日興遺誡置文

1五一相対(ごいちそうたい)を示して訓戒す


さてよく考えてみると、末法に弘通される太陽のごとき仏法は極悪の謗法の闇を照らし、久遠寿量の南無妙法蓮華経という妙なる風は釈尊伽耶城(がやじょう)の近くにおいて始めて覚りを成じたという権教を吹き払った。この仏法に巡りあうことは、まれなことであり、優曇華うどんげ)の花の咲くことに譬えられ、また、一眼(いちげん)の亀が浮木の穴にあうことに譬えられる。それでも足りないぐらいである。ここに我等は、宿縁が深く厚いことから、幸いにもこの経に巡りあうことができた。従って後代の門下のために、個条書きにして一つ一つの項目を書き遺したのは、ひとえに広宣流布せよとの日蓮大聖人の御言葉を仰ぐためである。


一、日興門流が立てている教義は、いささかも先師・日蓮大聖人の御化導に相違していないこと。


一、五人の立てた教義は、一つ一つ先師・日蓮大聖人の御化導に相違していること。


一、日蓮大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、日興門流を誹謗する者があるであろう。  もしそのような悪侶が出現したら、親しみ近づいてはならない。


一、偽書を造って御書と称し、本門・迹門は一致であるとして修行をする者は師子身中の虫であると  心得るべきである。


一、謗法を呵り責めることもなく、遊び戯(たわむれ)れ、雑談等の振る舞いに明け暮れたり、  外道の書物や歌道を好んではならない。


一、信徒の神社・仏閣への参詣を禁ずるべきである。まして、僧侶の身でありながら、  一見と称して謗法を犯し悪鬼が乱入している神社に行ってよいはずがない。(そのような僧侶がいることは)返す返すも残念なことである。  これは、全く私が勝手に言っているのではない。  経文や御書などに説かれている通りに戒めているのである。


2  門下に行学二道(ぎょうがくにどう)への精進を促(うなが)す


一、才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸(もろもろ)の用事をしなくてもよいようにし、  御書をはじめとして仏法のさまざまな教えを学ばせるべきである。


一、(仏法の)学問がまだ完成していないのに、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)を考える僧侶は、  私(日興上人)の末弟ではない。


一、 私(日興上人)の後代の弟子たちは、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、  父母や師匠の恩を振り捨てて、生死の苦しみから出て仏道を証得するために、この寺に登って  学問をすべきである。


一、大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない。


一、日興門流においては御書を心肝(しんかん)に染め、極理(ごくり)を師から受け伝えて、  その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである。


一、(仏法についての)論議や(正法の)講義、説法を好むべきであり、  それ以外のものは慎まねばならない。


一、広宣流布は成就しない間は、身命を捨て、おのおのの力に随(したが)って妙法弘通に励むべきである。


3  仏法護持の根本精神を示す


一、我が身は軽く法は重しとして仏法実践に励んでいる者に対しては、たとえ下劣の法師であっても、  「当(まさ)に仏を敬う如くにすべきである」との道理にのとって、その人を敬うべきである。


一、妙法を弘める法師は、  たとえ身分の低い者であっても、(修行を積んだ)老僧のごとく思って敬うべきである。


一、たとえ位の低い者であっても、自分より智慧がすぐれている人を、師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。


一、たとえ、時の貫首(一宗の法主)であっても、仏法の正義(しょうぎ)に背いて、  勝手な自説を立てた場合には、これを用(もち)いてはならない。


一、たとえ宗内の多数で議決したことであっても、  (大聖人の)仏法と相違があるならば、貫首(一宗の法主)はこれを打ち砕くべきである。


4  日興門流の化義(けぎ)を示す


一、法衣(ほうえ)の色を黒くしてはならない。


一、直綴(じきとつ=法衣の一種)を着てはならない。


一、謗法と同座してはならない。与同罪(よどうざい)になることを恐れるべきである。


一、謗法の者から供養を受けてはならない。


一、刀や杖等の武器を持(たも)つことは、仏法を守るためであれば許される。  ただし、仏前に出る時には、身に帯びるべきではない。  ただし(その時でも)、一般の衆僧等の場合は(自衛・護衛のために)許してもよいのではないか。


一、たとえ若い僧侶であっても、位の高い檀那より下の座にいてはならない。
 
一、先師・日蓮大聖人のように、私(日興上人)の門下の振る舞いも聖僧であるべきである。  ただし(将来において)時の貫首(一宗の法主)、あるいは習学中の僧などが、  一時的に女犯をしたとしても、(破門せずに)平僧にしてとどめておくべきである。


一、難問答に巧みな仏道修行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえるべきである。


5  二十六箇条厳守を遺誡する


右の条目は、大略以上のようであるが、未来永劫にわたり、一切衆生を救い護るために、二十六か条を定め置くのである。後代の僧侶はあえて疑惑を生ずることがあってはいけない。このうち一か条でも犯す者は、日興の門流ではない。よって定めるところの条目は以上の通りである。


元弘三年 酉癸 正月十三日     日  興 判