サミュエル・ウルマン「青春」


青    春 
(サミュエル・ウルマン 訳:岡田義夫)

 

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、

怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、

こう言う様相を青春と言うのだ。


年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望

こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、

精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。


年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
 
曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、

その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、

事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、

人生への歓喜と興味。

 
人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる
 
人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる
 
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる
 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、

そして偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない。

 
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、

皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば

この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。


サミュエル・ウルマン(1840-1924)は、ドイツ出身のユダヤアメリ人の詩人。
南北戦争では南軍の兵士として従軍し、除隊後は結婚して8人の子供をもうける。
ミシシッピ州で市会議員を務めた後、アラバマ州金物屋や不動産業など様々な事業を行っていたが、教育委員会に長年在任するなど教育活動にも熱心だった。とくに黒人教育に関心を寄せ、黒人にも白人と同じ教育を行うことが教育的にもプラスになると主張した。このほか、病院の設立など多くの地域社会活動に携わった。
「青春の詩」"Youth" は、ウルマンが70代で書いた詩で、詩集 From the Summit of Years, Four Score に収められた作品のひとつである。
日本でこの詩が普及したはダグラス・マッカーサーが関わっている。1940年頃に友人のコーネル大学教授からこの詩を贈られて大変気に入り、マニラや東京の執務室の壁に額に入れて飾り、講演でもたびたび引用した。

パナソニックの創業者である松下幸之助氏もこの詩を座右の銘として紹介し、手書きで揮毫して額に掛けたり、講演等で引用している。

サミュエル・ウルマン

 



今日は大学生のY君に、池田大作著「青春抄」を差し上げた。最近は折あるごとに池田先生の本を贈呈している。今日で4人目。「池田大作という人を知っているか?」と聞くと知らないという。創価学会の会長だと伝え、しばらくして少しめくって読んだというので、何が書いてあったのかと聞くと、青春とは心の若さというようなことが書いてあったと。そのとき、「心の若さを詠った詩としてはサミュエル・ウルマンの詩も有名だね」などという話をした。その後、この詩が示す輝きの源泉はたしか"理想と情熱”だったか・・・?、などと記憶を辿ったりしていたが、あらためて読んでみると色々な言葉が散りばめてあり含蓄が深い。

 


若さ(アンチエイジング)の秘訣として挙げられているのは

優れた創造力

逞しき意志

炎ゆる情熱

怯懦を却ける勇猛心

安易を振り捨てる冒険心

理想

情熱

驚異への愛慕心

事物や思想の対する欽迎

事に處する剛毅な挑戦

小児の如く求めて止まぬ探求心

人生への歓喜と興味

信念

自信

希望

大地、神、人  より

美と喜悦

勇気と壮大

偉力と霊感 を受ける

 

とこのように、よくみると哲学的であり、宗教的でもあり深い。

仏典と響き合うようなフレーズもある。

「勇猛精進」

「浅きを去って深きにつくは丈夫の心」

「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず」

 

どれも精神的価値であり目に見えないものなので、それらはたしかに大事な要素だと思いつつも、あるのかないのか感じ取り難い。これらの精神的な価値や人格的な特質は、お金のような財産的価値などと違い視覚化も数値化もされないので、これらの要素が人によってどの程度あるのかないのか、意識されたり、語られたりする機会は乏しい。しかしそれらはどれも人間として、人生を輝かしいものにしていくための大事な要素である。

 

反対に老いさせる要素は、

苦悶、狐疑、不安、恐怖、失望 などが挙げられる

これらはどれも生きている以上、避けようのない要素といえる。仏教でいえば、「生老病死」「四苦八苦」に相当するかもしれない。それらは避けられるものではなく、いかに対峙し輝きに変えていくかが信仰者の生き方となる。

 

最近、ネットやSNSを通じ、若者に強盗を仕向ける事件が相次いでいる。ルフィ一味による資産家強盗・殺人。銀座や川崎での時計店強盗など。バイト感覚の”ノリ”で犯罪を行う若者たち。若さゆえに簡単に悪事に染まり、愚かと評されるが、最も非難されるべきは、平然と若者を使い捨てにし、不当な利益を得ている悪党である。現代の日本でこのような事件が起きるのは、人々から精神性が失われているからではないか。法律があっても、捕まらなければよい、バレなければよいと考える人がいれば、悪事は絶えない。社会のルールや規範とともに大切なのは、自律的、内律的な自己規律である。健全な哲学、目的観や人生観。苦悩と対峙する希望の哲学。これは明らかに持ってる人と持ってない人がおり、日々の、長い修練によって培われる。では、それは一体いつ育む機会があったのか?いつそれらのことが考えられ、語られたのか?学校教育には集団規律のようなものはあるが、自己を統制するようなことは学ばない。大人になったらお好きにどうぞだ。しかし実際、大人の社会では卑俗的な関心に狭められてしまっている。皮相的な出来事に終始している。なぜそうなっているのか、ではどうすればいいのか、今の私にはそれらを明確に述べる力量はない。しかしシンプルに他律と自律という観点からいうと、他律は法律であり広く一般に適用されるのに対し、自律は思想、良心の自由、人生観など個人的な領域にあるため、強制力を働かせることはできない。理想、願望、情熱、興味、関心、テーマ、目標、人生観、善悪観、自律心。それらはあくまで各個人が自己のうちに見出し、能動的、主体的に望み、つかみとっていくべきものだからだ。そのためには自身の情熱のありかを掘り当て、燃やし続けなければならない。運よく、生まれながら才能、資質、環境、機縁に恵まれ、それらの価値を有している者は幸いであろう。いま私は本を渡そう。少なくとも、そこに書かれてある言葉は私が発するものより力があり、響くだろう。私が自身の言葉を忌憚なく放つには、不足していることがありすぎる。