあるため、到底看過することはできません。

 

日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」

 

大聖人門下として、また朝夕題目を唱える行者として、著名な人物ではありますが、以下、梅原氏の浅識を指摘いたします。同氏については、創価学会関連の著書でも何度となく言及され、よく知られた人物でありますが、以下に引用する点に限っては、きわめて表層的・素人的見識であり、日蓮大聖人のご真意や、法華経の虚空会の付属なども全くご存じないのであろうと思われました。

 

梅原猛の授業 仏教』P200、南無の意味と念仏の説明につづき、

「ところが、日蓮はそれに対して『南無妙法蓮華経』ととなえよという。妙法蓮華経というのは法華経の題目といいますか、法華経という書物の名前です。だから、おかしいんですね。普通だったら『心から○○さまに帰依します』という。ここに仏の名前がこなくちゃいけないのですが、日蓮は経典の名前をもってきた。書物の名前が仏さまになっちゃった。『心から法華経さまに帰依します』というわけです。・・・・・・私は哲学をやりましたが、ドイツの哲学者カントの『純粋理性批判』を読まないと哲学者じゃないと言われた。そうしたら『南無純粋理性批判』ということになります。この間まで、日本ではマルクスの『資本論』が聖典のように考えられたんですが、『南無資本論』という信仰が流行したといえます。それと同じで『南無妙法蓮華経』というのは大変おかしなものですが・・・」

 

梅原氏は、「妙法蓮華経というのは法華経の題目といいますか、法華経という書物の名前です。だから、おかしいんですね。普通だったら『心から○○さまに帰依します』という。ここに仏の名前がこなくちゃいけないのですが」といっているが、まず妙法蓮華経というのは経典ですが、同時に釈尊が説いた成仏のための「教え」であり、「法」であって、たんなる思想書のような本ではないのです。

例えば、方便品をざっと見るだけで以下のような文言がみられます。

 

第一の稀有なる難解の法

甚深微妙(みみょう)の法

甚深微妙にして解り難き法

不可思議の法

わが法は妙にして思い難し

かくの如き妙法

一乗の法

最妙第一の法

 

本来、仏法において帰依すべき対象は、「仏」ではなく「法」でなければならないのです。しかも法華経のさとりは、それ以前のさとりとは程遠いほど深遠であり、声聞辟支仏の理解の及ぶところではない、と方便品でその智慧の深さが強調されています。したがって、本来、書物などで説明し、「はい、わかりました」といえるような性質のものでは到底ないわけです。言語を絶する法なのです。

 

しかし一般的にも、仏教とは仏菩薩をありがたく崇拝するというイメージを持つ人は多いと思います。これは、諸宗の寺で本尊として奉られているのが仏や菩薩像であることから、「本尊とは仏や菩薩であるのが通常」と考える人が多いせいでしょう。しかしこれらの仏像は、釈尊滅後にブッダが神格化される中で図像化されるようになっていったのです。そのため数多くの宗派や各々が掲げる本尊が乱立し、本当に正しい仏教は一体何なのか、どれであるのか不明瞭なまま現在に至っているのです。

 

法華経では、仏が常住でありながら入滅したとみせる(方便現涅槃)のは、如来(仏)がいつも姿を現していて、衆生がいつでも如来に会えると思うようになれば、だれも(解脱しようという)菩提心を起こさなくなるからと説明されています。そして仏滅後(方便として涅槃を現じたあと)は、衆生は自身の遺骨や仏塔を崇拝し供養するであろうといいます。しかし、ここで述べられている真意は、決して遺骨や仏像に、帰依すべき仏が宿っているわけではないということです。それは偶像崇拝に他なりません。

 

余がそこに立っているにかかわらず、余を見ることはない。彼らは世の肉身が完全に滅したと考え、遺骨にさまざまの供養をする。」(法華経如来寿量品、梵文訳)

 

釈尊は涅槃経において「自灯明法灯明」(自らを拠り所(灯明)とし、法を拠り所(灯明)とせよ)といって、「法」に帰依すべきことを勧めています。また同経では「依法不依人」(法に依って、人に依らざれ)ともいっています。偉い「仏さま」に帰依するのではなく、自らの中にある「法」を拠り所とせよ、といっているのです。

 

仏とは自身とは異なる人格や存在をさすのではありません。たとえば、仏法に入信(入門)する際、「釈尊に帰依する」、「日蓮に帰依する」と表現されることがありますが、それは釈尊日蓮を師として弟子入りするという意味であって、信仰の対象ではないのです。釈尊日蓮などの師にしたがって、仏法に縁し、自らの仏の境涯を開いていけることは非常に重要な要素です。しかし、これらの師は善知識であり、指導者であって本尊ではないのです。これは経典の記述にも誤解を生じさせている要因があると思われますが、例えば、法華経には、釈尊が仏となるに至るまでに無数の仏に親近し、供養したという表現がみられますが、おそらく歴史的過程において、供養と本尊への帰依という概念が、いつの間にか混同されるようになったせいかもしれません。

供養とは、師や阿闍梨(指導者)を尊敬したり、供物を捧げることも含まれますが、本尊とは「根本尊敬」という意味であり、根本というのは、一つの究極の法を指すから根本のです。根本がいくつもあるのはおかしいわけです。それはつまり、その究極の法によって、多くの仏菩薩も成仏しえたというものです。それが「南無妙法蓮華経」という法です。法ですが、「南無妙法蓮華経如来」という表現ももちいられます。寿量品では「久遠実成の釈尊」として語られます。これらの関係は、「法報応の三身」や「境智冥合」として論じられますので、ご参照ください。

 

「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(一生成仏抄)

 

妙法以前の大乗経典では、究極の覚りを「空」と考えたり、他力としての「仏」に帰依して浄土を願うわけですが、それは妙法からみれば、麤法であり仮の教えです。妙法では、「仏」とは一切衆生の心の中にある生命であり、それに気づかせ、仏知見を開き、仏の境涯に至らせようというのが仏の出生の目的なのです。これは法華経の方便品に書かれています。ですから上に挙げた御文のように、もし我々の心や生命以外に仏の存在を求めるならば、それは妙法ではなく方便権教という仮の教えであるので、一生成仏はできないと厳しくご指南されているのです。

 

ですから梅原氏が、帰依すべき対象は○○様という「仏」でなければならないと考え、さらにその仏を衆生の心の外に求めているとすれば、それは妙法以前の権教の見方となります。そしてその感覚のままに、法華経を「法」ではなくカントの哲学書を例に挙げて単なる「書物」ととらえ、書物に帰依する南無妙法蓮華経はおかしい、と短絡的に論じられているのです。

 

「なぜ釈尊を本尊(帰依の対象)にせず法華経の題目を本尊にするのか?」との問いに対し、日蓮大聖人は以下のように答えています。

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)

 

このように法華経には久遠実成の仏やそれ以外の諸仏が登場しますが、皆、妙法によって成仏したのであり、その成仏の「種」である妙法を「父母」にたとえています。「能生」とは根源の法という意味です。

 

「釈迦如来阿弥陀如来薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ、諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕わさずとおぼしめせ法華経一切経に勝れ候故は但此の事に侍り」
(唱法華題目抄)

 
「当世の学者は法華経の題目と諸仏の名号とを功徳ひとしと思ひ又同じ事と思へるは瓦礫と如意宝珠とを同じと思ひ一と思うが如し」
(題目弥陀名号勝劣事)

 

またこのように、あらゆる仏菩薩は法華経という法によってのみ成仏したのであり、仏菩薩に帰依しても、それは仮の教えであり不完全なので、一切衆生を救うことはできず、功徳の大きさも同じではない、と仰せです。この「法」と「仏」の関係は、「法報応の三身」としても説明されます。

 

また法華経にも種々の法華経があり、法華経の中には過去に様々な仏が説いた各種の法華経があると書かれています。例えば、日月灯明仏、大通智勝仏、威音王仏、不軽菩薩などが説いた、それぞれ字数も、説かれた時間も異なる法華経があります。これは法華経が説かれたのは二千年前の釈尊の時代が初めてではなく、それ以前の遥か過去においても、多くの仏によって法華経が説かれてきたことを示しています。それは、それぞれ形態は違ってても、一切衆生を成仏させる法として一貫しているのです。また我々の知る時代においても、正法・像法・末法それぞれの法華経があり、正法時代の法華経は「二十八品の法華経」ですが、末法では「南無妙法蓮華経」が末法法華経となるのです。それはなぜそうなるのかというと、「二十八品の法華経」の中に各時代を結びつける由来が述べられているのです。

 

南無妙法蓮華経そのものが、末法法華経であり「法」なのです。ですから、梅原氏のいうように南無妙法蓮華経とは、”「二十八品の法華経」に帰命する”という単純な意味ではないのです。「二十八品の法華経」はあくまで正法時代の法華経です。末法においては効能書き(説明書)の意義はありますが、丸薬ではないのです。南無妙法蓮華経こそが丸薬なのです。正法、像法と時代が進むにつれて二十八品の法華経は、経典の効力を失っていき、しかもそのあとの時代、つまり末法は濁世と呼ばれる娑婆世界があり、人々の信仰心は薄れ、疑い深く、弘教が困難であるが、一体誰が弘教するのかということが法華経の中で問題となります。しかし釈尊を囲んで説法を聞く菩薩たちは当初、「娑婆世界では弘教したくない」と難色を示します。素直な人々が住むという他土で仏道修行がしたいというわけです。しかし、やがて娑婆世界で法を弘めたいと決意する菩薩があらわれますが、釈尊はそれをやめよと制止して、大地から地涌の菩薩を呼び出し、彼らに未来の弘法のために一切の法を託すのです。この地涌の菩薩というのは、釈尊が久遠の過去から調熟してきた真の弟子たちです。彼らは金色に輝いているのですが、その地涌の菩薩の代表である四菩薩、その上首である上行菩薩に一切の法を託す儀式が行われます。これを「結要付属」および「総付属」といい、託された法を「四句の要法」といいます。では、この上行菩薩とは誰なのか。それがまさしく日蓮大聖人なのであり、それ以外には誰もいないのです。法華経は、インドから中国に伝わり天台大師やその弟子たちが研究を深め、日本に伝わってからは聖徳太子が講釈し、日本天台宗の開祖である最澄法華経こそが最高の経典であると考えていました。また鎌倉時代には、その比叡山のもとで多くの僧が学び、各宗派を立ちあげていったのですが、法華経一切法を授かった上行菩薩であると自ら自覚し、民衆の中で逞しく弘教した人物は、法華経流伝の二千年以上の歴史の中で日蓮大聖人をおいて他にいません。また日蓮大聖人が顕した曼荼羅御本尊は、法華経の虚空会の儀式で釈尊から授かった一切法(四句要法)を大聖人ご自身の内証の覚りとしてあらわしたものなのです。ですから、このような深い意義のある御本尊・南無妙法蓮華経に対して、書物に南無をつけるのはおかしいというのは、全く的外れで浅はかな見識なのです。

 

日蓮はこのようにいってます。

「仏法は時により機によりて弘まる事なれば云うにかひなき日蓮が時にこそあたりて候らめ。所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く「蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候」(曾谷入道殿御返事(如是我聞事))

 

経典には、「文・義・意」があり、経文上の文字は教えや道理を含み、またその文底には仏の真意、心があるのです。つまり、「妙法蓮華経」をただの経典の題名と思っている人がいるがそうではなく「体」であり「心」であると。

 

「御義口伝に云く此の妙法蓮華経釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華経上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(御義口伝)

 

「此の妙法蓮華経釈尊の妙法には非ざるなり」とは、南無妙法蓮華経とは、末法において功力を失った「二十八品の法華経」ではないと。日蓮大聖人が釈尊法華経を通じて得た覚りであり、末法において、一切衆生を救う力を持った末法法華経であることを示しています。法華経不軽菩薩品には、「正法・像法の滅尽の後、この国土において、復(また)仏出てたもうこと有りたり」と、正法、像法を過ぎた後の(末法の)時代に新たな仏が出現する原理が示唆されています。例えば、現代と二千年前を比べても、それぞれの時代に生きる人々の価値観や言葉遣いは大きく異なっています。仏法は対機説法であり、時代時代の価値観や衆生の理解力に応じて説かれるものなのです。ですから、このように各時代ごとに仏が現れて、その時代に生きる人々にもっともふさわしい形での教えが説かれる必要があるのです。

 

また、つづいて梅原氏の同書P202では、

日蓮のお題目は法然の念仏からヒントを得たのに違いないんですが・・・」

と、日蓮大聖人が法然の念仏をみて思い付きで南無妙法蓮華経をつくったかのようにいってますが、まず南無妙法蓮華経という言葉自体が、法然上人よりずっと以前から存在していたのであり、日蓮大聖人も御書で言及されてます。


「題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、正法には天親菩薩・竜樹菩薩・題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(三大秘法禀承事)

また南岳大師の他に、天台大師、伝教大師最澄)、菅原道真源信藤原道長が願文などにおいて「南無妙法蓮華経」と書き著している記録があります。いずれも法然上人が出生される以前のことです。このように歴史的に法華経を信奉した人々によって「南無妙法蓮華経」という言葉が受容されていたのです。ただこれを御本尊として顕したのは日蓮のみであり、それには特別な意味があります。

もちろん唱題行として確立する上で、また御本尊を顕すうえで、当時流行していた称名念仏密教曼荼羅から、何らかの啓発を受けた可能性はありますが、仏の名を声を出して称える(称名仏)こと自体は、法華経観世音菩薩品や陀羅尼品などにみられ、そもそも法然の発案ではありません。

また念仏自体が法然にとって比叡山での師にあたる天台僧、源信の観想念仏、称名念仏の考えを引き継いだものであり、そもそも法然が自ら編み出したものではありません。ですから梅原氏の「日蓮のお題目は法然の念仏からヒントを得たのに違いない」という解釈は、由来や経緯に関して無知と誤謬が含まれていると思われます。

法華経曼陀羅は、法華経の虚空会の儀式をあらわし、釈尊からの付属に由来する必然性があるのであり、単に念仏からヒントを得て思い付きで取って付けたというものではないのです。

 

さらに、

「そしてお題目をとなえるには、うちわ太鼓というのを、ドンドンドンとたたく。」
p201

これも後の時代にできた風習にすぎず、日蓮大聖人は太鼓を叩いてお題目を唱えるべきなどといっていません。宮沢賢治が花巻の町で太鼓を叩きながら題目をあげていたそうです。彼は、10代の頃に法華経を読んで深く感銘したようです。

 

さらに、

石原莞爾という右翼の軍人ですが、彼は日蓮思想でもって日本を強い国家にしようとした」(P204)

とありますが、石原莞爾の思想は八紘一宇であり、神武天皇を中心とした思想であって、日蓮大聖人の思想ではありません。「日蓮主義」などと呼んでおりますが、日蓮大聖人の思想や精神性とは全くかけ離れた異質なものであることを指摘しておきます。

 


日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」の意義について、観心本尊抄

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」

と述べられ、南無妙法蓮華経こそが一代聖教の肝要であり、一切法が具足されていると述べられています。御本尊は功徳聚ともいわれますが、会い難い経でもあるのです。
心ある人々は、ともに題目を声にし、また心にも唱えてまいりましょう。

 

それでは、最後までお読みくださりありがとうございました。

ゴッホとゴーギャン(ポスト印象派)~我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

フィンセント・ファン・ゴッホ 1853年3月30日-1890年7月29日
オランダ、ポスト印象派後期印象派を代表する画家。
率直な感情表現、大胆な色使いが特徴。
のちにフォーヴィスムドイツ表現主義に大きな影響を与えました。

 
アンリ・マティスフォーヴィスム

 
ムンクの「叫び」(表現主義


ゴッホは、オランダ南部の牧師の家に生まれ、画商で働いていたが、『聖書』や中世最高の信心書といわれるトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読み耽る一方で、金儲け主義の職場に反感を募らせていき、挙句、解雇されます。そして職を転々としながらも、日々聖書を読み、カトリック教会やルター派教会にも通ったといいます。
やがて聖職者になるために、父を説得し、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるのですが、受験科目の多さについていけず途中で挫折し、父からの援助も打ち切られます。

彼は貧しい人々に教えを説く伝道師になろうと、ベルギーの炭鉱地帯で自ら坑夫として労働しながら伝道活動を始めるのですが、過酷な労働条件や賃金カットで死に絶える労働者を目の当たりにして、不正義に憤るのではなく、『キリストに倣いて』のごとく苦しみに耐える中に神の癒しを見出すキリストの精神は、必ずしも人々の理解を得られなかったといいます。その後、ベルギー郊外で父からの仕送りを頼りに、デッサンの模写や坑夫のスケッチをして生活するのですが、そのような態度を弟テオに批判されます。
以後、弟テオの援助を受けながらミレーの絵を手本に素描の勉強をしたり、デッサン教本から学んでいました。
 
オランダ(ブリュッセル時代は、手痛い失恋もしたようですが、貧しい農民の生活を描くなど暗い色調の絵が多いです。しかしこの時期、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家と交流を持つようになり、ゴッホ自身も本格的に画家を目指すのであれば、アカデミーに進むよう勧められています。

種をまく人(左がミレー、右がゴッホによる模写)

その後、実家のエッテンやハーグ、ニューネンなどオランダ各地を転々とし、アムステルダムでは国立美術館を訪れ、レンブラントなどオランダ黄金時代の絵を見直します。
またベルギーのアントウェルペンに移ってからは、ルーベンスやジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買って部屋に飾ったそうです。この時期も、弟テオからの資金援助に頼っていたのですが、資金のほとんどは画材とモデル代に費やし、食費を切り詰めて生活していたといいます。

1886年、再び弟テオを頼りパリに移ってからは、印象派の影響を受け、明るい色調の絵を描くようになります。この当時、パリでは、ルノワール、モネ、ピサロなど従来の印象派の画家とは異なり、点描を敷き詰めて描くスーラやシニャックといった新印象派が現れていました。そんな中、ゴッホアドルフ・モンティセリという画家に傾倒したといいます。モンティセリは、印象派に先立つロマン主義の画家でドラクロワを崇敬していました。


公園での散歩 (モンティセリ)


南フランスのアルルに移ってからは、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を生み出していきます。
 
夜のカフェテラス」は、アルルに来た友人ウジェーヌ・ボックにカフェに連れて行かれたのをきっかけにして描いたそうです。(カフェで一杯飲む金もないので仕方なく絵を描いたとも。)当時、画材代は高く、ゴッホは食費も切り詰めて生活しており、パンとコーヒーだけの日々もあったそうです。
 
ある解釈によるとこの絵は、中央の人物はイエスキリスト、12人の客は十二使徒になぞらえたもので、レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」がモチーフになっているとも。
ゴッホはかつて聖職者を目指していたこともあり、画家になってからも宗教的情熱を失わずにいたとも考えらえます。
この作品を描いた頃、弟テオに手紙に対して、
僕には宗教がとても必要だということを毎日感じている」と胸中を明かしています。
ただ、通常、印象派は神や宗教を題材とすることはないため、本当にそういう意図があったのかは不明です。

星月夜 1889


1890年7月、ゴッホはパリから30㎞離れたオーヴェルという村の麦畑付近で拳銃自殺を図ったとされていますが、現場を目撃した者はおらず、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もあり、真相は定かではありません。


ゴッホは、とても人気のある画家であり、「炎の人ゴッホなど映画もたくさんつくられています。こちらは2019年公開の最近の映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」


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パリでは全く評価されなかったゴッホは、「新しい光を見つけたい」と南フランスのアルルへ向かう。どこまでも続く大地、風になびく麦の穂や沈みゆく太陽を見つめるゴッホは、「永遠が見えるのは僕だけなのか」と自身に問いかける。そんな中、パリからやって来たゴーギャンに心酔するゴッホだったが、共同生活は長くは続かなかった。孤独を抱えて、ひたすら自らが見た世界をカンバスに写し取るゴッホは、やがて「未来の人々のために、神は私を画家にした」と思い至る。晴れ晴れと穏やかなその瞳が最期に映したものとは――。(C)Walk Home Productions LLC 2018

シュナーベル監督によると、本作品は史実どおりではなく独自の解釈を表したものらしいです。



さて、次はゴーギャンの紹介です。
ゴッホとは一時期、共同生活をしていた画家です。


ポール・ゴーギャン 1848年6月7日 - 1903年5月8日


生誕
1848年のフランス革命」(二月革命)の年に、パリに生まれます
父は共和主義者のジャーナリストだったが、この政変によって1830年以来の七月王政が打倒され、ナポレオン三世の大統領就任を受けて一家はペルーに逃れます。

1848年のフランス革命
この革命はそれまでのフランス革命七月革命とは異なり、以前のブルジョワジー中産階級)主体の市民革命から、プロレタリアート(労働者階級)主体の革命へと転化した。この革命には、当初から社会主義者が参加しており、フランス三色旗に混じって赤旗も振られた。


7歳の頃に、再びフランスに戻りオルレアンで生活します。
ペルーではスペイン語を使っていたため、ようやくフランス語を学びます。
やがて証券マンとして働くようになり、余暇に絵画を描くようになります。
パリ9区には、カミーユピサロ、ポールセザンヌ印象派の新興画家たちがいて、彼らと交流しながら絵を描いていました。
アトリエを持ち、印象派展にも出展しますが、この頃はまだ不評だったそうです。

1882年にはパリで株式大暴落が起き、株式仲介人としての収入が激減したため、画家を本業にするものの、景気は悪く、絵は売れず、生活は困窮していました。しかし、その後も画家コミュニティで絵を描く暮らしを続け、ドガジャポニズムからの影響を受けながら、強烈かつ大胆な輪郭線と平坦な色面のクロワゾニスムを確立していきます。

ある時、ゴッホゴーギャンの絵を見て感銘します。
それはゴーギャンマルティニーク島で描いた絵でした。
(そしてゴッホは金がないので)弟テオがゴーギャンの作品を購入し、二人の交流は始まります。

1888年に二人は、南フランスのアルルにある黄色い家で、9週間の共同生活をしました。この間、互いのことを描いた作品として「ひまわりを描くファン・ゴッホ」や
ゴーギャンの肘掛け椅子」があり、互いに尊敬しあっていたことがわかります。

ゴッホゴーギャンが共同生活した「黄色い家

ゴーギャンの肘掛け椅子ゴッホ作)

ひまわりを描くファン・ゴッホゴーギャン作)

しかしやがて芸術観の違いや激しい口論の末、ゴッホの「耳切り事件」が起き、二人は別れます。ゴッホはその後も、神経症の発作に苦しみながらアルルの病院で入退院を繰り返したそうです。

1891年に、ゴーギャン仏領ポリネシアタヒチに滞在するようになり、現地を題材にした数々の傑作を生みだします。


タヒチの女(浜辺にて) 1891年



イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する) 1891年


そして50歳となる1898年には、有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を完成させます。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 1898年

絵のサイズは、139.1 cm × 374.6 cmで横幅が約3.7メートルあります。
絵の右側にいる子供と3人の人物は、人生の始まりを表わし
中央の人物は青年期で、青い像は、超越者(The Beyond)。
左側の人々は「死を迎えるにあたり人生を諦めた老女」だそうです。
足元の白い鳥は、「言葉の無力さ」を物語っているらしいです。

何といってもこの絵が人々を惹きつけてやまないのは、第一に、深遠で哲学的な主題のせいでしょう。われわれ人間や生命にとって、宿命的かつ根源的なテーマを問いかけたテーマだからです。これはゴーギャンが10代の頃に神学の授業で聞いた、キリスト教教理問答の「人間はどこから来たのか、どこへ行こうとするのか、どのように進歩していくのか」との問いがずっと心に残っていたことが影響しているらしいです。

ところがこのような傑作を描き上げたにもかかわらず、この頃のゴーギャンは娘を亡くし、借金を抱え、家の立ち退きを余儀なくされるほど生活に困窮していました。また健康状態も良くなく、失意のどん底であったため、自殺未遂を図っています。
(画家は、有名になって絵が売れるようになるまでが大変ですね。)
 
ゴッホも弟テオに対し、手紙で次のように述懐しています。
私にはいつも、自分が、どこかのある目的地に向かって歩いていく旅人のように思われる。どこかのというのは、実は決まった目的地がないからだ。そのことだけは明白で真実のように思える。だから、生涯の最後になって、きっと自分は誤っていたということになるだろう。その時には、美術ばかりか、そのほかのすべてのことも単に夢にすぎないし、自分自身は結局何ものでもなかったということがわかるだろう・・・・・・
 
私の悩みはまさにこのことだ、自分は一体何の役に立つことができるのだろうか、何ものかのために、有用な、意味のある役割を果たすことはできないだろうかという疑問だ・・・・・・

このように後世においては、その名を知らぬ人はないほど多大な影響を与えたゴッホも、存命中はこのような苦悩の胸中であったことを明かしています。上述の手紙からは、絵画に関する問題や経済的な貧しさより、人生の目的や自己の存在理由について、確固たる心の拠り所が得られないまま、彷徨っているようにも感じられます。ゴッホは最後、精神病を患い、拳銃自殺したそうですが、ゴーギャンの問いである「我々」の存在本質や人生の目的について、何らかの意味を見出すことができたのでしょうか。
 
ゴーギャンの問いは、我々人間にとって最も根源的な問題であるとともに、仏法が探究し続けてきた究極的なテーマですので、また次の機会にまとめてみたいと思います。
 
最後までお読みくださり、ありがとうございました。